「教えの捏造」にしか興味がない

仏教と仏教美術の日々」のragarajaさんから、再反論があった。人格批判は甘受するが、論破するのはずいぶん簡単である。

早大の平川氏の仏塔説をけちょんけちょんに言ってますが、先鋭的出家僧が理論形成に先導的役割を果たしたにせよ、そこに在家の関与を見ることは決して間違っていないでしょう。
大乗仏教を生む場所が仏像など寄進の盛んな地ばかりという事実が現実としてある以上、そこに絶対に存在したであろう在家の地元名士達の存在は無視しえないのです。

在家の地元名士(居士)が寄進を行うことは、釈尊の時代から行われてきた。で、だから何なのだろうか?『維摩経』に随分ご執心のようだが、在家と出家が討論する経典などパーリ経蔵にいくらでもある(相応部経典:六処篇:チッタ相応など)。仏教教理に精通した在家者により、出家者が言い負かされる場合もある。『維摩経』はその設定だけを借りて、伝統仏教を批判する目的で作られた文学作品だろう。

大乗経典の数々を見れば、その特徴として徹底的な平等論が見て取れます。在家だったり女性だったり、悪人だったり、そんな者すらも悟れるということが説かれます。

それは、ない。女性も悟れるのは釈尊の時代からのことで、阿羅漢の女性もたくさんいた。別に「龍女」が無理やり男に変身しなくても大丈夫だ(笑)。菩薩道を持ち上げてしまったおかげで、女性が悟ることが教理学的に難しくなったのは大乗の方だろう。部派仏教時代に正等覚者の定義がかっちり出来てしまってから、菩薩道こそ本道なんてことを言い出したものだから、もともとの仏教にあった平等思想が壊れてしまったのだ。悪人が改心して、阿羅漢になるのも釈尊の時代から。アングリマーラのエピソードを知らないのだろうか。自分の心を向上させずに悟るということは、話にもならない妄語である。

ブッダの教えから自己の改革を小乗は読み取ります。それ自体は正しい。大乗でも同じようにその考え方は重視しますし、違いなどありません。
ですが、世の救済をスッパリ小乗では切り捨ててしまいます。それが大乗ではブッダの教えを矮小化しているとするのです。

いやはや、ひどいステレオタイプに言葉を失う。この人はホントに現代を生きているのだろうか。いまどき、こんな古典的な「大乗/小乗」図式で仏教を語る人がいるとは!

「多仏思想」というものも、理解が浅い。

これもこじつけだ。「多仏思想」は、部派仏教で釈尊が別格化された後に出てきた論点でしかない。論破済みなので繰り返さない。

※「方便」云々についてはあまりにアレなうわ言なので、スルーしておく。

まずその南伝経典はブッダの教えを改組無く伝えた真の教えという思想を排除してください。
考古学的見地から言えば、明らかに多くの書き換えがあります。成立年代はブッダ入滅後200年後のアショカ王の時代と考えられます。
あなたの理論で言えば、パーリ経典は「捏造」です。

残念ながら、これも違う。マウリア朝は釈尊が活躍したマガダ国に由来する王朝である。経典の保存という点からすれば、マウリア朝でまとめられたテキストは、この上なく筋がいいはずではないか。超一流の知識人たる僧侶とはいえ、人間が口承で伝えるものだから、いくら努力したところで文献が絶対無謬のまま伝えることが難しいのは当然である。しかしながら、文献の信頼度には軽重が当然ある。私は一貫してそのように述べているつもりだが、ragarajaさんは聞く耳を持たれないようだ。

現存する仏教経典のなかで、もっとも信頼度の高いセットはパーリ経蔵である。漢訳阿含はそれに続く。一連の大乗経典は、釈尊の教えを学ぶための資料としての信頼度はもっとも低い。ある「お約束」を共有したうえで、それなりに読まれるべき参考文献に過ぎない。これは客観的に動かし難い事実である。

パーリ経典もまた、五部にまとめられる過程で変化を蒙った可能性はある。たとえば、法数によってまとめられた増支部には、まったく同じ状況で登場人物が登場するにも関わらず、四集と五集に別々の経典が記録される例がある。相応部には逆に、違う状況と登場人物でまったく同じ教えが繰り返される例がある。これは結集(saGgiiti)の際に、伝承の食い違う経典の別バージョンをあえて統合することなく収録したことを示している。経蔵に一貫性を持たせるため、複数の経典を統合したり、改変したりしようという圧力ははたらかなかったのである。パーリ経蔵はブッダの教えをもっともよく伝えた聖典として個人の主観を超えて尊重すべきテキストだ。

※楞伽経の肉食禁止論についての弁明も読んで痛々しい言い訳なのでスルーしておく。

このように、大乗は上座部と違い、真のブッダの教えの本質を考え、議論するベクトルがあるので、修正論も出てくるわけです。
己の智慧を信じよと残して入滅したブッダの教えに忠実なのはどっちなのでしょうか?

「真のブッダの教えの本質を考え、議論するベクトル」ならば、部派仏教時代から延々となされてきたことではないか。大乗経典の作者たちが、野放図な経典捏造を行ったことで、ブッダの教えの本質を考え、議論するための共通の基盤までが失われてしまった。その弊害は計り知れない。

「己の智慧を信じよと残して入滅したブッダ」とは、どこの誰だろうか。釈尊は、己を洲として真理を実証せよ、と述べただけである。意訳にしてもおかしい。ragarajaさんは、どこまでも「教えの捏造」にしか興味がないようである。

スッタニパータ/仏教思想の発見

[rakuten:book:13102138:detail]
並川孝儀『スッタニパータ 仏教最古の世界』岩波書店、とりあえず読了。買った時にパラパラ読んだ印象で「文献の解説書としては、さすが手堅い出来」と書いたが、買うほどの本ではなかった。釈尊は「同時代の他の宗教家・思想家と比較して、当初から突出し強調される内容はどこにも説かれていない」(エピローグ)とゆー毎度おなじみの日本人好みの結論である。また、釈尊は輪廻について「判断停止」したというのだが、これはおかしい。そもそも「アートマン説を前提にした輪廻転生」を釈尊が肯定したか否定したかという問題設定は明らかにピントを外している。釈尊の時代のインドで、いわゆる輪廻転生の教えが常識であったかどうかは甚だ疑問であるし、仮に輪廻転生が釈尊当時からインド社会で常識だったと仮定しても、「輪廻する恒常の主体が成り立たない」ということは、無我説を前提とした仏教の輪廻説の基本である。むしろ「無我でなければ輪廻は成り立たない」というのが仏教の主張の肝であり、輪廻と無我の矛盾に悩んでコソコソと「輪廻の主体」を探しまわることなどなかったのだ。そういう頭の悪い事はするなと、釈尊自ら経典で戒めているではないか。この本の難点の極めつけは、釈尊のいわゆる「中道」と「無記」について、ふつうの現代日本語の意味をそのまま用いて「両極を排した真ん中」&「判断停止」と解釈して使ってしまっているところ。これってもう、知識人としてダメだと思うのだが、如何なものだろうか?

仏教思想の発見―仏教的ものの見方

仏教思想の発見―仏教的ものの見方

森章司『仏教思想の発見 仏教的ものの見方』北辰堂、東洋大印哲の仏教学概論で教科書として使われていた、別名、森教授の「青本」。とても懐かしく再読した。思想的には肯けないところもある(特にp224以降の「善悪の彼岸」節は、「諸悪莫作」「衆善奉行」という仏教の止悪作善のススメが「自浄其意」という修行のあり方と密接に関わっていることを無視して論を進めているので、たいへんマズイと思う)が、四諦(苦集滅道)の解説や、北伝系アビダルマ五位七十五法の概説など、あらためて勉強になった。しかし本書に詰め込まれた、単語だけやさしいが高度な仏教思想を、ゆとり教育を先取りした十八歳の分際で理解するのは、無理にも程があっただろう。実際、内容はほとんど忘れていた。それなのに、自分でも驚くほど、森先生の説かれた「仏教的ものの見方」に僕自身の仏教観が影響を受けていたことを「発見」させられる再読でもあった。森先生は大乗仏教についても、部派仏教における思想の展開(世界観の拡がり)を前提として成立したことを明記しており、一部の大乗経典がことさらに「小乗経」を非難するのは、自らの出自の怪しさに対する僻み根性の発露に過ぎないと述べている。著者は大乗経典には四つの特徴があるとする(p126)。

(一)大乗経典は身元不詳である、
(二)大乗経典の釈尊はピエロである、
(三)大乗経典は超合理の世界を説く、
(四)大乗経典は自己宣伝する、

思わず笑ってしまった。もちろん森先生は、筆者と違って大乗仏教そのものには肯定的で高い評価を下している。時代に応じて次々と経典が創作されても構わないとも言う。

仏教の経典は単に冷たい水をくむつるべ(原文漢字)にすぎないのであって、しかも「あるがまま」を、「あるがまま」に見る本当の智慧を得た仏の説いたものはすべて「仏説」であって、それ以上に時と場所に応じて経典は製作されなければならない……極端なことをいえば、二十世紀末の日本に相応した『二十世紀末経』とでもいうべき経が造られなければならない……
(p128-p129)

しかし、この主張には微妙なまやかしがあるといわざるを得ない。

誰でも、単なる精神病患者でも、口先で「われは仏である。われの教えは仏説である」と主張することは可能である。しかし、ただ言っただけでは経典にはなりえない。誰でも造れる「創作経典」が本当に仏教の経典たりえるためには、その教えが「「あるがまま」を、「あるがまま」に見る本当の智慧を得た仏」が我々を「「あるがまま」を、「あるがまま」に見る本当の智慧」に導く内容になっていることが必須条件となる。いくら、大乗経典は勝義諦の立場からの教えだから「超合理」でもいい、と強弁したところで、言語で表現される限りそれは世俗諦である。迷いの立場ではなく悟りの立場から記されたと吹聴する大乗経典では「無常・苦・無我・不浄」ではなく「常・楽・我・浄」を説く。しかしそれに触れる我々凡夫にとっては「常・楽・我・浄」の教えは渇愛を刺激し、実体思考(有身見)という無明の働きを強化する役割しか果たさない。我々は世俗諦によって水を汲まなければならないのであって、それには「常・楽・我・浄」という顛倒を破る「無常・苦・無我・不浄」の見方によって導かれるしかないのである。大乗経典が問題にしている論点は、概念に淫したプロの宗教家の間の楽屋のお喋りでしかない。有学の我々にとって「冷たい水をくむつるべ」の役に立たないのであれば、それらは仏「説」ではあり得ないのだ。

釈迦牟尼世尊の言葉が「善く説かれたる(svaakkhaato)」教えとされたことの重さを見落としてはならない。スマナサーラ長老の次の法話を紹介したい。

仏道は「正しく説かれている(sammadakkhaata)」。これはとても大変な単語です。
仏法僧の「法」に帰依する時も、いつでも最初に来る言葉はsvaakkhaato(善説)なのです。
svaakkhaata、sammadakkhaata、という言葉が意味するのは、言語的な(文学)能力ではなく、正しい完璧な方法論を説いているということです。

以上、森先生を批判するような内容になったが、以上の知見も、結局は森先生の薫習によって導かれたものに過ぎない。学恩は尊いものだな。
ちなみに『仏教思想の発見』は国書刊行会から増補改訂版が『仏教的ものの見方―仏教の原点を探る』として復刊されている。こちらはこちらで論じるべき点があるのだが、別の機会に譲りたい。

仏教的ものの見方―仏教の原点を探る

仏教的ものの見方―仏教の原点を探る

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