Hatena::ブログ(Diary)

二十一世紀日陰者小説

2009.10.18(Sun)

「中学の時イケてないグループに属していた芸人」に見る日陰者と日向者の断絶

 映画は予告編が一番面白いじゃないが、『アメトーク』で一番面白いのは次回予告だ。「○○芸人」は、「くくり」でゲストを呼ぶ『アメトーク』という番組の代名詞的フレーズであり、もはや元の意味から乖離して言葉遊び的要素すら含んできている感がある。つまり「○○」の部分に言葉を入れること自体がボケになるという、『アメトーク』という芸人の持ちネタのようになってきているのだ。「あぶら揚げ芸人」「たいこ持ち芸人」は笑ったが、「中学の時イケてないグループに属していた芸人」というフレーズには衝撃を受けた。

 そもそもテレビ、特にバラエティ番組で「イケてない(イケてる)」「リア充(非リア充)」と言った「スクールカースト」について言及されることは、ほとんどないように思える。たまにニュースやドラマで論じられるのは「イジメ」や「引きこもり」だが、それはいわば極端なレアケースであり、大多数の「普通の日陰者」のリアルな感覚、「別にイジメられてるわけじゃないけど、クラスの大多数の雰囲気に居心地の悪さを感じる」という微妙なマイノリティ、中の下または下の上の人々はテレビにおいて常に黙殺されてきた。誰しも覚えはあるが、公の場では決して語られることのない存在。『アメトーク』はそんな幽霊のような「微妙なマイノリティ」の彼らに「イケてないグループに属していた」という見事な名前を与える*1ことで、彼らを可視化させることに成功した。「中学の時イケてないグループに属していた芸人」は、日陰者が初めてテレビ画面に映った記念碑的作品である。

 「イケてない芸人」のメンツを見たとき、僕を始めとする全国ウン十万人の日陰者視聴者は、テレビの前で「やっぱり!」と手を叩いて納得したのではないだろうか。サバンナ高橋、博多大吉、麒麟川島、笑い飯西田……出来の良かった試験の答え合わせをしているような満足感を僕は覚えた。僕たち日陰者はみんな、「同類」の匂いを嗅ぎ分けられるという能力を何故か例外なく持っていて、その匂いは顔つきや髪形や服装や話し方から沸き立つものだが、「イケてない芸人」の場合はその芸風から明確な匂いを嗅ぎとることができる。彼らの芸風に共通するのは、「他人への優しさ」である。言い方が格好良すぎるのなら「他人と関わることへの臆病さ」と言い換えても良い。学生時代日陰者であったということは、他人とのコミュニケーションが苦手だったというのとイコールである。「イケてないグループに属していた」とは冠せられているが、実際は(僕の様に)「イケてないグループにすら属せなかった芸人」も少なからずいるように思える。友人との付き合いが少ない人間がたまに会話をするとなったときに一番気にかけるのは、「相手が傷つくことを言わない」ということだ。さんざん日陰を味わってきた人間は、「傷つく」ことに対して(その対象が自分であれ他人であれ)ひどく敏感だ。だから冗談を言うときは必ず自虐ネタ*2である。いわば島田神助などの他人を馬鹿にする(のが基本スタンスの)笑いとは対極に位置する笑いである。自分が傷つかないために絶対に他人を傷つけないという日陰者の悲しい性は、博多大吉の「焼却炉の魔術師」「クラスのオールマイティーカードである僕」といった秀逸なフレーズに集約されている。何物も傷つけない、臆病な優しさ。これはまさに日陰者的な笑いである。

 恐らくこの企画を提案した『アメトーク』のスタッフたちも多かれ少なかれ「イケてない」人々なのだろう。放送からは、テレビ的に面白おかしく誇張されていないリアルな「イケてなさ」が見て取れるが、一つだけ気になることがある。それは第二回と第三回のゴールデン放送で、雨上がり決死隊の宮迫が振った「あだ名」ネタだ。第一回放送の冒頭、「イケてない」ことを示すエピソードとして、芸人たちは当時付けられていた「イケてないあだ名」を披露した。ゴールデンではそれを「お約束ネタ」として、宮迫が芸人たちに促していたのだ。この些細な構図に、僕は日陰者と日向者の間に存在する絶対的な断絶の象徴を見てとった。ゴールデン放送では「イケてない芸人」に対して、「中学の時イケてた女子」としてスザンヌやyouなどのアイドルが特別ゲストに呼ばれる。芸人たちへの、「日向者」によるツッコミとしての役割だ。そしてMCの雨上がりの二人の立ち位置はその中間である。つまり宮迫自身は明らかに「イケてた」グループに属していた人間だが、MCとして「芸人」のボケを理解し共感する立場と言う意味では「イケてない芸人」側に立っている。しかしそんな「イケてない芸人」に近い位置にいる宮迫ですら「イケてない」人はあだ名なんてつけられないということには気がつかない。実際問題として「イケてない芸人」たちの「あだ名」は、「彼らが実際にクラスメイトから呼ばれていた名前」ではなくて「単にそう言われたことがある」というエピソードトークの一種である。日陰者にはあだ名なんてない。苗字を呼ばれることすらないのだ。しかしそれはあまりにもリアルに過ぎ、視聴者が「引いて」しまうという配慮から、「あだ名」テレビ的な精一杯のフォローだ。そして日向者であった宮迫はそれがフォローであることに気付かない。気付くことができない。これが日陰者と日向者の絶対的な断絶だ。自虐エピソードを、「あだ名」という日陰者にとって特別な意味を持つ言葉に乗せて話す芸人たちと、それを無神経に「ネタ」として振る宮迫の間には、日陰者でないと感じ取ることのできない微妙な温度差があり、「日陰者と日向者の間にはどうしようもない差異がある」ことをこんな形で示されるとやはり少し悲しい。

*1:「草食系男子」なんかとは比べ物にならないセンスの良さだ。

*2:ネットなどではよく見るのに、現実で自虐ネタがウケ辛いのは「笑うと失礼にあたるかも」という考えが受け手によぎるからである。普段陰気な日陰者が微妙な仲の知り合いに勇気を振りしぼって自虐ネタを呟いてみても、絶対にウケない。自意識過剰キャラを演じる「逆自虐ネタ」の方がまだウケる可能性はある。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証