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2009-08-07

[]まちづくりアート

まちづくりアート」とか「まち系アート」というくくりで、時にはおそらくは否定的な意味合いから語られる一連の取り組みがあって、私自身、その中でやっているわけだけれど、なぜそうなのかというと、私はそれが「リアルだから」だと思っている。

まちづくり」という言葉は、かなり行政的な用語なのだそうだが、そうしたものを離れて私なりに考えてみると、それはまず「まちおこし」的なものとは別のものだと言えると思う。似て非なるものというか、「まちづくり」は日常的な営みであって、イベント的なものではない。内部的な取り組みであって、外部へ向けたものではない。だから指標としては、どれだけ売り上げがあったかとか、どれだけ人が来たかというのではなく、コミュニティ内がどれだけ活性化したか、つまりどれだけ仲良くなり、ものが言いやすくなったり、助け合うようになったか、が評価基準となる。

もうひとつ、理解の手がかりとなるのが「地域(地縁)型/都市型」という捉え方で、ただそこに住んでいるとか、ただ関わってしまったというだけでその地域やコミュニティのことを考えることが必然的な生き方やあり方を、地域的・地縁的なあり方、そうではなく、好きなときに好きなことをすることが基本というのが都市型のあり方だとしよう。それらは別に地方に地域型の生き方があり、都会に都市的な生き方があるという風に対応しているわけではなく、もちろん田舎にも都市型の生き方をしている人はいるし、都会にも地域型の生き方をしている人がいる。それらはあまりに基本的なあり方だと思われているので、両者が出合わなければ意識もされないし、出合っても「変な人だ」とかいう風にしか問題にされないかもしれない。「まちづくり」はもちろん、地域型の生き方をしている人にとってのテーマであって、都市型の生活をしている人にとっては「まちおこし」としてしか認識できないかもしれない。

ところで、こうしたあり方は別に歴史的なものではなく、ずっとそうだったのだろうと思う。ただ近代以降の急激な大量生産・大量消費、その後のスローライフエコライフの流れを見ると、これら両者をそれぞれに対応させてしまいたい誘惑にかられる。

例えば、都市型の生活における代替可能性。どこへ行っても同じサービスが同じ価格で受けられる、快適で均質な空間を世界にはりめぐらせるグローバリズムは、世界を相対化し、どこにいっても共通した価値基準のようなものを構築しつづけようとしている。それは資本主義のもつダイナミズムであるとともに、近代のもつ病理でもある。

一方の地域型の生活における唯一性。何もかもが唯一の「この性」をもつ、非対称で不均質で非効率な空間。時にめんどうになってそこから逃げ出したくなるような重たい重力をもった世界。しかし、スローライフエコ、そしてまちづくり的なものが取り戻そう、再評価しようとしているのは、この重たいリアリティをもった世界なのだと思う。

アートにおける近代も、こうした枠組みでとらえるとするなら、美術館やギャラリーといった抽象的でニュートラル空間を想定し、永続性のようなものに価値を置く、きわめて都市型のもの、作家性というような空想概念依存した内部完結風な存在だといえるのではないか。確かにそれは美しいし、ある意味おもしろく、意味があるけれど、言ってみればバーチャルで壊れやすく、独善的だと思う。

これに対して生まれた、または生まれつつあるカウンターパートとしてのアートは、一回性や唯一性、場所性に依拠している。それこそがリアリティのよって立つところだから、必然的にそうならざるをえないわけで、内部で完結した首尾一貫した世界観などを構築するのではなく、多様な価値によりそってさまざまな視点を提示したり、つきはなしたりする。だからそこでのルールは常に流動的であり、原初的な意味での「遊び」に似ている。ここにリアルが宿る。

誰かが設定した首尾一貫した世界、ルールのようなフィクションのあとに置かれたまちやアートは、そうしたひとのつくった「神話」にリアリティを感じることができない。成功体験も不幸も、みんなバーチャルなものに感じられる。リアルなものは、すべて自分の生活の中にのみ存在する。そこで日々行われる新たなルールづくりやその変更、首尾一貫しない主張や営みなどにこそ、かえって信頼を置いてしまう。

だから、結局はいったい私は、私たちは何がしたいのか、ということなのだと思う。

売り上げを上げてばんばんお客さんを呼びたいのか、首尾一貫した私だけの世界を構築したいのか、経済的には苦しい中でも自分なりの生きがいをもっていきたいのか、さまざまなものを見せたりいっしょに体験することを楽しみたいのか。

どれも間違っているわけではない。視点や機能が違うだけなのだ。たくさんの可能な世界があって、しかしあると想定するだけではそれは現実のものにならない。私は何がほしいのか、私たちは何に価値があると思うのか、つまり何をリアルだと思うのか。

カーリーカーリー 2009/09/06 20:13 はじめまして。
突然のコメント失礼致します。
私は特別アートについて学んできたわけではなのですが、大学で学芸員コースを履修してから、なんらかのカタチでアートに関われないかな、と思いながら日々を過ごしている者です。
今年の春に大学を卒業したばかりですが、興味を持った展示会にはよく出かけていきます。
僭越ながら、ブログを時折拝見しておりました。
あぁ、現場の方はこんな風に考えてこんな活動をされているんだなぁと、興味深く読ませていただいておりました。
「何がしたいのか」
個人的にとてもタイムリーなことばだったので、ついコメントしてしまいました。
なんだかとても考えさせられました。
ありがとうございます。

akadowakiakadowaki 2009/09/06 23:44 どうもありがとうございます。
読んでくださっている人がいると知ってたいへん励みになりました。
間違っているかあたっているかはさておき、もっと考えたことを正直に書いていこうと思いました。
「何がしたいのか」は、実際の内容としてはおそらく後づけ的にわかるもので、その言いたいことは、私自身が選んでこれをやっているのだ、という責任感みたいなもの?なのかと思います。結局、それが私のリアリティの正体なのかもしれません。それを容易に「自己責任」とかに転用されてしまったりもするのかもしれませんが。

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