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2010-11-22

[]コミュニケーションとコミュニティの衰退

一次的な欲求と二次的、三次的欲求のようなものがあるように思う。

例えば、カラオケについていうと私はほうっておいたら、というか必要なければたぶん一生いかずにいると思う。大学四年で就職活動中(バブルの末期)にOBらにあんまり毎回連れていかれるので歌わないとまずいと思って練習した。

練習、というのは私はそれまで「邦楽」(歌謡曲とかJ-pop?)に全く興味がなく、主に洋楽しか聞かなかったためで、この経験がなければ邦楽を聴いたり覚えたりという機会をもとうとは思わなかったと思う。

それ以後、今に至るまで事情は同様で、もし「純粋な好き嫌い=一次的欲求」だけで生きていけるなら、ものすごく狭い世界で、しかしある意味幸せに生きていけることだろうと思う。

もちろん、そうした「純粋な好き嫌い=一次的欲求」というのは幻想ではあると思う。しかしとりあえず議論の出発点としてそういうものを想定するなら、そうしたものを増大させることが「自由」や「個人主義」「幸せ」につながるものなのではないかと仮定され、実際にも整備されてきたのではないか

そうして自分の好きなものに囲まれた狭い世界で幸せに生きることがある程度可能になった結果、コミュニケーションが衰退し、コミュニティが衰退したのではないだろうか。

ここでいう「コミュニケーション」というのは、好みや文化的背景を異にする人どうしの、つまり普通にしていてはお互いを理解しえないものどうしがお互いをどうにか理解しようとして行う対話のことで、前提を共有している人どうしが同じ趣味を披瀝するようなものではなく、コミュニティというのも同様に、例えばただ単に同じ場所に生まれたとか、解決しなければならない問題がたまたま一致しているという理由だけで、趣味も考えも違うのにいっしょに生きていったり、強力しなければならないという意味でのコミュニティであって、好きな人どうしが何の問題もないかのように集うものを指しているのではなく、だから二次的三次的欲求、要するに他人の欲求をテーマにすることは異様に退屈なものになりうるのではないか。少なくともそれをアート作品だとして見せられる人の感じる退屈(というか憂鬱)な気持ちはよくわかる気がする。

アーティストが自身の一次的欲求やそれに限りなく近いものにしたがって作ったもの、いわゆる「質の高いアート作品」を見る方が見る側にとっても楽だと思う。しかしそれ自体は実は閉じられたコミュニケーションであり、話の通じ合う人どうしの、こたえのわかっている人どうしのコミュニティの中での話なのだと思う。

ただその一次的欲求への埋没には、そこへの傾斜を促す環境整備とともに、そこへ逃げこまなければならないような苛烈な環境の出現というか、要するにコミュニティやコミュニケーションの喪失とか絶滅放置・促進するような状況が表裏一体としてあると思う。

二次的欲求とか三次的欲求などと言っている場合ではないような状況、五次的六次的なもう誰の欲求なのかもわからないようなものの下で押しつぶされそうになっている生活が全面化する中でのそれ、なのではないか

つまり、一次的欲求と八次的欲求くらいしかない世界が普通にあって、それがいよいよそうなっていく、開いていく、というような。つまり、自分(たち)にしかわからない世界と、自分とはもうほとんど何のかかわりもないようにしか思えないにも関わらず、例えばお金を得るためだけとか、守ってもらうためとか、そういった理由でそれを欲求しなければならないような世界とに引き裂かれ、引き裂かれているのにその状態を修復することもなく、ただそうあったかのようにしか引き受けられないような世界。

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