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あいうえおかき 言葉の展覧会   RSSフィード

2017-03-17 『仲・間がいる』*No.2904

aiueokaki2017-03-17

仲の良い間

仲良しの間

仲   間

 仲・間

「それはひととひとの間ではなく

線と線との間で ・・・・・

草のようにつねに何かの中間にいる」

「点をつくらないこと

点としてとらえないこと

それよりもむしろ

もろもろの線を描くことだ

線は過去も起源も歴史も記憶もつくらない

常に中間を通じておこなわれる

ひとはいつでも草のように つねに何かの中間にいる」

 中間としての

 仲・間

う〜ん いろいろ想ってみる


息苦しいよー

ひ と り になれない

逆   らえない

自由が 自由がなにも ない

い、い、いじめられる

集団というもの組織というものシステムというもの

・・・・・・

ここで 仲・間をおもう

友を 自分を 同志をおもう

チッソクスンゼンノソシキハ

タダチニ ソッコク

ダッセヨ 脱せよ!

おかしくなる前に

うつ病でたおれる前に

過ろう死の前に

じ殺の前に

ダッセヨ ダッセヨ 脱せよ!!!


仲・間がいる

草のようにいる

間に

間をひらけ

間をとりもつ

仲・間がいる


遠くであろうが

大昔であろうが

未来であろうが

中間の仲・間がいる


仲・間をおもう

たいせつなことってなんだ

かけがえのないことって

生きるよろこびって

しあわせ

って


つながるってなんだ

あなたはわたしの仲・間だよ

たいせつな、たいせつな


間に入れ!


きっといつか

どこかで

だれかと

そんな仲・間





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※「」内は、ジル・ドゥルーズ対話』より




2017-03-16 住民の力でつくった!! 桜と水仙の桃源郷

・・・・〜「にしたによいしょ」4月号〜

特集: 住民の力でつくった!! 桜と水仙桃源郷

          宝塚大原野東部

        ごろく山里    

          goroku sanri

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2017-03-15 『切り株の芽吹き』*No.2903

aiueokaki2017-03-15

・・・・・・・・・ 〜切り株 8〜



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苔むした切り株に



芽吹きがありました



長い

長い年月でした





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2017-03-14 『センス・オブ・ワンダー 8』*No.2902

木は

ちいさな

ちいさな

生きものたちの

大きな

大きな

お家


食べ物も寝るところも

あそびたわむれる処もあって

友だちと自分とみんなのことを

とてもたいせつにおもえる

お家



私が抱きついた

大好きな








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2017-03-13 『ソーラーシェアリング:ソーラーの里づくり』*No.2901

昨秋より、ぼくんちの田んぼにとりつけられたソーラーシェアリング(5基目)

今月終わりごろには、他のもう一つの田んぼにソーラーシェアリング宝塚西谷で6基目)をとりつけられる予定です。


   

宝塚市西谷地区が紹介されました(関西テレビ「みんなのニュース」)

https://www.youtube.com/watch?v=Sp1rJRPXmN8

facebook http://www.facebook.com/yamamotocotaro

※前回2月の「農を語ろう会」でテーマになった「再生エネルギー」について

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       (西谷の「農」を語り合おう会  2017年2月)



ぼくんちの田んぼを貸して、ソーラーシェアリング5基目は、同級生のコイエが、☆ソーラーシェアリング6基目は、レンゴウジチ会長のニシダさんが取り付けました(取り付ける予定です)。














2017-03-12 『センス・オブ・ワンダー 7』*No.2900

ときどき私は何かに誘われるように

引っ張られるように

里山へ出かける

森の中には

私を呼び寄せてくれる木が待っている


そこに大好きな木がいる

また会えましたね

うれしい

うれしいよ


私は大好きな木を抱きしめる

うれしいよ

うれしい

ぎゅっと抱きしめる


鳥は歌い

森の美しい音楽が流れる

木漏れ陽が木と私にチラチラ当たり

きらきら輝き


いのちの流れを聴く


永遠の喜びにひたる

うれしい

うれしい


いつまでも





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2017-03-11 『センス・オブ・ワンダー 6』*No.2899

ここへ来れば必ず里山に出かける

幼子と共に里山へ散歩

さあ、森の中のたんけんだ

いろんな植物と出会い

いろんな鳥や虫と出会う

それぞれの名を呼び

出会いと発見の喜びに

胸をときめかせる


後で

幼子はみんな名前を憶えていた

一度も教えたこともなかったのに










2017-03-10 『センス・オブ・ワンダー 5』*No.2898

ドドーン、ドドドド、ドドドーン

バシャーン、バババババシャーン

岩を打ち砕くような荒波、波、波、波

ヒュルルルヒューン

ビュルルルビュービュービューン

荒び嘶く嵐、巨大な海の嵐


この荒々しさのまっただ中に

たった一匹、じっとこらえてひそむ

カニ


どこまでも透き通る真っ青な空

下につづくおだやかな海

のんびりと

ポカポカ陽があたる浜辺でよろこび戯れる

カニ


この荒々しさと穏やかさの世界に

たった一匹暮らしている

カニ

そのカニに会うために

レイチェルと幼子のロジャーは出かける


自然は容赦なく生き物を突き飛ばし

命を奪う

自然は愛で遊ぶためにだけあるのではない


二人は自然に会うために出かける

地球創生のすがた

未来のすがたをみつけるために


歩く

自然の惨さと安寧を知るために

歩く

自然という残酷さと慈愛に出会うために

歩く

過酷さの中に

ひそんでいる優しさを見つけるために










2017-03-09 『できたぞ! MARGAビオトープ』*No.2897

もう何十年も ずいぶん長い間

死んでいましたね

水や土に毒が混ざってから

あなたの仲間が絶滅してしまうんじゃないかと

悲しんでいました

ヒトってほんとうにひどいことをするね

ぼくもそのヒトのうちだからもうしわけありません

ごめんなさい あやまってもあやまりきれないけど・・・・・

罪滅ぼしとして


〜かつて生息していた田んぼや川辺の生き物の再生場〜


MARGAビオトープ

をつくりました。

とりあえずは、こんなちっぽけな場所だけど、再び生きてください。



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(昨日、井戸水を入れました。)


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(今朝も霜が降り寒かったので、氷がはっていました。)


水が漏れていません(田んぼの土を掘ったままでしたが)。よかった!!
















2017-03-08 『センス・オブ・ワンダー 5』*No.2896

・・・・・・その5

身体が凍てつくような寒い寒い夜に

ぼくは家の外に出て

裏の里山に向かった

懐中電灯も持たなかったので足元が覚束なく

かろうじて里山にたどり着いた

星はまったく見えない

真っ暗闇と言っていいくらいの

闇だ

ぼくは何か得体のしれないものを感じた

それは孤独を通り越して

心底から湧き上がってくるようだ

大きな何かにつつまれているという感じで

背中がゾクゾクしてくる

寒さのためではなく

よろこびのために



レイチェル・カーソン

今ぼくは、あなたの足下にいます












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3月8日の早朝に







2017-03-07 『センス・オブ・ワンダー 4』*No.2895

・・・・・・その4

見えた!



あの暗闇の向こうに



満天の星













2017-03-06 『センス・オブ・ワンダー 3』*No.2894

・・・・・・その3

真っ暗闇の里山の中に

立つ

ぼくはたった一人


包まれている

闇に  暗黒に 何かに

包まれている

得体のしれぬ何かに

包まれている

地の球に

包まれている

宇の宙という何かに








2017-03-05 『センス・オブ・ワンダー 2』*No.2893

・・・・・・その2

歩く 歩く

真っ暗な道なき道を

闇の里山

感覚だけを頼りに

歩く 歩く

闇の中を彷徨いながら

歩く 歩く

感覚を捨てて

歩く 歩く



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2017-03-04 『センス・オブ・ワンダー 1』*No.2892

aiueokaki2017-03-04

こんなにも恐くて

恐ろしくて

畏敬すべき

懐かしいものだったとは



・・・・・・その1

風の音を聞く

風の呻きを聞く   

真っ暗闇の中

唸り 泣き 悲鳴をあげている

その恐ろしさと寒さに

身は凍える

だが

暗闇の風の中に浸っていると

じょじょに

・・・・じょじょに

音は静まって

やがて昊の

風の歌を聴く





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2017-03-03 『聴いていたい』*No.2891

・・・・・・・・・ 〜切り株 7〜

どうして

透き通った純粋な声で

歌えるのでしょうか

茨に刺さりながらつらい道を歩いてきたひとが



ぼくはずっと

歌を聴いていたい





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2017-03-02 『母と』*No.2890

九十歳になった母は

いつものように穏やかで静かな母でした

四十年間も献身的

下半身不随の夫(父)の世話をし

ごくあたりまえに支えてきた母

・・・・・


車いすを押して一緒に散歩に出ても

よく笑ってくれました





ぼくはどうしたらあなたを

しあわせにできるのでしょうか








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2017-03-01 『ゆったり』*No.2889

・・・・・・・・・ 〜切り株 6〜

ゆったりと湯につかる

杉の木でできた大きな風呂

「10年前にこの風呂をつくったんですよ」

そんな話をゆっくりと聞きながら二人で湯につかる

「あの湯の元の水を飲んでみてください」

飲んでみると、イオウの味がする

2杯、3杯と飲む


あたたかい声を聴いたので

ゆったりと心を湯につける

湯ったりと 心を空っぽにして

心の底からあったまる





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2017-02-28 『道はないが』*No.2888

・・・・・・・・・ 〜切り株 5〜

まだまだ時間がかかりそうだ

この道


山はぞくぞく

森はぶるんぶるん

木々はゆんらゆんら

ゆれている


見えないところで


道はないがもどるんじゃない

もどるんじゃない


道はできたかもしれないが

そっちじゃないそっちじゃない


道は無いが

あっちが道で

本当に求めている道で

自分が切り拓いていかなければならない道で












2017-02-27 『あこがれ』*No.2887

・・・・・・・・・ 〜切り株 4〜

あこがれは持ってほしい

一つだけじゃなく

あれもこれも

いっぱい



一つだけじゃあまりにもつまらない

一つだけじゃあまりにもやりきれない

一つだけじゃやっぱり裏切られる

一つだけじゃとうとう馬鹿になる

いつかきっとわかるときがくるよ

そう、30年経った後で



だから

あこがれなんていっぱい作っておくんだよ

自分を見失わないために

自分を壊さないために



ほら

そのへんにごろごろ

あこがれが転がっているじゃないか



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2017-02-26 『ざまくれ』*No.2886

aiueokaki2017-02-26

人間やめんとこ

と言われた言葉は

未だに心の奥底にしまったままだ


岸本おじさんとの長年の付き合いから

かれの生き方はぼくの憧れの的

あの松葉杖だけで世界中のいろんな国を旅するなんて

震災後、あの歩けない立てない身体でネパールに学校を建てるなんて

辛く残酷な現実の中で、生きる望みを捨てず常に前を見て自分の道を歩くなんて


ただ

生きる糧として

詩を肌身離さず生涯携えて行くことはぼくにはできそうだ

だから岸本康弘さんは、ぼくの師匠


歩いて来たのは酷い道だが

また新たな道の創造でもある


ジメジメと薄暗いなかに

わずか一条の喜びの光を発見し

かすかな風のささやきに

さそわれて

また新たな旅に出よう




******

 夜の大阪「六条」。探し回って見つけた透き通ったガラス扉の向こうは灯りが眩しく、多くの人たちが賑わっている。ぼくはおそるおそる扉を開けた。

 すると、傍にいた白髪の人が、「もう終わりましたよ」とぼくに告げた。

・・・(中断・つづく)・・・





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2017-02-25 『内と外が通じて』*No.2885

・・・・・・・・・ 〜切り株 3〜

捨てたからだ

捨てきれないからだ

きっぱり切ったからだ

やっぱり切れないところもあるからだ


でもあそこでは

内側が空洞になって

スーッ スーッと風通しよく

外と内が往ったり来たり

生命が生じる起源は

こんなものだったのだろうか



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2017-02-24 『自殺事件』*No.2884

・・・・・・・・・ 〜切り株 2〜

自分を殺める事件があったのです

遠い過去に

遠い虚構の過去に



だから私はいま

生まれ変わっているのです

きっぱり自分を殺害しちゃいました

そしてまた新たな生成です

だからスッと素直に前を向けるのです

まだ透明にはなっていませんが





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2017-02-23 『切り株 1』*No.2883

音が聴こえています

どこからか

あの木からか

いや、あの株からか



どこかで太鼓をたたくような音

ドンドン ドンドンドン ドーン

ドドドド ドドーン ドンドン

あれから私はズーッと

ズッとズッと聴き続けています

あの懐かしい

あまくておそろしい太鼓の音を



どこからも聴こえない

遠い遠い太鼓の音

ドンドン ドンドンドン ドーン

ドドドド ドドーン ドンドン

私は未だに聴き続けています





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2017-02-22 子どもの詩を読む

1.子どもの詩を読む視点

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清人


 久しぶりに子どもの詩を読ませてもらった。しかも小学校1年生から中学校3年生まで。かなりの数があり時間が相当かかったが、とても楽しかった。食事をとるのを忘れるくらいだったからとても集中していたに違いない。知らないうちにフーンとか、オオッとか、ハハハハとか声を出しながら選考はそっちのけで読んでいた。読んでいるうちに、子どもの詩を読む視点が6つばかり見えてきた。

 一つ目の視点は、子どもそのものの面白さだ。原初的なヒトという生命体の面白さと言い換えてもいい。5千年ほど前にヒトは言葉を発明したそうで、今それを使うのがあたりまえになっている。個体発生は系統発生を繰り返すと言われるとおり、子どもが幼なければ幼いほど私たちヒト(祖先)が言葉を使いはじめた頃を想起させる。そこでは子どもが使う言葉が、初めての発見や体験の驚きや喜びにリンクする。

 子どもはみな詩人だと言われる。子どもの吐き出す言葉が、大人の常識をやぶり、意表をついていたり、体裁や偏見や虚飾を剥ぎとったりする。それは良くいえば、無垢、純真、純粋なこころでものや人を見ているからである。悪くいえば、無知、単純さ、視野の狭さ、幼児性等の表われともいえる。でもそれらは子どものもつ原初性ゆえであるとぼくは考える。原初的な表現は、齟齬になったり意外性をもたらしたりして面白い。

 もうひとつ、子どもそのものの持つ野生がある。それは野蛮といっていいし残酷さといってもいい。それが短く書かれたもの(短詩型文)のなかに表われたときは、ドキッとするものがある。それは詩とされず、落書きのほうに追いやられるので日の目をみない。良い野生ならいいが、人類の弱肉強食で勝ち抜いてきた暗黒の部分も見なければと・・・。

あともうひとつは、あそびである。「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」という言葉があるように、まさに子ども子どもらしさは「あそび」にあるとおもう。子どもはあそびやごっこを通じて、人やものとの関わり方や見方を学んでいくのではないだろうか。あそびは人間性を培い、人生の豊かさをつくり、成長をもたらしていくにちがいない。大人になっても持ち続けている遊び心が、アイディアや創造をうみ、社会関係を円滑に楽しくしていく。ある意味では今あるスポーツや芸術、芸能等は、生き伸びる衣食住生活(生存)以外の余剰を埋めるあそびの変調ともいえるだろう。子どものあそびの詩は、人の文化の遡及である。

 なにはともあれ、子どもがそなえる原初性にはとても輝くものを秘めていて、それを書くという行為によって表出して交流し、共有し、内省し、そして楽しむことができる。

その輝きは、年少になればなるほど光り輝くものが多いが、学年が上がっても持続してもちつづけ育てている子もいた。学級や学校で育てるなら、なお素晴らしい。

二つ目は、子どもの生活(暮らし)という視点である。

 かつて生活を見つめて書く、生活綴り方運動があった。家族や自分の暮らしをしっかりと見つめ、綴っていくことによって自分を見つめなおし、それらを共有し合って変革していくというものだっただろうか、記憶に乏しい。子どもの見つめ方は原初性でみたようにまっすぐである。純粋な見方である。それが短い詩だから余計にズバリと的をついているものがある。大人の矛盾も見栄も虚飾も見透かされる。それにしても、母や父、それから兄弟姉妹、そして祖父母との関わりの詩はなんとほほえましいのだろう。身内にくるまれたあたたかなほほえましさだ。「ほめられると心の中にお花が咲くよ」(小二)など読んでいると、あったかい家族の光景が浮かんでくる。生活を見つめて詩や文を書き続けることで、人やものを見る目、社会を見る目が育っていく。

学校での生活は、家庭と違って、他者が多く増えたぶんだけ少しシビアになる。ここでは規律や協力、助け合い、けんか、いじめ、責任、自由、友情等といったテーマが出てくる。家庭ではほほえましかったけんかも、いじめや暴力等に発展する。先生や友だちを書くことによって他者を知り、痛みを味わい、他者との関わり方を考え、社会性を身につけていく。学年を追うに従って、自分を客観視した社会的な詩が多くなってくる。描写力の鋭さや表現の豊かさが見られる詩は、そのまま観察力やこころの豊かさとなって生き方につながり、大人に近づいていく。

以上、子どもの詩を読む二つの視点を自己流に書いてみたが、あと「感性・想像力・変容」の視点、「思考・見る目」の視点、それから「希望・夢・未来」の視点、そして詩にとって(人間にとっても)大切な「言葉・詩」の視点を考えている。それらはまた次の機会に述べたい。

とにかく、子どもの詩は面白く、楽しかった。読んでいるときには、自分の中に子どもがいた。



2.感受性のレッスンと想像力のトレーニング?

感受性という言葉を想うとき、「ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにするな ・・・・・ 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という茨木のり子の鮮烈な詩が浮かんでくる。今日、感受性が豊かなはずの子どもたちに、感受性の不毛という現象が起こっていると学識者は嘆いている。というのは多くの子どもたちが、テレビやネットから、それに家庭や学校や塾等のおとなから知識や情報ばかりが注入される型にはまった惰性的な生活を強いられるあまり、深い喜びも驚きも感じない感動なき毎日を送っているというのだ。としたら、感受性を取り戻さなければならないと思う。が、県下から寄せられた2千人近くの子どもたち(小1〜中3)の詩を読む限り、そんなことはないように思う。いや、不毛の時代だとしても、この列島の津々浦々で詩を書いている子どもたちは、今尚みずみずしい感受性を所持しているんだ、と誇ったほうがいいのかもしれない。ここではしばらく、子どもの詩を感性からの視点で考えてみたいと思う。

 日々私たちは、その時その時の気分で生活し生きている。子どもはそれが露わで素直である。よく泣きよく笑う。また小さなことでも恐がったり、ささいなことでも驚いたりする。子ども感受性は鋭敏で広く、豊かである。だからこそ突然、激しいものに見舞われることもある。ものすごく腹が立ったり、恐怖のどん底に落とされたり、飛び上がって喜んだりする。あるいは時が過ぎればすぐ忘れるものであるが、深い悲しみに陥って涙したり、どきどき胸がときめいたりもする。感動は詩の源泉であり、原動力にもなっている。子どもの詩がおもしろく強く心を打つのは、稚拙ながらも以上のような 感情の起伏が大きく、幅広く、また直接的であるからだ。それは子どもの生き方そのものである。

 子どもの詩は感受性の上に成り立っていると言っても過言ではなく、子どもたちの生活がみんな違っているように、ある一つのモノやコトを見ても感じ方は千差万別であり、感受性は色とりどりで、いろんな詩がある。その時々の気分や情動を切断して、書き留めておくことはとても大切である。

 だが、歳を経ておとなになって行くにしたがって気分や情動は薄れてゆくようだ。やがて情報ばかりが飛び交う消費生活に溺れ、たんたんと均一的かつ機械的な毎日を送るようになって感受性が弱まり感動なんてものはもうすっかり忘れ去ってしまう。つまり消費や金しか考えない日々の生活に追われて「ぱさぱさに乾いた心」になってゆくのである。ある日おとなは(あるいは自分がおとなになって)子どもの(自分の)詩を読み、感受性の豊かさにおどろき、子どもを(自分を)再発見するときもある。

 ところがおとなになっても、子どもの感動や情操を保持している希有な人もいる。豊かな感性と心を持って、人と接し社会を考えながら楽しく生活を送っている人を何人か知っている。彼や彼女たちの心には、子どもの頃から詩人が住んでいる。この国の未来はまだ救われている。

 さて学校では、情操教育という言葉がたいへんよく使われているようだ。特に教育目標や方法、指導要録に多用されている。それもそのはず学校という共同体や社会においては、時々の我が儘な気分だけではやっていけないし、ぶつかり合いばかりが起こる。その気分や情動を大切にしながらも、社会的価値を備えた、感情の複雑で高次なもの、すなわち情操を養う必要性があるからだ。だが今日、 情操教育や生きる力等と言いながら受験に向けた知識偏重の教育がまかり通って、実際には感受性を養うことは二の次になっているらしい。

 にもかかわらず学校教育において情操を培っていくには、感性のレッスンが一番だと思う。それは国語における詩や綴り方の授業だけでなく、図工・美術や音楽、体育、理科等あらゆる教科において展開されるべきである。特に詩や作文の授業においては、言葉の芸術でもある詩(ポエジー)を中心に置き、日々の生活の中で思ったことや気付いたこと、驚いたことや感動したこと等を書かせたり、お互い読み合ったり、詩人の詩などを読ませたりすることはたいへん必要なことである。見たり、聴いたり、触ったり、味わったり、嗅いだりする感覚を、詩を書くことや読むことによって鍛えることはとても大切である。日記・綴り方のように日常化(習慣化)するならもっといい。子どもはみな詩人である。子どもの詩にはみんなそれぞれ素敵な感受性が見られる。子ども感受性によって詩を生みだし、感受性によってみんなと結ばれ、情操を培っていく。それは楽しみや喜びにもなり大きな感動を生む場合だってある。

感受性(感動)は子どもの、いや人間の奥深くに隠されている生きることの証でもあるからだ。

 子どものときにしかできない大事な育て方、それは子どもに詩を読ませ書かせることである。書かせなくても、自ら書きたがり書いている子どもはいっぱいいる。より面白く楽しく生きようと内から欲するものがある。

 最後に子どもが書いた詩を整理してあげ、再び発見させてあげること、これが詩集や詩の本(この『子どもの詩と絵』のような)のよさである。書いた詩を読み合う、読んでまた書く。情操はこのような感性のレッスン(作業)を通して培われ、子どもは成長していく。心の成長である。


 感受性の次は、それと深く結び付いている想像力である。

 最近はよく「想像力」という言葉を目にするようになった。広告や言説などに使われ出したからなのだろうか、「他者への想像力を欠いた振る舞いが多い今日」とか「想像力を不断にめぐらす努力を」、「境界を越える想像力を」等と「想像力」は、巷に溢れ出している。このことは、他者地球環境とのかかわり方、世界の見方、そして心の有りようにおいてその必要性が出てきた所以であろうか。とにかく、他者にたいしても、社会や環境にたいしても想いをはせることの欠如(ただ殺したいから殺人やいじめテロ二酸化炭素の過剰排出や原発)を埋めるために時代の要請として出てきたように考えられる。どうやら想像力が備われば、憎しみや嫉妬、殺し合いが消え、環境問題解決し、平和で住みよい社会が訪れるということなのだろう。この傾向は良いことだとも思える。

 としたら、教育に於いても当然、想像力を培う学習が率先して行われてしかるべきであるはずだ。現教科学習にもそれは取り入れられているが、図工・美術の想像力文学(国語)の想像力、道徳的想像力はもとより、算数の、社会科の、理科の想像力等々、あらゆる教科において今日、想像力は水面下で養成されている、と言ったほうがいいのだろうか。もっとも想像力は各教科といった縦割り制度にはそぐわず、横断的に総合的に、それらの境界を越えて作用するから、教育目標的に取り扱わなければならないのかもしれない。

 以上のようなことを前提に想像力の育成を考えると、より重点的かつ具体的な想像力のトレーニングも浮上してくる。特に力を入れなければならないのは、文学(国語)の想像力アート(図工・美術、音楽)の想像力、そして身体の想像力(体育、食育)であるだろう。これらの教科は、感受性(情操)を豊かにしていくうえでも、最も適した教科であるだろう。

 さてここらで、子どもの詩に戻ろう。今回の兵庫県下に於ける小一から中三までの一〇〇〇人以上の詩を読んでいて気付いた傾向は、「成りきり詩」が多かったということである。それは全学年を通じて見られた。他者の立場や気持ち、鳥瞰的な視座や思考を養う上で、この詩の指導方法は技法や訓練としては適しているように思える。工藤直子さんが提唱したのだろうか、この「成りきり詩」も一つの想像力のトレーニングであろう。しかし、それはある程度有効で、これが全てではない。一つのステップとして捉え、現実との往還と現実への立地のため次のステップへ行かなければならない。というのは子どものとき、想いを馳せるのはあくまでも自分の生活のなかから、自分と自分をとりまく他者や世界であり、まだ学びの途中であるからだ。「成りきり詩」以外にも、例えば「見えないものを見る詩」、「癒や詩」、困難や苦しみに「立ち向かう詩」、壊れたものや捨てられたもの、駄目なものを蘇えらせ素敵なものにしていく「なんでも宝ものにする詩」等々が考えられるだろう。

 想像力のトレーニングは、トレーニングと意識せず総ての教科、毎日の生活のなかで行わなければならないだろう。なぜなら想像力は今日の文化を支え、突き動かし、明日のより良き自分や社会を創造していく処方箋であるからだ。想像力は創造力でもある。



3. 「見ること」と子ども

 今回は、「戦争」や「人権」に関する子どもの詩が若干ありましたので、それらを「見ること」〜「見る目」〜を養うという視点から子ども詩の必要性を述べてみます。

 まず、差別や腐敗、戦争を生み出すものはいったい何だろうか、と考えてみました。考えあぐねた末、貧困な思考ではありますが行き着いたところは、根っこの問題として根底的な要因として身体における「見ること(見る目)」の固定と閉鎖、それに癖(捕らわれ)や歪曲、退化、そして隠蔽という心(脳)の作業があるのではないか、という地点です。 この国、どこもかしこも見ることが溢れています。ネットやテレビ、ビデオにゲーム、広告・・・と、これでもかこれでもかと見ること(情報)を送り続けてきます。ふと立ち止まってみると、あまりにも「見えるもの」に翻弄されている自分を発見してほとほと嫌になることがあります。私たちは見ることの過剰に晒されているのです。過剰さは私たちを無気力にさせ、盲信を生み、共同幻想を形成します。それらが脳内に蓄積していってやがて私たちは利害とからんで一元的かつ一方的な見方を身体ごと刷り込まれ、その奴隷になってしまうのではないだろうか、という危惧が常にあります。昨今のヘイトスピーチや戦争気分への煽り等はきな臭くて怖い匂いがプンプンします。

 だが、よく見てみましょう。それは少しも過剰ではありません。巷にはどうでもいいようなことばかりが溢れて肝心で大切なことが見落とされ、見捨てられているだけなのです。そして一元的な見方(例えば、「成長」や「効率」、「自分探し」が大事で、「格差」が必要、何をするにも「自己責任」を追えだとか)や二項対立的な見方をあちこち多方向から押しつけられています。目は外界から情報を得て脳に伝える身体器官なのでありますが、今日にあっては目は、身体器官だけではなく高度情報化社会の一つの器官となっているような気がします。メディアから様々な情報を得て「なんとなく」 操作されているのではないか、なんだかどこか上の方で一方的に決められたものを全体に下ろされているだけなのではないかと思う時もあります。そんな現実を前にして、なにもできない自分に無力感を覚えたり、自己を失ってしまったりする。それは別の角度からみれば、目の管理をされている、と言えるような気がします。(紙面の都合上、つづきは次回へ)










2017-02-21 『最初はグー』*No.2882

aiueokaki2017-02-21

「さようなら」

と元気にあいさつをした後

「セイセーに勝つまで帰れないよ。最初はグー、ジャンケンポン!!」

「ヤッター!! 勝った勝った!」

「アアーッ」

「次イクゾー! あいこでショ!!」

「ヤッタ、ヤッター!!」

ということで、今日はお昼休みには全員でドッヂボールをしたりして

6時間にわたる楽しい授業をし

クラスのみんなが「1年間、ありがとうございました」と感謝を込めて言ってくれた後

子どもたちが勝つまで、何回もジャンケンをし続けて

最後の別れを

別れた


定年退職してから7年目

今年の〇〇小学校の〇年〇クラス29人の子どもたちとの年間15日間の授業を終了した


子どもたちと過ごした

とても楽しい日々だった



* * *

ちなみに

今日の6時間目の授業「総合」

これからの学びを学んでもらうための、ちょっとハイレベルの「最後の授業」をしました。


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報告メモより











2017-02-20 『つないでくれる人がいつかきっと』*No.2881

・・・・・・・・     青い春

あの日 あの時

ひょんと

あのひとが想いついた

不思議なふぁんたじぃの物語


だれも知らないけれど

だれもが知っている

だいじなだいじな

ちいさな里の物語


ぼくはいまもその種を大切にもっているが

生かしきれないでいる

・・・・・・・・


もどかしさのなかで

時代は流れ

眠りつづけている宝の種



いつか

だれかがきっと

種の目を覚まし

宝物を引き継いでくれるだろう

いつかきっと












2017-02-19 『冬の終わり』*No.2880

・・・・・・・・     青い春

光をしずかに

しずかに吸い込む

里山

無彩色の山々のなかに

すこし

つぼみと若葉色の

みどりが見えてきた

明るさと誠実と

ともに




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2017-02-18 『イヌノフグリ』*No.2879

・・・・・・・・     青い春

いつのまにか

時が過ぎ去って

ポツンと

残された

錆びてしまった螺子


もうひとつ相方の螺子が

あったはずなのに・・・・・


まわりに寄り添うように

いたいたしく

寄り添うように

イヌノフグリの花が咲きだした



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2017-02-17 『たった一冊の手づくりの詩集』*No.2878

・・・・・・・・     青い春

あの青くて

熱い思いが

綴じこめられ

あの本棚にしまっている


たった一冊だけの

手づくりの詩集


ひらくには

まだ・・・




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2017-02-16 『ゆったりとした2月の一日』*No.2877

今日は仕事(ボランティア的)を休んで

憩いの家へ90歳になる老母に会いに行きました


朝はまだ氷がはってかなり寒かったけど

昼前には少しポカポカと

春が感じられたので

母が乗る車椅子を押して二人で外へ出ました

ここへ来るとお決まりのコース散策です


先日は、寒すぎ母も寒そうに縮こまっていたので

すぐ引き返しましたが今日は、

裏の山へも登り

遠くの田畑や家々、そして山々を

ゆっくり見ることができました


      ほんに

      お日柄もよく

      老母と里をみる


母と草木のつぼみをいっぱい見つけ

今日はなんかこう

心やすまり

のたりのたりと

ゆったりとしたいちにちでした