念(sati)についての考察


仏教の重要概念である「念(sati)」について、いろいろ調べたら、以下のような見解に達した。表現とか、ちょっとアレなところもあるが、メモということで。


念。sati, smṛti。憶とも訳す。その語義は、


A.瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、B.特定の(冥想)対象・法に心をかける、C.単なる記憶作用。*1


おおざっぱにいうと、北伝仏教の阿毘達磨(倶舎論〜唯識)の影響から、日本ではB,Cの意味が強くなってしまった。A,「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的意味はほぼ等閑視されていた。


四念処(四念住)も北伝仏教では身・受・心・法を「不浄・苦・無常・無我」と思い慣れる修行とされたが、これはB,Cの意味から導かれた修道論である。「身を不浄と、受を苦と、心を無常と、法を無我と念じる(記憶して繰り返す)」という、もっともらしい定型表現でコピペされるが、問題が多い。


竜樹(ナーガールジュナ)の著とされる『大智度論』が記された当時、すでにこの定型で「四念処」を解釈することが定着していたらしい。同書では身念処の説明にもっぱら不浄隨念を持ち出している。受・心・法の観察については、かなり説明に苦慮している印象だ。おそらく、竜樹もよく知らなかったのだろう。


管見では、北伝の阿毘達磨の説明では、四念処(catu-satipaṭṭhāna)と、他の隨念(anussati)の区別がつかなくなっている。ブッダが指し示された出離の道が、見失われているのである。


隨念の場合は、はじめから「不浄、苦、無常、無我」というアイデアがあり、そのように「念」を入れる。B.「特定の(冥想)対象・法に心をかける」意味での念である。


これに対して、経典(パーリ念処経)で示されている四念処とは、生滅変化する「身・受・心・法」の状態・あり方に不断に気づき、注意し続けることで、現象へのとらわれ・執着を離れる実践である。「気づきの実践」を通して、出世間の智慧を開発することである。


もちろん、経典においても文脈によって「念」はA,B,Cの意味で用いられるが、四念処はA「気づき」の実践を意味していることは、パーリ経蔵にあたれば明白である。


五根の「念根」、五力の「念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」もまた、主に「気づき」の意味で捉えられるべきである。


また、北伝仏教のように四念処の「法念処」を「法を無我と念ずる」と説明することには、初期経典の文脈の「法念処」からはかなり逸脱しており、問題が多い。たとえば、修行の障害である「五蓋」を無我と念じることは修行として成り立っても、修行道そのものである「七覚支」や「八正道」「四諦」などを無我と念じることは、四念処の「修行」としては成り立たない。単なる形而上学的な戯論に落ち込んでしまう。*2


そのような危うさを孕んだ「法念処」の解釈は、伝言ゲーム的に「法無我」を敷衍した大乗仏教の「法空」論へと受け継がれ、めぐりめぐって『般若心経』などにも影響を与える。そこでは「空」はただ非合理的な呪文信仰を装飾するアクセサリーに堕している。もはや、仏道の真髄たる四念処の本来の形とは無縁の代物である。結局、北伝の部派仏教から大乗仏教へと続く四念処解釈の流れは、「念」の実践性を矮小化することで、仏道のエンジンを壊してしまったのである。


パーリ三蔵に依拠したテーラワーダ仏教(上座仏教)のいわゆる「ヴィパッサナー瞑想」が日本でも強いインパクトを持って受け入れられたのは、この「念」の実践に正しい解説をしたからである。いくら北伝仏教にも「止観」の語があるからといって、「観」実践のエンジンたる「念」の解釈が間違っていたら(エンジンが壊れていたら)、そこから導き出される修行道が曖昧模糊としたものになることは避けられない。*3


現代でも、一部の仏教学者はかたくなにB,CとりわけC「単なる記憶作用」として念をとらえている。何を記憶するのか、というところでB「特定の(冥想)対象・法」の選択という問題が出てくる。北伝仏教でしばしば七覚支の順序が「択法」から始まっていることにも、このような教理学的な背景がある。


しかし、本来は「念覚支」気づきの実践が、七覚支の始まりである。「念」の偏った理解こそ、仏教学が仏道を捉えそこなっていい加減な仏教研究が蔓延っている、大きなつまづきの一因と思う。


「念」をC「単なる記憶作用」と解釈することに一部の学者が拘るのは、北伝阿毘達磨の綱要書である『阿毘達磨倶舎論』で「念」が大地法に含まれる心所、つまりどんな心にも普遍的にある心理作用、とされている所為ではないか。(パーリ・アビダンマでは、念は浄心にのみ相応する「共浄心所」に分類されている。)原始仏教を研究しても、やはり伝統仏教教学の呪縛は離れ難いのだろう。


ここはパーリ・アビダンマ説、そのバックグラウンドにある初期経典の「念」解釈に従うのが妥当である。「気づき(念)の実践」こそ出離の道なのだ。


言いかえれば、「念」を正しく理解すれば、とりあえず正自覚者の説かれた「一乗道」からそれることはないだろう。


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*1:「原始経典のなかで念は(1)記憶を意味する場合もあるが、それはむしろまれで、(2)心が放縦とならないように注意し、気を配ることの意味に使われ、(3)さらにもっとも多くの場合、無常・苦・無我などを念頭に置き、忘れないこと、すなわち四念住の意味で使用される。」浪花宣明『パーリ・アビダンマ思想の研究 無我論の構築』(2008年10月20日 平楽寺書店)66p

*2:釈尊が「諸法無我」と念ずるべき、と説いたこととは文脈が違う。念の為。

*3:まぁ、ちょいちょい例外もあることはある。