『「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論』

 斎藤環さんの本はおもしろいし、教えられることも多い。本書もそうである。ただし冒頭の「私は一貫してこの前提に異議を唱え、メディアが「人間」に対していかなる本質的な変化ももたらすことはないと主張し続けてきた」(p.9) との宣言はいかがなものか。この本でも、メディアが人間に変化をもたらしていることが様々に語られるが、では人間の「本質」とは何かが問題となる。人間に本質があるという前提こそが、ひょっとすると悪しき形而上学かもしれないのだ。斎藤氏はさきほどの部分に続けて、「この立場の強みはまず、そういうことを人間がさしあたり私しかいないために、その正当性に関して確固たるオリジナリティを主張できる」とも述べているが、正しい主張ならばむしろ多くの人が納得するものだろうし、それを強みというのはやや奇矯に思える(遠吠え?)。
 さて、斎藤氏は若者に「確固たる」自信のなさが蔓延している、という。この主張は説得力を持つが、他方には、むしろ「負け組」に根拠のない自信が蔓延している、という説もある。この二つの説は、矛盾しているのか、それとも同じことのコインの両面なのか、時間があれば考えてみたい。

「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)