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素研管理人の雑録 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2004-02-13 (Fri.) 背中で泣いてる男の美学。

大塚英志『サブカルチャー文学論』についての些細な突っ込み。

「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」の章に於いて新井素子の小説について近代文学史的側面からの考察がなされている。『キャラクター小説の作り方』でもそうだったが、大塚英志新井素子の登場を非常に重要視しているらしい。帯には「新井素子の先駆性」などという言葉も見られる。その割に、巻末の人名索引に新井素子の名前がないのは不便である。

この章の初出は、「文學界」1999年8月号『「ルパン三世」的リアリズムとキャラクターとしての〈私〉――'80年代小説としての新井素子』。”「ルパン三世」的リアリズム”については本文中P.413から少々長いが引用する。

 それに対して既に示唆してきたように新井素子の身体性はアニメのそれに最も近い。アニメはこの段階では少数の例外を除き、「自然主義の夢」を見ていない。アニメが公然と「私小説化」するのは、'79年の『機動戦士ガンダム』に於いてであり、新井素子はそれよりわずかに早く登場している。ぼくは『あたしの中の…』の読後感をアニメのようだと感じた、と記したが集英社コバルト文庫版の星新一の解説によれば新井素子は新聞紙上で「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです。SFとか小説を書いているという意識もなくて、楽しんで書いた」とコメントしているという。つまり、登場人物の内面と身体に於ける平面性というアニメ的特性(新井のコメントには「マンガ『ルパン三世』」とあるがこれは原作のコミックではなく宮崎駿大塚康生によるアニメ版を指すと思われる。この時点でジャーナリズムは「アニメ」と「マンガ」なる語の使い方に全く慎重ではなかった)は新井素子によって確信犯的に小説の中に持ち込まれた、といえる。

『キャラクター小説の作り方』にも”「『ルパン三世』」の活字版”という件は登場しているのだが、星新一の解説からの又聞きだったのには軽い失望を覚えた。原典に当たってた訳じゃなかったのか。それじゃどんな文脈で話されたのか判らないじゃないか。ちなみに、この新井素子の発言が掲載されたのは「毎日新聞」1978年1月22日のことである。朝刊か夕刊かは未確認のため判らない。おっと、俺も又聞きだ。*1

新井素子がマンガのように読みやすい小説を目指していたというのは割と有名な話で、大塚英志がこの記事だけを根拠にアニメにこんなにこだわるのは何故なんだろうか? ちょっと牽強付会な印象を受ける。

ついでに、この記事に出てくる「ルパン三世」を大塚英志アニメ版第1シリーズと推定しているようだが、もしアニメ版だとすれば1977年に放送が始まった第2シリーズの方じゃないかと思う。第1シリーズって大人向けで内容も暗かったし、子供がこの番組のノリをわざわざ小説に持ち込みたくなるかな〜? と疑問に思うんだがどうか。

この時点で新井素子が新ルパンを見ていても何の不思議もない。新シリーズが始まっているのにわざわざ何年も前のシリーズの話題を出すのも不自然だし、なにより明るく楽しい新ルパンの方が女子高生の口から出るに相応しいんじゃないかと推測してみるものである。

2005/08/18追記

新井素子さんが見ていた『ルパン三世』の件。これはテレビ版ではなく映画版のことを指すのかも知れない。『月刊OUT1984年2月号掲載の竹宮惠子との対談にて下記2点が確認できる。

  1. アニメはけっこう見るんじゃないですか、との司会者の問に「私テレビ全然見ませんから、見てないです」と答えていること。
  2. お金を払って見たアニメ映画は『ルパン三世』2本と『銀河鉄道999』だけと語っていること。

テレビ番組は見ないが映画の『ルパン三世』は2本見た、との発言からの推測である。この2本とは『ルパンvs複製人間』と『カリオストロの城』だと思われる。

初めての新井素子。

新井素子の小説を初めて読んだ時のことを思い返してみる。

初めて読んだのはコバルトの『いつか猫になる日まで』だった。中学1年の時である。

しかし、

1)斬新な文体だ!

とか、

2)女の子の話し言葉そのままだ!

というようなことは全く思わなかった。

1)についてはそんな衝撃を受けることもなく、普通の小説と同じようにするっと読んだ。新井素子の文体が小説としてはある意味特殊であるというのは後づけで知った。俺の読書量が絶対的に足りなくて小説文体についての認識が浅かったからかもしれない。

衝撃というなら、文体よりもむしろ内容であった。登場人物はひたすら自己肯定的で前向きなのに、あの虚無的な終わり方。読み終わった後しばらく呆然としてしまったのを覚えている。中学時代の読書としては『百億の昼と千億の夜』にならぶ強烈な体験であった。あの時の衝撃がいまだに新井素子を読む原動力になっているような気がする。

2)について言えば、俺の中学であんな風に話してる女子は一人もいなかったと断言できる。なぜなら彼女らが話しているのは標準語でなく遠州弁だったからである。地方の人間にとっては標準語というのは「よそ行き」の言葉である。大塚英志が体験した「語り口がつい今しがた嬌声を上げていた女の子たちのそれと全く同じ」などということは、標準語を話さない場所ではそもそもありえない。結局現代の文語体で書かれた全ての小説と同じように相対化されてしまうのである。少なくとも俺はそうだった。

で、疑問に思うのはあの文体を話し言葉と同一視できる人たちというのはどの辺に住んでいるどれくらいの年齢層の人たちだったんだろうか、ということである。とりあえず1978年の高田馬場に於ける大学二年の大塚英志がそうだったのは判った。あとは?

衝撃の文体。

なんだか話の流れでだらだらと書いている。

文体で衝撃を受けたというなら、それは夢枕獏だった。センテンスの短さとしつこいほど繰り返される改行が文章に軽快なリズムを生み、知らず知らずのうちに気分が高揚させられていく。『餓狼伝』第一巻の第四章「乱入」から引用してみよう。

静かな、岩のような男であった。

体の造りの何もかもが肉厚であった。

頭も、首も、肩も、胸も、腹も、足も、手の指までもが太い。

眉も、太い。

目も、太い。

鼻も、太い。

唇も、太い。

目から放たれている静かな眼光までが、太い。唇から漏れる声も太かった。

詩ならまだしも小説でこんな書き方をするというのは目から鱗だった。この文体で紡ぎ出される格闘シーンは現代小説の至極である。『餓狼伝』第一巻に於ける丹波文七と泉宗一郎の果たし合いが始まるまでのギリギリとした緊張感はたまらない。すげぇかっこいいのである。

桜玉吉『読もう! コミックビーム』

「週刊ファミ通」に連載された「コミックビーム」の宣伝4コママンガを一冊に凝縮。ついでに「コミックビーム」の歴史も1冊に凝縮。つーか、これが本になるとは思わなかった。いや、まとまってくれたら嬉しいなとは思ってたんだけどさ。笑えるが笑えないという切迫感が凄い。

同じく桜玉吉の『ゲイツちゃん』も買いたかったのに本屋には置いていなかった。残念。

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