わたしはようやくキンドルを手に入れた。だがこれで本を読む気がしない。ディスカスしよう

(This is a translated version of "John Battelle's Searchblog" post. Thanks to John Battelle.)
わたしはつい先々週に誕生日を迎えたところで、その記念に妻がわたしにキンドルを買ってくれた。
そう、そのとおりわたしはまったくのデジタル・ガイだ。それに1992年にはバークレイ校に出した修士論文「インタラクティヴィティの時代における印刷の将来」で、世界規模のネットワークの恩恵でデジタル・タブレットが登場するだろうと述べたのだが--そのわたしはキンドルが発売されたときに走って買いに行きはしなかった。じっさい、わたしはどちらかといえばこのデヴァイスに胡散臭さを感じていた。というのはカルト的に熱狂しているファンがいたり、その購入方法のアプローチがどこか不透明であったから(「ウィスパーネット」は無料だ)。わたしはずっと、妻がことに触れてひとつ買ってみたらとすすめるのに抵抗してきた--彼女は例のカルト的な熱狂者のひとりであったのだ。
なぜだかは説明できないのだが、キンドルのなにかがわたしに違和感を感じさせていたのだ。(ひとつには、オープンな開発システムがないことが大きな理由だが、それだけでもない)。
だから妻がわたしの誕生日にアマゾンの箱をくれたときは・・・それはもう億劫だった。わたしはすでにキンドルを2つ買っていた。その両方は妻のものだ(彼女はどうしても2世代目のが欲しかった)。そういうわけで箱の中に何が入っているのかはわかっていた。だがコイツには冷ややかな思いを抱いていたので、やあワクワクするな、といった振りをするのは困難だった。結局のところわたしたちは結婚して16年以上になる。
話を戻すと、わたしの妻は明らかに「自分の」キンドルにワクワクしていた。そして彼女の熱意はその身振りにはっきり現れていた。彼女に礼を述べ、わたしはこの「一体何が入っているんだろう」の正体をみる切符を手にしたのだった。
そしてわたしたちはジャーンとばかりにコイツを取り出し、アカウントをセットアップし、そしてキンドル・ストアをあちこち見て回った。
そのときだ。なにかこう、腹の底からくるような、ほとんど衝撃的なものがやってきた。わたしはまったく、こうも、どうにも、このデヴァイスで本を読む気が起こらなかった。少なくとも、デヴァイスがセットアップされたばかりでは。ひょっとしたらこれは言い方が控えめすぎるかもしれない。言い換えると、わたしはまったく、本を読む気がしない。まったく、これまで自分が本を自分の書庫に置きたいと思ったときのような気が起きないのだ。
まるで身体が麻痺したかのようだった。わたしはデジタル版の本を買うとか、デヴァイスにダウンロードするとか、それを読むとか、文字通り想像すらできなかった。新聞や雑誌はどうか? やってみよう。すぐにニューヨーカー、NYT、WSJを見に行った。そしてしばらくはこの手の定期刊行物を購読してみようと思えた。あとはいくつかブログも読もうか・・・だがそこでまた、わたしはウェブで無料で読めるものにいくらかでも払うのは馬鹿げていると思えてきた。
じゃあ本は? 無理だ。
なぜか?
もうお分かりの方もいると思うけれど、わたしはデジタル恐怖症に駆られてしまったのだ。わたしの本というモノへの愛着は、デジタルになった長尺物のお話によって、はっきりと姿を現してしまった。
だが、正直に言うと、それはどうにも居心地の悪い気持だった。というのは、わたしはデジタルの将来について文章を書きつづけてきたから。いったい、わたしはどうしてしまったのだろう? 母親(祖母)が恋しくなったのか? わたしは救いようがなく時代遅れになってしまったのか? そのうちわたしは、自分の子供たちがケータイ・メールばかりしているから「リアルの」関係を友達と持てなくなっている、などとこぼすようになるのだろうか?
やれやれ。(デヴィッド・バーンはとくに問題を抱えていないらしい。ではわたしはどうなっちまったんだ?!)
そこでわたしは、キンドルのなにがいけないのか、自分の視点から考えてみた。いや、わたしの視点といっても読んでいる人(ほとんど)には納得がいかないかもしれないと思う。でもいずれにせよ隠しきれるものではない。で、どうしてなのかをじっと考えてみたところ、うん、わたしはキンドルで小説を読むというアイディアが気に入らないようだ。これは本というモノの成り立ちに関係があるのは明らかだ。だがそれよりも大事なのは、そのソーシャルな成り立ちのせいだ。つまりこれは、モノとして流通することで本はソーシャルなアイデンティティを持つという、わたしたちの文化のインフラストラクチャである。(数え切れないくらいの本で、この本という文明の産物について書かれている)
わたしたちが数百年にわたって本をソーシャルのものとして崇めていたやり方をキンドルが突き破って、新しいひとつを生み出したことは、わたしにもはっきりわかる(もし同じことがどこかほかの人によって言われていたとしたら申し訳ないが、コメント欄でリンクを書いていってほしい)。だが物書きとして、また本の愛好家として、キンドルはちょっと立派な(ネットにつながらない)ネットブック以上のものには思えなかった。
いくつか例をあげよう。

  • キンドルの本を誰かと共有することはできない。こいつはまずい。本を共有することは、おそらく人間同士の知的な行動として、もっとも重要で親密なものだろう。なにもモノとして共有するかどうかにこだわっているわけではない。共有できないというところにこだわっているのだ。これは罪だ。
  • その本を読んだということを誰にも表明することができない(もちろん自分自身に対しても)。わたしはこれを「図書館の問題」と呼んでいる。わたしは自分の読み終わった本をそばに置くことが好きだし、わたしの仕事場や家族の書庫に人がやってきて、わたしがどんな本を読んだか見られるのが好きだ。そう、一部には、そこに「とどまっているということ」が関係している。デジタルになったら「とどまっているということ」がどこかに消えていってしまうか? そうではないと思う。
  • 人前でそれを読むことによるセレンディピティが消えてしまう(それから人が読んでいる本を見当てる、あるいは自分が読んでいる本を見当てられることも)。この問題はこちらでも指摘されているのが有名だが、わたしはもっとおおごとだと思う。キンドルはいわばソーシャル・ブラインドネスという病気にかかっている。つまり誰もあなたがどんな本を読んでいるか(訊かないかぎり)わからない。たとえば地下鉄や飛行機、あるいは公園のベンチであなたがどんな本を読んでいるか、誰も知らないとしたら、なにか大事なものが失われている。無数に散らばっている開かれた関係は、そこで失われてしまう(もっとも、キンドルが好きですよとありありと表明できることによって、いろいろなロマンスが生まれることもあると思うが)。

頓珍漢だと決め付けられないうちに言って置くと、わたしはこれらの障害が時間が経っても消えないとは思っていない。デジタルのカタチとして本を共有するための方法は見つけられるだろうし、「本」をデジタルのソーシャルな関係の使者とするための方法も見つけられるだろう。
だが現状のキンドルは、本がわたしたちの文化において決定的に大事な役割を果たしていた部分を理解できていない。わたしはこのことに深く失望している。
でも10年経てば、あるいはもっと早いかもしれないが、グーグルがうまくやってくれれば、第一世代のキンドルを、わたしたちが本というものを崇めてきた文化の歴史のなかで重要だが決定的に欠陥のある「足つき魚」のようなものとして振り返ることになるだろうと思う。