大阪の選挙の話

大阪の選挙の話については、本質的には最近日本でよく起きていることが起きただけだと思っているので、あまり興味は無かったのだが、都構想との絡みで地方分権が議論されているので、それに触発されてちょっと思うところがあった。

まず、“地方分権”という言葉については近年の一つの流れと言うか、誰も反対しないと言うか、多くの人にすんなり受け入れられる政治的潮流の一つだと思う。
にもかかわらず、一時期騒がれた“道州制”という言葉がいつの間にか聞かれなくなっているように、やや迷走の感があるというか、あまり上手く進んでいないと言うか。
多くの人に受け入れられ、反対する人は少ないにもかかわらず、目的が達成され、改革が成功したとは言えない感がある。

これと言うのも、自分としては、“地方分権”と唱える言葉は同じでありながら、実はその目的とするところ、目指すところが、地方分権を唱える人達の間で大きく異なっていることが原因の一つであるように感じている。

どのように異なっているか。
地方分権”という言葉について、ある人達はこう考える。

中央集権政治のせいで、日本の行政は肥大化し、二重行政などが多発して効率性を失っている。行政の無駄を無くし、効率化を進めれば、日本経済の活性化に役立つ。
国・県・市町村の役割を明確化し、市町村に権限を委ねて行くべきで、そのためには、基礎自治体である市町村の基盤強化が必要だ。

道州制を推進する人達によく見られるような、コストカットを目的とした地方分権の主張だ。

一方、地方分権を唱える人達の中には、このような考えに重点を置く人達も居る・

中央集権政治では地方のニーズを汲み取れず、画一的な制度など、無駄やミスマッチが生じている。地方の実情をよく理解した、市町村に権限を委ねていくことにより、地域の声に沿った、地域の伝統や文化を生かした行政が達成される。
国・県・市町村の役割を明確化し、市町村に権限を委ねて行くべきで、そのためには、基礎自治体である市町村の基盤強化が必要だ。

先程のものに対し、こちらは、行政サービスの強化を求めるような地方分権の主張と言ったらいいだろうか。


どちらの地方分権論も、霞が関に象徴される中央集権政治に問題があると言い、その解決策こそ地方分権だと説く意味では一緒。
だからこそ、日本の言論空間では、この、コストカットの地方分権と、行政サービス強化の地方分権は、特に違和感無く、同じ目的を持つものとして語られている。

だが、ハッキリ言って、実はこの2つは似て非なるもの。
実際は、目指す方向が全く違うと言っていい。

どういうことか。
それは、2つ目の、行政サービス強化の地方分権論を見るとよく分かる。
一見何も問題が無さそうで、実際にも耳にすることの多い、この2つ目の地方分権論こそ、分かりやすい形でその問題点を示している。

2つ目の、行政サービス強化の地方分権論は、
「地方の声に沿った、地域の伝統や文化を生かした行政が達成される。そのためには、基礎自治体である市町村の基盤強化が必要だ」
と説く。

このような考えに沿って、平成の大合併と言われる、先の市町村合併は行われたわけだが、その結果、地方のニーズに沿った行政が行われるようになっただろうか。
地域の声は行政に届きやすくなっただろうか。

そのようなものも一部にはあるかもしれない。
しかし私が聞くところ、むしろ市町村合併によって行政が大きくなったことにより、“行政に声が届きにくくなった”という声が多く聞かれる。

実は考えてみればこれは当たり前の話で、地域の声を行政に届けようと思ったら、行政はむしろ小さく、議員・職員は多い方がいい。
自分達の声を反映してくれる議員、自分達の声を聞きに来てくれる職員がいて、規模が小さい方が、自分達の声はよりダイレクトに届く。

代弁してくれる議員が少なくなり、組織が大きくなれば、一箇所に集まる意見が多くなる分、自分達の声はむしろ届きにくくなる。

先の合併の結果は、これであったと思う。先の合併は、コストカットのための合併であったと。
自分も含めて、日本国民の多くは、勘違いしていたのだ。

本当は、行政サービス強化の地方分権を目指すのであれば、合併による組織の大型化には慎重であるべきであった。
議員・職員の削減というコスト削減にも慎重であるべきであった。

行政サービス強化の地方分権を目指すのであれば、
「国はカネと権限だけをこっちによこせ。口は出すな。議員も職員もやり方も、後は地方で勝手にやらせてもらう」
そういう形こそ、目指すべき形であったろう。
独立意識の強い、幾つかの西欧諸国のように。


本来から言えば、地方分権の強化とは、カネがかかるものだ。コストが増えるものだ。
コストや効率化だけを考えるのなら、フランチャイズ店の全国一律サービスが一番効率がいい。
組織を大きくして役職員は少数に抑え、小数の企画開発部門が新商品を考える。
それを、決められたメニュー・マニュアルに沿って全国一律サービスで行う。
つまりは中央集権。コストと効率化を考えればそれが一番いい。
考えてみれば当たり前なのだが、コストと効率化を求める民間企業は、自然と中央集権になっていく。

小さいエリアごとに商品開発なんてやってたらどうなるか。小さいエリアごとにマニュアルが違い、サービス方法が違っていたらどうなるか。
そんなもの、非効率でしょうがない。
小さなエリアごとに分社化し、役員を置き、専属の職員を抱えたら、コストがかかってしょうがない。
まるでコスト高の、地方の個人商店の商売だ。

地方分権だって同じ。
地域のニーズを汲み上げ、地域の声に沿った、きめ細やかなサービスを行おうと思ったら、本当は相応のコストがかかるもの。
それを我々は、なんだか勘違いして、コスト削減ときめ細やかなサービスは同時に達成できるものと思ってた。
市町村の規模拡大、議員・職員の抑制と、地域の声の届きやすさは両立できると思ってた。
本当は、ミニ県庁を量産したに過ぎなかったのに。


そんなわけで、多くの人が地方分権に賛成し、少なくとも反対はしないながら、地方分権が満足に成功しない理由。
それは、言葉は同じ“地方分権”を唱えながら、目指すこと・考えていることは全く違っていたというのが、その一つの理由。

残念なことに、日本の言論空間というものは、コストカットの地方分権を唱える人もその効果として行政サービス強化を謳い、行政サービス強化の地方分権を唱える人もコストカットを求める。
本来であれば相矛盾するこの二つの目的が、双方とも発言者の中では違和感なく同居している。
本質的には、相反することなのに。

そのことに気付かずに、コストカットと行政サービス強化、どちらも地方分権の成果として得られるものと、勘違いして語られ続けることが、この国の地方分権がいつまで経っても遠いもので、いつまで経っても満足の得られないものになっている理由であるように思う。


さて、前置きが長くなったが、大阪の件。
大阪では、この“地方分権”を巡る論理の混乱が、都構想論議に絡み、矛盾無く語られていただろうか。
残念ながら、そうとは思えない。

“都構想”の詳細は明確になっていないものの、現状をベースに考えれば、政令市を廃止し、都にするとなれば、それは市へ渡した権限の吸い上げであり、基礎自治体への権限委譲という流れからすれば、逆行となる。

本来は府や県が持っている都市計画などの権限は、政令市となって府県と同格となるからこそ政令市に委譲されたものであり、政令市が解消されれば政令市であることを理由に譲られた権限は、府(都)に吸い上げとなる。

また都構想と言うことで、政令市の解消によって通常の市町村にではなく、特別区になるのであれば、特別区は一応市町村と同じように思えるが、その権限は通常の市町村とは違い、税・建築確認・上下水道などは都の権限とされ、独自に処理することは出来なくなる。
いわば、“都の直轄地”としての色彩を帯びることになり、基礎自治体への権限委譲という流れからすれば、むしろ逆行となる。

また、一方では二重行政の解消などを名目にコストカット・効率化なども謳われているようだが、政令市が解消され複数の市なり区なりが置かれるとなれば、当然それぞれに首長が必要になり、議会と議員が必要になる。当然、選挙費や議会運営費など、“地域の声をきめ細やかに汲み上げるためのコスト”は余計にかかる。

加えて、これまでは“大阪市”という一つの組織として一本化出来ていた意思決定が、複数の市なり区なりに分割することで意見の相違が出てくれば、市(区)間の意見調整にもコストがかかるようになる。

つまり、今の大阪都構想と言うものは、コストカットの地方分権から見ても、行政サービス強化の地方分権から見ても、中途半端と言うかどっちつかずと言うか、要するに何を目指しているのかよく分からない。
これまでの、本来は相矛盾するはずのコストカットの地方分権と行政サービス強化の地方分権を、無意識的に同居させて違和感を持たないような、そういう意識で都構想が語られているように思える。

この矛盾の行き着くところは、結局はコストカットでしかなく、何となく満足の行かない地方分権となってしまったような、これまでの全国規模の“地方分権”と同じ道を歩む以上に、大阪の場合は一方でコスト増加が起きることを思えば、コストカットでさえも中途半端なものになってしまうように思えるのだが。


この辺で地方分権の話を締めくくるが、日本のこれまでの地方分権の流れの物足りなさ、満足のいかなさと言うものは、結局のところ、地方分権と言う唱える単語は一緒でも、コストカットの地方分権と行政サービス強化の地方分権を、同時に満足するビジョンを誰も示せないことにある。
と言うか、始めからそんなものありはしない。

コストカットの地方分権と行政サービス強化の地方分権は、相矛盾するものであり、同時に満足させるビジョンなど、本当はありはしない。
それを、言葉巧みにあたかもあるかのように言い、我々国民もあると思ってしまった。
その勘違いこそが、地方分権を巡る混乱の元になっている。
そして、今まで日本全国で散々に見られたその混乱が、今大阪で、規模を拡大する形で起きているように思える。


結局のところ、私は、橋下氏のやり方というものは、ポピュリズムに過ぎないと思っている。
敵と味方を分かりやすく見せ、“何かが変わる”という思いを有権者に抱かせ、投票に走らせる。
そのやり方は、これまでのポピュリストである、民主党・名古屋河村・阿久根竹原に通じるものがあると思う。
ただ、これまでの民主党などと違うのは、彼のやり方が非常に上手く、明らかな失策が彼には無いということだろう。

また一方で、少々の失点など問題にもならないような、他県には無いような大きな問題を大阪が抱えているという面もあるのだろう。
そういう大きな問題に対し、“変えてくれる”という期待を抱いて投票した人も多くいたのだろうし、逆に言えば、そういう課題に対しては、平松氏は“弱い”と評されたのかもしれない。


正直言えば私も、そういう期待を抱く気持ちについては理解できなくもない。
ただ、それが彼らの望むところと一致し、彼らの生活向上に繋がるかというと、それには疑問を持っている。

まず、市民の生活向上を果たすとすれば、今の日本においては、マクロ経済的な考えをしなければならない。
特に、需要不足を補う視点を持たなければならない。
これは、無駄削減とか赤字解消という発想では対処できない。
むしろ、無駄削減とか赤字解消の対極にある考えだ。
これが根本から不足している時点で、生活向上に繋がるとは思えない。

また、先の地方分権を巡る混乱をそのまま引きずる論調について考えても、その先に明確な考えがあるようには、特に市民の生活向上に繋がるような考えがあるようには思えない。

彼は、市民の不満を吸い上げることはよく出来るだろう。
そして、その不満を、敵対する相手にぶつけることも出切るだろう。
それによって、その相手の勢力を削ぐことはできるだろう。

しかし、それらによって市民の生活が向上するかどうか。
それについては疑問を感じている。
小泉政権と同じように。