232大澤真幸著『不可能性の時代』

書誌情報:岩波新書(1122),iii+289+7頁,本体価格780円,2008年4月22日発行

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

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見田宗介の戦後区分「理想→夢→虚構」を受けて,「理想→虚構→不可能性」と現代まで延長させる。「現実を意味づけている中心的な反現実のモードを規準にして眺めた」もの。その理解のキーワードはたぶん「第三者の審級」である。現在を現在たらしめているなにか――超越的なまなざしの担い手――の存在・不在を中心に戦後日本社会を段階的に特徴づけてみようということだろう。
社会的に注目されたいくつかの事件や社会現象,風俗などを3つの時代に対応させ,「理想の時代」から「虚構の時代」へは理想の時代の徹底化によって,「理想の時代」から「不可能性の時代」へは,現実への回帰(=原理主義)と虚構への耽溺(=リベラルな多文化主義)によって転換されたという。

「<不可能性>とは,<他者のことではないか。人は,<他者>を求めている。と同時に,<他者>と関係することができず,<他者>を恐れてもいる。求められると同時に,忌避もされているこの<他者>こそ,<不可能性>の本態ではないだろうか。」(192ページ)

「不可能性の時代」のあとの未来とは,「第三者の審級」を消滅させ(根拠は資本主義のもっている徹底した商品生産性),共同体の外部の<他者>への接続である。その内容を市民参加型,「拡がり行く」民主主義とし,その実践を「ペシャワール会」と松本サリン事件の河野さんのオウム信者との交流に見いだすのはやや唐突である。「未来の<救済>への展望」は,われわれに身近な場所にはないのだろうか。