信楽峻麿『親鸞とその思想』(真宗って仏教だったんだ……力から道へ)

サンガ新刊の校正など。グツグツ煮えた。

在家仏教 2008年 04月号 [雑誌]

在家仏教 2008年 04月号 [雑誌]

『在家仏教』2008年04月号に信楽峻麿(元龍谷大学学長)の「浄土に往生するということ」とゆー講演録が載っていて、これがなかなか面白かった。真宗なのに仏教的なことを言っている。端的に言えば「信」と「念佛」の捉え方が仏教的なのだ。はっきり言って浄土真宗は、仏教というより「日本の新興宗教」というのが僕の評価だった。だから批判する必要もない。そもそも仏教とは別の教えだから、というスタンスだった。しかし、信楽峻麿のような教学理解であれば、浄土真宗も「仏教」の仲間として認識しうる。そっか、親鸞の教えでも「仏教」できるのか、というのは正直、驚きだった。(ケネス・タナカ師の本でもその辺はピンと来なかった)

親鸞とその思想

親鸞とその思想

そこで信楽の著書『親鸞とその思想』を取り寄せて読んだみた。これも四つの講演録なのでたいへん読みやすいが、彼は本願寺派で異安心(異端)として弾圧された石泉学派の流れを汲んでいるそうだ。しかし仏教的には信楽の立場が正統である。信楽峻麿を異安心とするなら、真宗は「非仏教」である。そのくらい明々白々に論理的に正しいことを言っている。信楽の提唱する「まことの真宗」とは以下のような教えだ。

一、阿弥陀仏とは、象徴的な存在であって、それを実体的な存在として捉えてはならない。
二、真宗における信心とは、一元的主体的な「めざめ体験」であって、それは二元的対象的に理解されるべきではない。
三、真宗とは、道の宗教であって、それを力の宗教として理解してはならない。

また、他力とは「縁起」への気づきである(大意)とも述べている。
信心とは「心が澄んできれいになる」(チッタ・プラサーダ)であり、念仏とは心を清らかにする(自浄其意)行である、ともしている。

 だから信心というのは、親鸞聖人は基本的に心が澄んでくること、心がきれいになることだといいます。そしてそのことは智慧がひらけてくることであり、仏に成るべき身になることだというのです。何かに対して信じるのではないのです。親鸞聖人は、手紙や和文では二元的に「本願を信じる」などと書いておりますが、「信巻」では、何かに対して信じるということはどこにもいってはおりません。基本的には、この「疑蓋雑わることなし」ということを繰り返していっているのです。
 だから真宗における信心とは、何かに向けられた、対象的な心的態度をいうのではなくて、まったく主体的な心のありよう、心的態度をいうわけで、それは明らかに正定聚、不退転位までの、煩悩が破られ、転じられることなのです。

だったら、宗派は違っても「仏教」だと思うよ。
信楽峻麿は僕の真宗観を塗り替えてくれた(まぁ、真宗のなかでも超少数派かもしれないが……)。広島に向かって合掌。ギギギ。

さて、同書の巻末に収録されている「真宗信心の社会性」では、真宗教学の「真俗二諦論」が抱える根本的な問題にまで踏み込んでいる。

……本願寺の教学は、いまもって真俗二諦を語り、信心と社会的実践は別だといっているのです。このことを非常に明確に物語るものに、基幹運動にかかわる伝聞があります。もっと詳しい方もいらっしゃると思いますので、お聞かせいただきたいのですが、これは富山の方で聞いた話です。
 先ごろ本願寺教団の門主や総局がおいでになって、地方の住職と座談会をなさったときのことだそうです。ある住職が、「本願寺はわれわれに差別を止めろというが、差別というのは煩悩ではないか。煩悩を止めろというのなら、本願寺は聖道門に変わったのか」、という質問をしたのです。そしたら京都からおいでになった本願寺の錚々たる方々は、誰も返事をされなかった。まったく黙して返事をされなかった。

詳しくは同書を紐解いて欲しいが、驚くべきことに『親鸞とその思想』が出た頃(2003年10月)の真宗教学では、この問いに答えられないのである。差別は「いまどき社会的に外聞が悪いから止めておこうね」ということしか言えないのである。「煩悩をちょっとでもいじるなら異安心だろ!他力じゃねぇだろ!ほっとけ」と言われたら、黙らざるを得ないのである。実はこれって、真宗にとどまらず、日本の大乗仏教全般の大きな「弱み」でもある。ひ○さちやなんかが大層に仏教知識を駆使してあれこれ御託をならべたあげく「(煩悩)あるがままに生きろ」とか「南無そのまんま」とか「デタラメ思考で幸せに」とか、糞ゴミみたいな結論しか出せないのも、プロのお坊さんもそれを有難がって反論すら出来ない体たらくなのも、端的に言えば仏教界を覆う退廃した「真俗二諦論(信仰は心だけの問題。社会ではひたすら“時代の空気読め”)」の呪縛の所為なのだ。

そもそも肝心の「信」の捉え方からして俗流キリスト教神学の受け売りで、仏教の定義を見失っているのである。情けない話だ。仏教の「信」は石泉学派の説くように「心が澄んできれいになる」ことであり、智慧の開発という「めざめ」のプロセスに位置づけられなければならない。キリスト教の「信」などとは、間違っても一緒にしてはいけないものなのだ。

既存仏教が、ご利益やあの世の救済という自・他「力(呪力)」は説けても、生きる「道」に関しては失語症になってひたすらオドオドと「空気読み」を続ける羽目になっているのは、時代の変化の所為でも何でもない。既存仏教教団の教学がおかしいからなのだ。教学が「仏教」から、お釈迦さまの教えから、大乗仏教の本筋からさえも、外れているからおかしくなっているのだ。智慧の教えたる仏教の迫力がなくなってしまっているのだ。

だから「彼岸寺」なんかの面々には悪いけど、お寺でカフェやったりコンサートやったり坊主ファッションショーやったりしたって、それは真俗二諦論の「空気読まなきゃ」の呪縛からは一歩も踏み出したことにはならない。「道」を説いたことにはならない。「力」ではなく「道」を説けるように、教えそのものをチューンアップしなければいけないのだ。壁は厚いだろうが、信楽峻麿はジジイなのに頑張ってるぞ。

……で、いまの本願寺はどーなのかな?教学変えて「仏教回帰」したのかな?
まぁ、それはともかく『親鸞とその思想』は箆棒な本でした。
仏教徒だったら、「別に当たり前じゃん」ってことばかりだけど、それをあの真宗で言ったのがすごい。
だから、読むといいですよ。

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