「日本語が亡びるとき」を読んで(2)

前の記事では、「日本語が亡びるとき」を読んで自分がつづけてきたことに、おおきな刺激となったことを書いた。他人事ではないような気がした。言葉にうまくならない部分をもういちど考えてみるために、まずは自分がひっかかった言葉をいくつか抜き出してみよう。

思うに、英語という言葉は、ほかの言葉を母語とする人間にとって、決して学びやすい言葉ではない。もとはゲルマン系の言葉にフランス語がまざり、ごちゃごちゃしている上に、文法も単純ではないし、そもそも単語の数が実に多い。

ところが言葉というものはいったんここまで広く流通すると、そのようなこととは無関係に、雪だるま式にさらに広く流通してゆくものなのである。通じるがゆえに、多くの人が使い、多くの人が使うがゆえに、より通じるようになるからである。

ここで水村さんが訴えかけているのは、英語の優位が「日本語が亡びるとき」を近づけている、それは必ずしも自然なことではない、という意味だとわたしは理解した。
ではどうすればよいのか。
その答えは、くだんのフランス語での講演のなかにある。

答は、いうまでもなく、何もできない、です。

たしかにそうかもしれない。わたしたちは日本語で読み、書き、そこで共有できるなにかをできるだけ多くの人と共有しようとしているのかもしれない。でもそれは英語がこんなにも強く、ほかの言葉を隅に押しやっているさなかで、わたしたちの発する言葉が、なんというか悪あがきと言ってしまいたくなる。いっそのこと、なにもしないで眺めているほうが利口なのではないか。
それにもかかわらず、水村さんは書き、わたしは書く。雑踏のなかを流れにさからって歩くようなものだ。
それで、他人事ではないような気持ちがして、真似をしているように感じるのだろう。
水村さんは「日本語が亡びるとき」を書いて、英語が普遍語として英語以外の言語の上に座りつづけるだろうと未来を見抜いていて、それは主に日本人に向けて書かれたものだ。
それを読んでここに日本語で感想のようなものを書いているわたしは、結局のところ同じトラックを周回遅れで追いかける走者のようなものだろう。
周回遅れの走者からなにか言えることはあるだろうか。
必ずしも水村さんは、あきらめてはいない。「英語で書かないというまさにそのことによって我々に与えられる天の恵みというものが、何かそこに少しはないでしょうか」とパリの聴衆に向けて語りかけ、希望があるとしたら、次のようなものだと水村さんは言う。

この世には英語でもって理解できる<真実>、英語で構築された<真実>のほかにも、<真実>というものがありうること

と、これは水村さんのフランス語での講演で話されたことで、「日本語が亡びるとき」にこめられた、明るい真実の貴重な一例だ。それがまずフランス語で話され、その後日本語に翻訳された。
これは大事な事実だろうと思う。それを覚えておくだけでも、ずいぶん意味がある。あえて内向きになるということの例かもしれない。
そういえば、この「日本語が亡びるとき」を読んだきっかけは梅田望夫さんの紹介だった。

4月の本欄で私は「英語圏と日本語圏とではネット空間の雰囲気がまったく違う」と指摘した。事実、水村の言う「〈書き言葉〉による人類の叡智の蓄積」は、英語圏ネット空間において、おそろしいスピードで進行している。「だからネットはけしからん」と言いたくもなる「知的に幼い日本語圏ネット空間」と比べ、知の圧倒的充実が進む英語圏ネット空間の在(あ)りようは、私たち日本人にとっての厳しい現実である。水村論考は、特にこれからの日本の若い世代が、母語である日本語と「普遍語」たる英語といかにつきあっていくべきかを考えるうえで必読だと思う。

はじめはどこまでが水村さんの考えで、どこまでが梅田さんの考えなのか判断できなかったけれど、じっさいに「日本語が亡びるとき」を読んで、梅田さんが見ているのと水村さんの見ているのと、だいぶ違った世界だということがわかった。
「〈書き言葉〉による人類の叡智の蓄積」というのは、水村さんの見ている世界。それを梅田さんが引用している。
「知的に幼い日本語ネット空間」というのは、梅田さんの見ている世界。これはおそらく、梅田さんがウェブ版産経の読者に向けて注意を惹くためにつかった言葉だろう。
水村さんの見ている世界と梅田さんの見ている世界が重なる部分と、重ならない部分がある。全部が全部重なっていたら、あまりおもしろくない。重ならない部分にこそ、考えるヒントがあるのではないかと思う。
水村さんはかなり長い論考を文芸誌に発表することで、そこに集まる人たちに期待をかけた。数は少ないけれど、一人あたりにかける期待値は大きい。
梅田さんは長い論考から凝縮された汁を抜き出して、それを振りかけることで、インターネットに通り過ぎるたくさんの人から、もう一歩踏み出してしたたかに生きることのできる若者、なにものでもない若者をすくい上げようとしている。数は多いけれど、一人あたりにかける期待値は小さい。だが実現のための苦労はいとわない。
ここでひとつの信仰の分かれ目がはっきりとするのだろう。
わたしはいままでは水村さん寄りだったと思う。かなり長いこと、文学研究の世界にいた。その一方で、梅田さん寄りの考えが自分のなかに生まれはじめていることをひしひしと感じる。「知的に幼い日本語ネット空間」と聞いて、ちょっとびっくりしてしまったが、ガツンときて、いったんは眉をひそめるけれど、よくよく考えてみれば、否定する理由はあまり見つからない。それに、ガツンとくる言葉のチカラ、つながろうとする磁力が強いことはわかる。そこから日本語を再編成していくのも、できない相談でもなさそうだ。
(つづく)