まぁ、いろいろと・・・

彼女の誕生日も更新しないんじゃ、もうダメダメなんでしょうが・・・。でも、あれこれと感慨にふけられる権利の無い人間ですので、何も書けないんですよ。途中で去った根性無しなんで。
ただ、選抜に・・・という噂を聴いたんで・・・まぁ事実ならそりゃ嬉しいことこの上ないんだけど、なんだかその瞬間まで彼女を支える一人であり続けられなかったことの悔しさみたいな、そんなのが諸々あるわけです。
逃げ出したようなもんですから、俺自身。
でも、絶対時代が来ると信じていたし、今でも信じているんで。久しぶりに、しっかり手紙を書こう!と思います。それくらいしか、出来ないけど・・・。

オーディションのため欠席

つまり。
ウチじゃ面倒見切れないので、ある程度自分で頑張ってください・・・と投げ出されたようにも見える。まぁ、所詮その程度の扱いなんだろうと思います。
が、ドラマの端役でも自力でオーディションで勝ちとってきてくれれば、それで結果オーライだとも思います。佐藤由加理という人は、非常に推進力高く馬力のあるエンジンを搭載していますゆえ、その方がいいのでしょう。
まぁ、どっちかと言えばレンジローバーみたいなオフロード車ですがね・・・。
最近のファンはこういう風に言うと「この人何言ってるんだろう?」って顔しますけど、佐藤由加理とはそういう人です。まぁでも、だからこそ応援しようという気になるんですよ。

水着論

アイドルが己にとって天使だったとしたら、肉体という「俗」な現実を見せつけられれば当然に幻滅し絶望してしまいます。
アイドルが己にとって娘も同然だとしたら、衆目に身体を晒すことを容易に受け入れられる父親はそう多くはないでしょう。
アイドルが己にとって擬似恋愛の相手だとしたら、自分以外の野郎どもに肌をさらけ出すなんて認められないはずです。
というわけで、なかなか露出度を高めるプロモーションってコアな人間にとっては、少なからず痛みを伴ってしまうんですよね。水着戦略の対象は世間であって、身内じゃないので・・・と割り切ってしまうには、その痛みは大きすぎるのかもしれません。
とはいうものの、アイドルにとって水着は通過儀礼であり、同時に「水着こそがアイドル」っていうのが、日本の王道文化ですし、秋元康もそこは否定していませんから。(以前、アイドルは時期が来れば水着を着る、と公言していました。)そして、眞鍋かをりや優香のように、「脱水着」はその終着点だと思います。水着と縁を切ることが出来た時に、アイドルは「アイドル」を卒業できるんだろう、と。
水着と3サイズ信奉は日本のアイドル文化です。かのハロプロも3サイズ信奉の枠からは脱出できても、水着のセオリーからは抜け出すことが出来ませんでしたからね。いわんやAKB48だって例外なくこの道を歩みます。
折井とか星野とかは、そんな「アイドル道」からの脱出を試みたんじゃないですかね。それが彼女たちにとって正解だったかどうかはわかりませんが、少なくとも希望するルートでは無かったんでしょう。
避けては通れぬ水着の道。衆目の性欲にまみれた目線を洗礼として、この先も日本的アイドル道を進んでいくことでしょう。佐藤由加理つるぺた)がこの先どうしてゆくのか。つるぺたは大変ですが、無事「脱水着」にたどり着けるよう、願っています。

懐古映像

http://www.nicovideo.jp/watch/sm234594
って俺はまだこの頃は劇場通ってなかったんですけど。
今、AKB48が失ってしまったモノ、忘れてしまったモノが、きっと少なからずこの映像には遺されているのかなー、と。ドラクエじゃないけど、持てるモノの数は限られてて、何かを手に入れたら何かを捨てなきゃならない、ってのが物事の摂理だから、仕方ないですけどね。
ただ、普通は「これだけは捨てられぬアイデンティティ」っつーのがある(ドラクエで言えば「それをすてるなんてとんでもない!」ってやつ)と思うんだけど、じゃAKB48アイデンティティってなんじゃろな?って。そう考えるとAKB48の実体ってのが何だか本当に心許ないものだな、ってつくづく感じます。そもそも自分が初めて劇場に来たあの日の段階で、オープン当初のアイデンティティすらかなりの割合で失われていたのかもしれませんね。
だから、ヲタは個人推しに走ってゆくんだと思います。それはAKB48の「つまらないトコ」な気もしますけど、そのへんは個人的な感覚ですからねぇ。


この映像の中にある要素の半分がまだ生き残っていれば、俺も今でも全力でAKB48ヲタでいられたのかな?って思うんですけどね。残念ながら、今の自分は佐藤由加理ヲタ、です。ってそれが残念なのかどうかもわかりませんけどね。
というか、それすら危ういくらい、劇場から遠のいています。個人的に整理がついたら、劇場に行きたいな、って思ってますけど、少なくとも9月くらいまではそれも厳しい、ですね。

チームA終了

まぁ、一昨日は普通に札幌にいたので、何も言う資格が無いんですけどね。でも、これで「AKB48」はカタチを変えてしまうので、やっぱり名残惜しさが無いと言うと嘘になる。だから少しだけ。
個人主義の色濃いAKB48ではあるけれども、それぞれの葛藤が交差する交差点、それこそがチームAだったんだと思います。そして、その葛藤の交差なくして、あんなリアリティに溢れるステージは実現しなかったとも思うんですよね。
舞台の上は、虚構の世界でもなければ、描かれた理想でも無い、ありのままの、少しグロテスクなくらいの現実に満ちていました。お互いのむき出しの葛藤が言葉で覆い切れずにはみ出してしまっていました。だから、確かにステージとして見れば一体感を欠く稚拙なものだったかもしれない。けれども、そこには確かにドラマがあって、観客はそこに繰り広げられるドラマに熱狂し、陶酔し、そして「各々にとっての主人公=推し」に感情移入して葛藤を共有してきました。
それがかの場所がAKB48「劇場」という名で呼ばれていることの、大きな証左のようにも思います。チームAは、そういう場所でした。楽しかったです。唯一心残りなのは、その最後の日にそちらに行けなかったこと、だけれど、逆に言えばそれだけです。ありがとう、チームA。