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2012-01-08 Sunday 但木敬一元検事総長を第2回文化講座にお招きしました。教西寺のホー

昨年は、徳川文武先生をお招きし、第1回目の教西寺・やわらぎ幼稚園やわらぎ保育園企画の文化講座を開催しました。徳川先生は、水戸藩最後の藩主徳川昭武の曾孫で松戸徳川家第3代当主です。


今年の第2回文化講座は、平成24年6月17日(日)に、元検事総長の但木敬一先生をお招きしました。質問の時間も設けています。これから法曹希望される学生の方々のご来場を歓迎いたします。


せっかくの文化講座なのですこし広くお知らせすることにいたしました。教西寺ホームページを開設した動機です。未完成ですが、少しずつ手を加えていこうと思っています。

教西寺ホームページ

2009-03-09 Monday 検察の愚挙

検察は間違っている。検察の愚挙は歴史的に高くついた。検事総長は、歴史に記憶されるポストではないが、検事総長樋渡利秋は愚物として歴史に残るかもしれない。林健太郎が「ワイマール共和国」という本で、ヒトラーの登場を許した責任を共産党にあると記述していたことを思い出した。

小沢一郎の政治献金の処理が、検察が主張するように重大犯罪であったとしても(私は微罪にもならないのではないかと思っている)、現在の時点で第1秘書を逮捕するのは政治的に偏向していると思わざるを得ない。逮捕は、政権交代で一番損をする公明党を守ろうと考えた検察に潜む創価学会勢力に突き上げられた結果ではないかと思う。おそらく、創価学会も公明党も、幹部は指示をしていないと思う。跳ね上がりの行動であろう。

検察が本当に政治の浄化と思うのならば、衆議院選挙が終わり、政権交代が実現して、小沢一郎が総理大臣になってから逮捕すればよかった。樋渡利秋が本当の男であればそのくらいの気概がほしかった。検察も権力の一翼であることは事実であるが、きれい事をいうのであれば、現職の総理大臣秘書を逮捕してもらいたかった。韓国のように何代も、前任大統領が逮捕される政治状況は、遅れている。日本は、政権交代により政治浄化が実現する民主主義国にならねばならない。総理大事である小沢一郎の秘書を逮捕し、小沢一郎が失脚しても日本の政治はより民主化される。国民は、小沢一郎を支持したのではない。民主党を支持し、政権交代を目指したのである。小沢一郎が辞職し、岡田克也でも総理大臣になればよい。今回の検察の愚挙は高くついた。(2009/03/08 10:15初出)


先日の小沢一郎の郵政民営化についての発言について以下のように考えていた。アップしておく。

全国郵便局長会(全特)で、小沢一郎が郵政民営化反対の発言を行った時は、「狂ったか小沢一郎 ― 郵政民営化の否定」いうタイトルでブログを書こうと思ったが、いまいちテンションも上がらずそのままになっていた。特定郵便局長には、中に立派な人物もいるが、とんでもない人物がいる。特定郵便局長は、お金持ちか公務員のOB相場が決まっている。日下公人は、日本全国津々浦々寒村まで特定郵便局を設置したのは、兵隊の徴収令状を届けるためであったという。命を出させるためのシステムである。私も同感である。江戸時代、寺院が権力の末端として寺請制度に組み込まれ危険思想のチェック機関になって庶民の反感を買ったのと同じ構図である。地元の有力者が特定郵便局長になったが、お金持ちや権力につながる者は、目立たないように生活しなければならない。社会に奉仕しなければならない。今の特定郵便局長の姿はどうか。実例であるが、一部の利害と結託し高潮堤防建設に反対し、現状の低い堤防(平成20年11月のテレビ朝日が全国放送していた)を高潮がオーバーフローすれば地域が2階まで水没し多くの人命と財産が失われる状態を作っている。そして外車を何台も乗り回している。それが特定郵便局長の実態である。彼らがなぜ公務員資格に固執するのか。インターネットやネットバンクが普及した現在、郵便局業務が、山奥の2〜3人しか住んでない地域に必要であろうか。小泉郵政民営化の時に、テレビ等で放映された山奥の状態は、郵便で救済されるべきでなく福祉で救済されるべき問題である。本当に郵便局業務が国で維持されなければならないとしても(私は全面的に民営化すべきと考える)、それは本局レベルのみに限定し、特定郵便局は民間化されるべきものと考える。巨大な利権集団の存在は、政治に有害バイアスをもたらすだけと考える。

【資料】

全国郵便局長会(全特)と郵政政策研究会は(平成21年1月)31日、都内で合同集会を開き、民主、国民新両党を支援し、次期衆院選での政権交代と郵政民営化見直しの実現を目指す方針を確認した。国民新党から綿貫民輔代表らが出席、民主党の小沢一郎代表、菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長を初めて招いた。

 小沢氏は「国民新党と民主党がしっかりと信頼関係を築き上げ一致協力すれば、必ず郵政民営化見直しを実現することができる」と強調。浦野修全特会長も「両党幹部の声を地方に持ち帰り、郵政民営化見直しに最大限努力することを確認しあいたい」と述べ、全面支援を訴えた。(19:32、NIKKEI NET)

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2008-07-18 Friday 宗教とは

宗教の定義を云々することはむなしい。岸本英夫が宗教の定義を採集してまとめているが、退屈である。ご本人も退屈であったと思う。論文の約束事として調べ羅列しただけである。

私は最近次のように実感している。宗教とは、人間を生きさせているものである。死も生きることの帰結である。生の一態様といえる。生きているということは、宗教のなかにいるということだ。人が今ここにいる空間が、即すでに宗教空間である。

宗派の教義(教義は、キリスト教等の一神教も含め、すべて宗派の教義としてある)は、時間と空間との相関関係で機能している。教義だけ切り離して論じても意味はない。宗教の伝播と変容もこの文脈の問題である。変容は、抽象的単語が同じでも(翻訳は抽象的に同じとはいえなくなるが)、言葉以外の文化によって意味が違ってくる。

私は、マルクス主義が無宗教であり、マルクスは「宗教はアヘン」というが、マルクス主義の幻想が雲散してみるとマルクス主義は宗教そのものであったとの意見に賛成する。マルクス主義は、キリスト教そのものであった。マルクス主義者は、牧師(神父)だった。

人に宗教が必要かの議論はナンセンスである。生きているということは、宗教を受け入れているということである。宗教が個人的か集団的かの問題も、人は生きているためには、1人のみの存在が不可能という人間存在のあり様と関係する。浄土真宗は、集団のなかで最も個人主義的に生きる教えである。

最も個人主義的な生き方を追求する浄土真宗が、巨大な教団を維持しているのはなぜであろうか。寺院は、1村1ケ寺(いっそんいっかじ)が経営的には一番安定する。都市の寺院は競争にさらされ厳しいものがあるが、門信徒(信者)の意識のなかに、俗社会と同様の名誉心、出世競争などの集団的要素をふんだんに入れ込んで寺院護持集団をまとめるとうまくいくようである。徹底的に品位を下げて低俗化するのが寺院経営のコツか。私は堕落と思うが。類は友を呼ぶということか。

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hobbyshahobbysha 2009/01/19 16:59 はじめまして。
ウロウロしていましたら、ここにたどり着きました。
興味深く読ませていただきました。

>--------浄土真宗は、集団のなかで最も個人主義的に生きる教えである。

その最終到達点は無政府となり、ひょっとしてマルクスの理想となるものかも知れません。
幼稚園時代に親鸞上人の名前を記憶させられ、もうすぐ60になる身には、あらためてこの事を考えてみたいと思っています。
http://blog.goo.ne.jp/5111_001/

お気に入りに入れておきますので、発信を続けてくださればありがたいです。

いらんおせっかいでしょうが、トラックバックの整理はこまめに。

2007-01-16 Tuesday セクハラ(セクシャルハラスメント)

週刊新潮の高山正之「変見自在」は、買ったときは必ず読んでいる。平成19年(2007年)1月18日号の「(サダム・フセインを)悼む」は、興味深かった。

「 これ(=女性を教育から遠ざけ、家に閉じ込めること)は国家の損失になる、と宗教からの脱却を求めたのがイラクのサダム・フセインだった。……(中略)……イラクも同じでイスラム聖職者、とりわけシーア派は彼(=サダム・フセイン)に対する暗殺を執拗に企て続けた。

 彼はそれを徹底的に弾圧した。今回、彼に死刑判決をもたらした「シーア派の虐殺事件」がそれだ。

 彼の鉄の意思はついに宗教界を黙らせ、イスラム圏にあってここだけが女性に教育と社会活動を保証するまともな国になった。

 国民の半分が生き返ったイラクは急速に国力を伸ばし、忘れていたアラブ民族意識も取り戻した。

 ただそれが欧米には都合が悪かった。アラブ国家は頑迷固陋な宗教に浸ったまま石油さえ供給していればいい。変に民族意識をもっては困るというわけだ。

 それでサダムは取り除かれた。」

小滝透が、アルジェリアの革命家フェラウーンの「アラブは女性の膣にその名誉を埋め込んでいる」との言葉を紹介している。

「一神教と性」「予定説」について、私と岸田秀氏とのやり取りをお読みください。

週刊新潮の同じ号に「園児がセクハラ」という記事が載っていた(58ページ)。

「米メリーランド州で、5歳の幼稚園児が園内で女の子お尻をつねった件がセクハラと認定され、その記録は中学を卒業するまで付いて回ることになった。テキサス州では女教師に抱きついた4歳の男児が通園停止処分になった。」

日本では信じがたい事件である。ここに米国ピューリタニズムの真骨頂を見る。昨今の「セクハラ」も、米国ピューリタニズムの起死回生の悪あがき(「性」で人間をキリスト教に縛り付ける)というのが正しい位置づけと私は考えている。日本社会に強姦が少なく、米国社会に強姦が多いのは合点できる。強姦とセクハラは本質的に異なる。

赤松啓介「夜這いの民俗学」等の日本の性文化についての著作は、非常に有益である。

「大阪で強姦強盗事件30件超」Sankei Web(2007/01/13 17:56)というのは、日本の文化に異質である。外国人犯罪か、日本文化に異質な日本人か。日本文化が変質したのであろうか。

2006-11-26 Sunday 神仏混淆

私も神仏混淆です。

広島は雨でした。今日(日曜日)、私が町内会長をしている町内で亥の子祭りをしました。あいにくの雨で、町内の会館の前で亥の子もちをついただけで、街に出ることなく亥の子祭りを終了しました。

数年前、町内の係りの方が、神主に連絡するの失念されており、私が仏式で亥の子祭りをすることになりました。町内会副会長に浄土真宗寺院出身の方(70才代)がいて、その方も同意(黙認?)の上でしたが、私も気を使いました。結局、神主に連絡がついて私は仏式の亥の子祭りを主宰しませんでした。しかし、町内会長をしながら、亥の子祭りは継続しています。浄土真宗の僧侶として、失格でしょうか。

犯罪はあるべきだと発言しながら、まだ治安権力から問合せを受けていません。広島の中央防犯連合会の理事も続けています。

今日の終わりのご門徒の十七回忌法事で、長い法話を終えたところ2時間たっていました。午後5時半になっていました。興味の持てた話だったのか、単に我慢していただいたのか良く分かりません。長くなったことをお詫びをした後辞し、自坊に帰り反省しています。

お付き合いさせていただいた方や親戚、存命の方・故人の方、おそらく矛盾を感じ・忸怩たる思いを抱き娑婆での生活をし・されたでしょう。私は、あまりのもの綺麗ごとの発言・生き方に共鳴できません。私がお付き合いをさせていただいた方・影響を受けた親戚の方が、矛盾に満ちた誠実な娑婆での生活を送られたことを信じるのみです。

本願寺の基幹運動の闘士や浄僧に私は共感を持てません。浄土真宗の僧侶の書込を期待いたします。できれば本名でコメントしてください。

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2006-10-30 Monday 猟官制…個別と全体はまったく別物である。そして西本願寺の宗政のあ

安部晋三内閣のポストは論功行賞であり、猟官行為だとマスメディアは報じている。猟官制に対する日本の常識は否定的である。私は、猟官制のすすめを熱心に説いてきた。一言、コメントしておきたい。

民主政治は、ミクロ的に観察すれば、賄賂政治.である。集積すれば、専制政治に対する民主政治になる。専制政治とは、君主政治・独裁政治である。天皇制政治も究極的には専制政治である。我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。

猟官制は、個別的に行えば、品のない買官行為であり、賄賂政治への道である。政権獲得者が組織的に行えば、官僚組織を掌握して民意を実現する民主制の完全なる機能発揮である。そして、政権交替したときは在野への人材供給である。この在野への人材供給が、成熟した民主的社会の担保である。

安部政権は、今回の組閣については評価できない。安部首相の対北朝鮮の姿勢が見るべきものがあっただけに残念である。

我が宗門(西本願寺)は、どうであろうか。大谷光真門主が、武田昭英とその対立者を戦わせるような玉手箱にされなければ宗門の未来は暗い。ご門主は、僧侶と門徒から、手続き的には宗会から意思表示の機会を奪われるべきではない。(blog安芸ねっとwebryに2006/10/28 21:20アップ)

【資料】

猟官制が宗門を変革する(スポイルズシステム)

小沢一郎の終身雇用・年功序列セーフティーネット説は、猟官制である

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blog安芸ねっとwebryへの「大室☆寅之助。」さんのコメント2006/10/29 11:59

 こんにちは。質問ですが、シャカの教えとはそもそも何でしょうか?私見ですが、北伝仏教は伝播する過程で変容し、本来の姿から外れているのではと疑念を持っています。>我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。 と、おっしゃっていますが、宗教というより日本の仏教は政治そのものに見えます。


blog安芸ねっとwebryへの管理人(武田勝道)の書込2006/10/29 02:00【←メンテ中でアップできない。】

書込、ありがとうございます。

まず「我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。」は、宗政について述べたものです。国(俗)の政治についての記述ではありません。もっとも、鎮護国家の仏教として伝来受容されたので、ご指摘のような「日本の仏教は政治そのもの」の印象はあると思います。しかし、宗教は内心というのは、明治時代のキリスト教徒による非常に意図的洗脳であると思います。むしろ、世界的には、宗教は人間存在を包括的に規制するのが本来的であり、すなわち、政治を含む生活全部です。イスラムやキリスト教に顕著です。それと、宗教は、一人のみを対象とするのか、集団を対象とするのか、古くて新しい問題があります。

お釈迦様の教えは何かと大きな質問をされても非常に困惑しますが、私は、お釈迦様は寂静をお教えくださったと味わっています。さとりの向こうは、死の向こうは、彼岸は、シーンとして何もなく静かなのではないでしょうか。真如に入海一味です。

伝播・変容の問題ですが、戒律にしても、暑い地方と寒い地方で同じであることはできません。人が他の人を理解するとき、自分の個性が認められないのでしょうか。お釈迦様の説法は、対機説法であったといわれています。そもそも、原理主義的であっても、2600年前のインドのお釈迦様と現代の日本人が(インド人ですら)同じであることはできないでしょう。キリスト教も、キリストの考えではなく、パウロの考えであり、パウロ教であるといわれています。そして、パウロのキリスト教と現代のキリスト教が同じではないでしょう。

言葉の問題、音写か意訳かにはじまる翻訳の問題、受け手の自由や能力の問題は、人が人を理解する、しかも言葉を超えて理解するとき重要です。「原理主義」といわれるものは、形式的すぎるのではないでしょうか。親鸞聖人の教えは、娑婆で命を燃焼する教えです。燃え尽きたとき往生する。私には、お釈迦様の教えの究極の姿に思えます。

blog安芸ねっとwebryへの「大室☆寅之助。」さんのコメント2006/11/11 17:31

 大変に丁寧なお答えありがとうございます。>宗教は、一人のみを対象とするのか、集団を対象とするのか、古くて新しい問題があります。・・最近の社会・政治に関する様々な現象を見ておりますと、仏教界に期待したいことは沢山あります。私としては、小乗・大乗といった壁を超えた原初的な仏陀の教えを啓蒙して頂きたいと思います。

2006-10-02 Monday 宗教者として自殺行為

48歳の男が30万円相当の軽乗用車を窃盗し、福岡市西区の教会の牧師に窃盗を告白した。教会は警察に通報し、男は逮捕されたそうである。(Sankei Web 2006-10-02)

私は、この牧師は宗教者として失格であると考える。説明はいうまでもない。キリスト教関係者の意見を聞きたい。

2006-08-07 Monday 寺族研修(中島隆信先生「現代のお寺が抱える問題と今後の生き残り策

広陵東組の寺族研修が2週間後になりました。

と き:平成18年8月24日(木)午後2時〜

ところ:広島別院大会議室〒730-0801広島市中区寺町1-19

慶応義塾大学教授中島隆信先生に「現代のお寺が抱える問題と今後の生き残り策について」という演題でお話していただきます。


参加者には、以下の資料を配布いたしました。

中島隆信著「お寺の経済学」(東洋経済新報社、2005年)より抜粋。

「大衆を結束させないための最も有効で効率的な方法は、日本人から信仰心を取り去ってしまうことだ。檀家制度はまさにその役割を果たしたといえる。

 檀家制度によって住民は檀家として近隣のお寺に縛り付けられた。

……(中略)……

お寺(宗門)サイドにとって、檀家制度は常に安定した顧客を保証してくれる。現状維持を確約されれば、どのような事業者であっても進取の精神を失っていくだろう。

 こうした状況が約二六〇年も続いたのである。しばしば日本人に宗教心がないといわれる原因はここにある。お寺を弾圧するのではなく、飴を与えて骨抜きにする。保護政策というものがいかに産業を駄目にするかの典型例といえる。」(39頁)

「 檀家制度によって信者が確保されたので、住職の仕事としては仏教の教義を信者に伝えるというよりも檀家からの布施収入を増やすことの方が重要になった。そのため、お寺はいかにして檀家を呼び寄せるかに腐心することになる。

 その一つは、仏教行事の儀式化だ。……(中略)……もう一つは、日本に古くからある先祖崇拝の儒教思想を利用し、ご先祖様の追善供養を定期化・恒例化することだ。四九日、一周忌、三回忌、等々、一人の死者に対し、数度にわたって法事が執り行われることになる。」(40頁)


「住職も同じコミュニティの住民が檀家になってくれれば、固定客を獲得することになるわけで収入の安定化につながる。特に境内に墓を所有する檀家の場合、墓が担保された寺檀関係として両者のつながりはより強固なものになるだろう。

このように檀家制度という長期契約は、寺檀間の取引を信頼関係によって安定化させる。問題は安定によって緊張関係が失われることだ。檀家は毎年同じことをただ繰り返すだけの宗教儀式を続けているうちに、仏教信者としての本分を忘れ、仏教の教えに対する興味を失っていくだろう。一方、お寺の住職は地域の葬儀・法事担当業者となってしまい、布教活動という本来業務を疎かにするかもしれない。

それでも地域コミュニティが堅固なうちは、お寺と檀家相互のコスト節約のため、檀家制度は機能し続けるだろう。」(50頁)

「近代化とともに職業が細分化、専門化され、僧侶の仕事は次々と専門職にとって代わられていった。

これまで僧侶が得意としてきた葬祭部門についても葬儀社の攻勢が強く、僧侶の仕事は次第に隅に追いやられてきている。そしてついに、僧侶の資格を持たずマンションの一室のみで営業する「マンション僧」が登場してきたという。葬儀社と手を組み、格安の料金で読経サービスを行うそうだ。需要があるところには常に新しいサービスが生まれる。内容は異なるにせよ、かつての私度僧のようなものといえる。」(98頁)

「お寺は一周忌や三回忌など先祖の追善供養も行って、収入を増やす工夫をする。死者の魂が安らかであることを祈るのが追善供養の趣旨である。これは元々仏教ではなく儒教の思想によって生まれた風習である。江戸時代の僧侶はこうした異教の考え方を仏教に取り込み、法事として定着させたのだ。

こうしてお寺は葬儀と結びついていった。人間は必ずいつかは死ぬ。お寺が葬儀を担当することは絶対になくならない仕事を手に入れたということを意味するのである。」(159頁)

「 お寺の再生を図る道は一つしかない。それは墓をお寺から切り離し、檀家制度を一度完全に解消することだ。現在のままでは信者はお寺を選べない。一旦、あるお寺の檀家になってしまうとそこから離脱するには多大なコストを要するのだ。

まずは信者に選択の自由を与えるべきである。そして本当にお寺に来たいと思う信者だけを改めて集めなおせばよい。そのとき、住職の真価が問われることになる。宗派の教えをわかりやすく説き、信者の心を引き付けることのできる僧侶が支持されるだろう。住職は別に世襲でも構わないが、後継者をしっかり育てておかないと、住職の世代交代と同時にお寺離れが起きる可能性もある。」(220頁)

2006-04-30 Sunday 修験道と浄土真宗

 梁塵秘抄に、「聖の住所はどこどこぞ、箕面よ、勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵、日の御碕、南は熊野の那智とかや」という歌があります。"「聖の住所はどこどこぞ」の旅"を企画したいと思います。浄土念仏信仰は勝尾寺の証如(あるいは勝如)から始まるといいますが、証如に教信が教えたといいます。教信寺には、法山総貫さんが寺族部長時代に企画し訪問しています。お念仏のふる里を訪れて、雰囲気を確認したいと思います。武田は、すでにいろいろ訪問していますが、改めて系統立てて源流を確認したい。

なお、先にふれた光格天皇は興味深い天皇で、新嘗祭や大嘗祭を復活し、聖護院を仮御所とし、天台系の修験道と関わりがありました。修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)が滝安寺で受法・入滅したと伝えられているので、光格天皇は、御所の門を滝安寺の山門に下賜したそうです。

箕面(みのお)の滝安寺(りゅうあんじ)、応頂山勝尾寺(おうちょうざん かつおうじ)、書写山圓教寺(姫路駅からロープウェイの駅まで市バスで20分。ロープウェイで4分。)、島根の浮浪山鰐淵寺(がくえんじ)、日の御碕、熊野那智大社

注)教信は、親鸞が尊崇したと伝えられている。


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2006-04-28 Friday 儀礼、荘厳雑感

創価学会   (荘厳ついて―真宗との対比)

日蓮宗」「宗教と政治」「宗教と国家権力」というテーマで、東京信濃町の創価学会本部を訪問しました。「創価学会本部を訪問して雰囲気を実感し、貴会の人材に親しく接し、創価学会の将来を分析し、浄土真宗の将来を切り開くのが目的です。」と文書で、訪問の趣旨を伝えました。訪問では、広報室長・総主事・館長など本部の最高クラスの幹部に直接案内していただき、意見交換もいたしました。打解けた雰囲気でしたが、我々の訪問は、よほど警戒されていたのでしょうか。しかし、質問に対応できるメンバーで迎えてもらい、かつフランクに答えてもらえ、意義ある話合いとなりました。

 次に、儀礼に関する見聞と感想を報告します。「創価国際友好会館」大ホールのステージ上にある礼拝施設を近くで拝見させていただきました。正面の机にある横長の長方形の香炉は、防災上の理由で火は使用されていないとのことでした。本尊は日蓮宗系特有の長く伸ばした文字のお題目でした。厨子は電動で扉が開きました。両脇には、丸いやや縦長の卵形の樒(しきみ)の青物のお供えがありました。横の一番膨らんだ所の直径で60〜70センチ位です。翌日訪問した大石寺の荘厳と同じでした。植物のお供えは、この1対のみです。荘厳は、大石寺と喧嘩別れになった前後で全く変更を加えていないそうです。大石寺と喧嘩別れした後も、荘厳様式はまったく変更していないそうです。荘厳にたいする無関心には少なからず驚きました。

 真宗も、先鋭的で知的な人たちは、荘厳については淡白か自己の趣味の反映と理解しています。

歴史的には、装束や荘厳になかなか神経質に精力を使っています。本願寺が東西に分裂した後は、双方が独自性を出すべく衣の色も上下が東西本願寺で逆になっています。白色の色衣は、西本願寺では高位の衣ですが、東本願寺では一番下位だそうです。以前、長門義碩団長で東本願寺を訪問した折に案内いただいたご僧侶の方が話されていました。本尊脇の荘厳の生花は、高田派専修寺など本願寺以外は松を基本とし、長野善光寺のそれによく似ています。西本願寺系は華やかに色物を用います。

以前、島田裕巳さんを研修会にお招きした折の、「浄土真宗の雰囲気には、新興宗教の雰囲気がある」という発言を思い出します。私は、島田裕巳さんの指摘を、浄土真宗が生きている宗教であるという意味に解釈しました。

 創価学会の荘厳にたいする態度と浄土真宗の荘厳にたいする態度の差を分析することがテーマとして残された。

 なお、政教分離、世襲、創価学会とキリスト教について、blog安芸ねっとwebry「創価学会本部訪問記」参照。

●儀礼の一つの役割

儀礼論は、大村英昭関西学院大学教授・大阪大学名誉教授が苦闘していましたが、その形而下的意味合いも十分視野に入れなければならないことです。首都圏での有力若手僧侶の集団であるPOSTEIOS研究会のメンバーなどは、東京首都圏の西本願寺既成寺院のギルド化運動とも形容すべき新規参入阻止を主張しています。このような状況のもと、儀礼はどのような機能を果たすのでしょうか。芸能を観察するとよく理解できます。歌舞伎芸人は、代々世襲でその芸能を継承しています。そのような名門芸人は、もちろんコネも強力でしょうが、カラダにしかるべき身のこなしが元から染み付き、立居振舞いが自然そのようになっています。仏教用語でいえば、薫習(くんじゅう)です。田舎芸人は、芸を磨いても田舎芝居でしかすぎません。既成寺院、特に名門寺院になると、その子弟は儀礼を学ばなくても、そのままサマになります。儀礼の専門家は、社会のどの分野においても非常に低い身分として扱われています。(末臈発音という言葉などはこの系列の言葉です。)江戸時代末期の光格天皇(閑院宮系・明治天皇の曽祖父)や西本願寺の大谷光照前門主のように出自が傍系出身の劣等感を持つ者は、自己を武装するために儀礼に熱心になる(安芸ねっと「本願寺教団は何をすべきか」参照)のですが、そのような権力を持たない下層民は成り上がりたくても、儀礼は非常な障壁になります。儀礼は、育ちのよい者か、タレントである場合以外は、新規参入を排除する働きをします。武田は、儀礼のこの機能は、許されない差別であると考えますが、基幹運動の闘士にこのような問題意識はありません。基幹運動の闘士は、実に不思議なメンタリティの持ち主です。

2006-02-27 Monday 免責特権が分かっていない民主党

blog安芸ねっとwebryに「免責特権が分かっていない民主党」を書き込みました。宗門のご門主の地位についてお考えください。


河村たかし民主党議員が、あちこちのテレビで永田寿康民主党議員の免責特権を主張している。

河村たかし議員は、国会議員はデタラメ発言をしても許されると考えている。彼は、免責特権を全く理解していない。

不逮捕特権や免責特権は、永田寿康民主党議員のようにデタラメをした議員を保護する制度ではない。この特権は、まっとうなことをした議員を保護する制度なのである。歴史的に議会は国王等の権力に対抗する勢力である。権力はその発現を妨げる行為をそれが正しくても嫌う。権力は、まっとうな議員を間違っているとか気違っていると難癖をつけ、刑罰を科したり精神病院に入院させ身柄を拘束してきた。そのような議会の機能低下を防止する制度が、不逮捕特権や免責特権である。国会議員の責任が徹底的に追及されるは当然である。責任を回避したければ、国会議員にならねばよい。ただ、正しいか否かは判断できない場合が多い。したがって、デタラメなものも何もすべて含めて無責任としたのである。この無責任は、主に身体的拘束を禁ずるところに想定されている。政治家の責任は、徹底的に追及されねばならない。今日、議員の責任追求は、制度的には選挙という方法に限定されている。私が「前原誠司代表を辞任させなければ、次回の総選挙で民主党が勝つことはできない 」といったのはこの文脈である。西本願寺教団(浄土真宗本願寺派)で、門主の無答責ということが利権屋僧侶によって主張されている。門主であろうが天皇であろうがローマ法王であろうがイギリス国王であろうが、権力を行使すれば必ず責任は発生する。権力行使を放棄しなければ無答責ということはありえない。

権力行使側の責任と権力抑制側の責任と法的制度としての発現のあり方の違いである。

無答責、不逮捕特権、免責特権の現代でのあり方は、随分変化してきた。権力側の無答責はいかなる場合でも認められない。議員側の不逮捕特権、免責特権もメディアの発達した時代では、権力側の議員拘束が難しくなったので様相が変わってきた。永田寿康民主党衆議院議員が即刻議員辞職をしなければならない理由である。議員辞職しなければ、民主党は総選挙で再び大敗するであろう。


日本国憲法第五十条

 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。

日本国憲法第五十一条

 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。


2005-11-12 Saturday 本願寺門主は、近い将来交代する。門主は何を置き土産にされるべきか

大谷光真ご門主は、親鸞聖人750回忌大遠忌終了後に交代される。

門主は何を置き土産にされるべきであろうか。

玉手箱を放棄されることを置き土産にされなければならない。

玉手箱

2005-10-30 Sunday 「人権擁護法」反対の投稿をいただきました

人権保護法案  投稿者: 鈴木健一  投稿日:10月30日(日)15時21分31秒

管理人様、

人権擁護法」に反対されているようなので、書かせていただきます。

鳥取県で「人権擁護法」をさらに改悪したような「人権救済条例」という条例が、

10月12日に、誰の目にも触れず、可決されました。

人権を守るはずの弁護士会の猛反対にもかかわらず、わずか5日で半ば強行に可決されました。

その内容は条例文に後から(県外にも影響する)事が付け足されるなど常軌を逸した内容です。

また、都合の悪い部分を故意にかくしたQ&Aを作成するなど悪意があるとしか思えません。

この条例が施行されたら全国に影響があるため、事実上「人権擁護法」が施行されたも同然となります。

主な反対運動の場は、悪名高い「2ちゃんねる」ですが、彼らは必死です。

施行開始は06/06/01以前となっております、もう時間がありません。

まずはこの条例の存在を知っていただきたい、そして、多くの方に伝えていただきたい。

どうか、よろしくお願いします。

関係リンク

http://blog.livedoor.jp/no_gestapo/

http://www.powup.jp/jinken/tottori/

http://no-jinkenhou.net/

2ちゃんねるOFF板

http://off3.2ch.net/offmatrix/

鳥取県の人権救済条例(人権保護条例)・全文

http://www.pref.tottori.jp/gikai/teireikai/17-09/giinteian.htm


上記は、BBS安芸ねっとpurelandへの投稿です。(武田勝道(管理者))


お読みください。 人権擁護法は、治安維持法と同じである

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2005-10-27 Thursday 靖国神社と本願寺について……政治結社会長との対話

政治結社の会長から、靖国本願寺の抗争について本願寺と話し合いをしたいが、「無駄」と思うかとの質問を受けました。インターネットで調べると実在の団体であったので、私の考えをお伝えしました。私は真剣に返事を認めましたので、大方のご批判をいただきたいと存じます。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

                                            平成17年10月27日

政治結社 大日本清導会総本部

会長 百武次郎様

                                        浄土真宗本願寺派教西寺

                                        住職 武田勝道

結論から申し上げますと、どのような思想・信条の者であれお互いに議論あるいは論争を行うことは大切であると思います。しかし、ご質問の靖国問題については、議論が噛み合わないと思います。そういう意味では、話し合いは「無駄」です。浄土真宗本願寺派の僧侶である私は日頃から本願寺の宗務員の空理空論を批判していますので、この点からはあなた様が本願寺に話し合いを申し込まれるのは有意義と存じます。

以下若干私の意見を述べます。メールをいただいたということは、私のホームページやブログをお読みいただいているからだと思いますが、私の考えは浄土真宗本願寺派(西本願寺)の“公式見解”とは異なっています。小泉首相の靖国神社参拝に対する抗議する宗派の“公式見解” http://www.hongwanji.or.jp/2005/info2005/20051017_info.htmは、必ずしも宗門全体に共有されてはいません。

ご承知のように、明治時代の廃仏毀釈で、権力的に神仏分離をいたしました。下世話な表現をすれば、仏教僧侶にとって国家権力と結託する平田神道の影響を受けた神道の一派である国家神道からの縁切状であり喧嘩でした。仏教僧侶である浄土真宗の僧侶が、宗教的信条の発露として靖国に参拝することはまずないと思います。靖国神社がまじめに宗教的に軍籍にあった戦没者を追悼されていれば、靖国神社の神官(官は国の役人という意味ですが、神道の宗教者の総称を知りませんので仮にこの言葉を使用します。「禰宜」は宮司・神主を含む総称と考えていいのでしょうか。僧侶に対応する言葉は何なのでしょうか)は、浄土真宗でもおこなっています戦没者(おそらく原爆被害者等も広く包含しています。少なくとも広島では原爆の犠牲者を包含しています)の追弔法要に参拝しないでしょう。これを「靖国対本願寺の抗争」とは、浄土真宗の多くの僧侶は捉えていません。私を含めて浄土真宗の僧侶は、靖国神社が現在靖国にまつられている御霊を追悼されることそのものに異議を言ってはいません。現代では、宗教戦争をする浄土真宗の僧侶はいません。

本願寺の基幹運動に多くの浄土真宗の僧侶は疑問を持っていました。その支持を背景に武野以徳前総局は、基幹運動組織の改組をいたしました。上述の不二川公勝現総局の抗議は、非常に形式的であると私は考えています。

過去何千年も人類は戦いをしてきました。現在も軍隊なくして地球の民族等のグループが生存できるか。私は社会党の土井たかこ元党首を強く批判しています。北朝鮮の拉致を否定していた彼女は、北朝鮮自身が拉致行為を認めた後に、北朝鮮の拉致についてとってきた彼女および社会党の言動を明確な言葉で総括していないからです。彼女は評論家ではありません。野党第一党の党首という非常に責任のある政治家だったのです。戦国時代、日本は世界有数の鉄砲所有国でした。そのお蔭でヨーロッパの植民地になることを免れました。明治時代も富国強兵政策によってヨーロッパの植民地にならずにすみました。明治時代以降、多くの過ちもしてきましたが、私はヨーロッパの植民地あるいは奴隷になることが良かったとは思えません。現在の中国や韓国は、近代以降の日本のヨーロッパに対して独立を守った恩恵のうえにその存在が確保されました。

私は宗教と政治は不可分だと考えております。国家権力は、特定の宗派と手を組んではならない。しかし現実の宗教は、汎宗派としては存在し得ない、特定の宗派としてのみ存在します。この綱渡りを国家権力に求めたのが憲法の政教分離です。本願寺でも右翼でも、単純な原理主義は威勢がよいと思いますが、道を誤ります。

私は、光と影のない本願寺基幹運動や右翼の天皇崇拝に疑問を持っております。光と影のない人間存在は危うい、民族は危ういと思います。あなた様が本願寺と話し合いをされ、双方が光と影をもった陰影のある思想を持つことになれば、日本を救うことができます。

以上、あくまで私の個人的考えを述べました。


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2005-10-26 Wednesday 汎宗派的でない無宗教の国立戦没者追悼施設は、日本の追悼施設ではな

国立戦没者追悼施設の建設のための議員連盟が、自民、公明、民主の3党で立ち上げられると各紙が伝えている。山崎拓前自民党副総裁の呼びかけであるから、小泉首相も了解済みなのであろう。

無宗教の施設であると、朝日新聞読売新聞が報道している。毎日新聞は、「議連は「同床異夢」」と書き、無宗教という言葉を使用していない。Sankei Webは、10月26日0時30分現在報道していない。

無宗教の追悼施設とは、それが韓国、中国の施設であることを意味する。追悼とは宗教行為であり、追悼施設が汎宗派的でなければ、日本の追悼施設ではない。

2005-10-25 Tuesday 追悼は、正に宗教行為である

政府は、民主党の野田佳彦衆院議員に対する答弁書で、首相の靖国神社への公式参拝について、「専ら戦没者の追悼という宗教とは関係のない目的で行い、神道儀式によらなければ、憲法の禁じた国の宗教的活動に当たらない」と述べているそうである。(2005年10月25日14時1分 読売新聞)

憲法が禁じている政治と宗教のかかわりあいは、政治と宗派とのかかわりあいの意味である。宗教行為でない追悼は、軍隊でない自衛隊である。政府の答弁書のような詭弁をいってはならない。

宗教施設である汎宗派的国立追悼施設で、それぞれの信ずる宗派(浄土真宗、真言宗、日蓮宗、神道、キリスト教カトリック、キリスト教ルーテル派、イスラムスンニ派、イスラムシーア派等々)の形式で礼拝する。それが、追悼である。宗教行為でない”追悼”は、追悼にならない。

2005-10-19 Wednesday 小泉首相の礼拝作法

平成17年10月19日午後3時45分頃、民主党前原誠司代表が小泉純一郎総理との国会党首討論で、17日の小泉首相靖国参拝での礼拝は墓参りの礼拝で失礼だと党首討論の最後に発言していた。小泉首相は、反論をしようとスピーチ台の前に立ったが、時間切れで発言できなかった。

まず第1に、やはり小泉首相の礼拝は仏式と思ったのは、私だけでなかったということ。

第2に、前原代表は失礼だと右派らしい発言をしていたが、前原民主党代表は間違っている。礼拝者が仏教徒であったとき、神道キリスト教の葬儀で、合掌礼拝(らいはい)するのは当然である。キリスト教徒になったのではないから、十字を切るのは間違っている。儀式が主宰されている宗派の礼拝作法が参列された者に強制されるのではない。参列者は、儀礼の場を壊す行動をとってはならない。大きい声は出すべきではなく、大きい身体的行動をとるべきではない。そのうえで、参列者の信仰に基づく礼拝作法を目立たないようにするのが良い。前原誠司氏は宗教が分かっていない。儀礼が分かっていない。(それと両手をただ合わせる合掌は、どの宗派でも礼拝姿勢として不自然ではない。)

本項は、「小泉首相の靖国参拝を支持する……早急に汎宗派的国立追悼施設を」(blog安芸ねっとwebry2005/10/19 07:17)の末尾に追記したものに同じ。

2005-08-29 Monday 靖国問題に、なぜ匿名で発言するのか(僧侶であるということ)

本日の総選挙党首討論でも靖国問題が争点になっていたが、靖国問題について、私は、6月19日にこのBlogに書込をした。いま、東京の真宗僧侶グループであるPOSTEIOS研究会のホームページを閲覧していたところ、たまたま同じ頃(6月16日)に、「首相の靖国参拝問題に速やかな対応を」という論説があった。群生海氏が書いたものである。「群生海」氏が、特定の一人なのか複数人のグループ名なのか知らない。私が、POSTEIOS研究会にうさんくささを感じるのは、重要なテーマについての意見が、ハンドルネームになっているからである。

浄土真宗の僧侶の意見が1つであるわけではない。POSTEIOS研究会の構成メンバーを見ると、宗門ではそれなりの有力者である。私は、日本の伝統教団で一番勢力が大きい浄土真宗本願寺派(西本願寺)のそれも首都圏での有力僧侶の集団であるPOSTEIOS研究会が、重要テーマについて、匿名の論説を載せることに憤りを覚える。僧侶は、そもそも社会の世俗倫理から解放(追放)された存在ではないか。実名で意見を述べるべきである。

住職が、実名で自己の本心の意見を述べることの恐怖はいかばかりかは、私自身が自分が書いた文章を安芸教区教務所(広島別院)から、「差別文書である」と摘発され、それに対する反論からこの「安芸ねっと」というホームページを立ち上げた経緯から、良く知っている。社会から何を言われるか。住職を務める寺の門徒からどう思われるか。宗門の僧侶たちからどう言われるか。現在就いている宗門内外の役職を辞すべきか。これからの活動に支障があるのではないか。経済的にも自坊の護持に差し支えるのではないか。実名での発言では、このような恐怖と戦いながら発言するのである。

社会的にも重要な「靖国問題」で、僧侶は匿名で意見を述べるべきではない。POSTEIOS研究会は、浄土真宗僧侶の「社会的責任」にたいする自覚があるならば、実名で意見を公表してもらいたい。

2005-08-09 Tuesday インターネットの匿名習慣について

インターネットでは、一見匿名が原則のように見えますが、本当にそうでしょうか。

インターネットでの匿名についてのこれまでの議論をみても論じられていないようです。私も気が付きませんでした。

インターネットの原型であるARPANETでは、非常に限定されたメンバーでした。そこでニックネーム(ハンドルネーム)を名乗ることは、実質的には本名を名乗ることだったのではないでしょうか。そこにいろいろな人々が参入することによって、ニックネーム(ハンドルネーム)が匿名性を持つようになったのではないでしょうか。現在でも、特定テーマのBBS(掲示板)では、ニックネーム(ハンドルネーム)を使用しても中心的メンバー間では、誰であるか知っているのが普通です。そのようなBBSで発言するのは、よほどタフな人物でなければできません。私は何度も見ましたが、都合の悪い発言は削除されることが普通です。私は、そのようなBBSに、実名で書き込んだことがあります。当時、私は本願寺監正局の審事をしていましたが、私の書いた研修会の案内状が差別文書であるとして、浄土真宗本願寺派安芸教区広島別院から指摘されていました。あるBBSに実名で、私のホームページも示して書き込みました。早速、ニックネーム(ハンドルネーム)で私を引っ掛けるような書込がありました。差別問題に関連する質問については、実名でなければ議論しないと応じました。

発言は、実名でなければその内容に責任をとる主体がない。

現在、郵政民営化について私はいろいろ発言しています。地元で何人かの特定郵便局長を存じ上げています。寺の門徒(檀家のこと)にも郵便関係者がおられます。そこで、本名で発言するのと、匿名で発言するのとでは、全く私の受けるプレッシャーは異なります。本名で発言されている方は、自己の交友関係や地位を失うリスクを負いながら発言しなければならず、言いたくても言えない部分が随分あるのではないでしょうか。

インターネットでのニックネーム(ハンドルネーム)は、もともと本人を特定できたものでした。昨日今日の責任のない新参者が、本当に匿名である「ニックネーム(ハンドルネーム)」で発言するときは、偉そうな態度をとるべきではありません。所詮、便所の落書きと自覚するべきです。(自覚する能力も躾もない人々に言っても仕方ないことですが……)

インターネットの「匿名」性について

2005-08-06 Saturday 郵政民営化について意見を書きました

郵政民営化について私の意見を書きました。お読みください。

2005-07-29 Friday 基幹運動の関係者は何を考えているのか(運動の腐敗)

中外日報(平成17年(2005年)7月28日14面)が正しいなら、ある宗門関係者がのたまわったそうである。「基幹運動(同朋運動)の方針に異論があるのならば公の場で名前を名乗って堂々と持論を開陳するべきであり、闇夜に後ろから切りつけるような行為は許されない」と。

池谷亮真広島別院輪番(安芸教区基幹運動推進委員会長)あて書簡(平成15年(2003年)6月20日)で、「差別」案内状事件について部落解放同盟、全国自由同和会、全国部落解放運動連合会(注1)の3団体を招き、広島別院において公開で討論することを求めましたが、全くの黙殺です。差別文書であると告発した人物も匿名のままです。差別行為を理由とする虚偽の摘発を「仕掛ける」人間は匿名でいるのを許して、上記宗門関係者(基幹運動関係者?)の発言は、誰もまともな発言とは考えないのではないでしょうか。

宗門の関係者は、マスコミ向けにきれい事発言をしてはなりません。その体質がある限り、宗門の未来はありません。


(注1)全国部落解放運動連合会(全解連)は、平成16年(2004年)4月3日、全国地域人権運動総連合(全国人権連)に改称。

2005-07-28 Thursday 1,900円です

青土社の編集者より、価格を間違って伝えていたと訂正のeメールがありました。

1,995円(1,900円+税)だそうです。

岸田秀「日本人はどこへゆく」青土社

「青土社から『日本人はどこへゆく、岸田秀対談集』が出ました。浄土真宗の僧侶たちとの質疑応答も載っています。」←岸田さんご自身のコマーシャルです。

2005-07-23 Saturday 岸田秀「日本人はどこへゆく」青土社

「岸田秀先生からの回答」「岸田秀先生と再び」が、このたび出版された岸田秀「日本人はどこへゆく」青土社(2,200円)に掲載されています。

書籍でお読みいただければ、また印象が違うかと存じます。(H17.07.23)

2005-07-10 Sunday 門主や法王を媒介させなければ宗教は成立しないか

本願寺教団で門主権は、実質的にはただ玉手箱によってのみ維持されています。しかし、本願寺教団の僧侶や門徒は、門主の玉手箱を廃止しても、浄土真宗は成り立つ(安心(信仰)は成り立つ)と考えています。

マッカーサーは、「日本人は12歳」と言いました。しかし、私は、キリスト教徒には失礼ですが、日本人は、12歳の少年でもキリスト教の教義を信じるのは相当困難なのではないでしょうか。4歳ぐらいならばやっと信じれます。

キリスト教カトリックではローマ法王は、どのような仕組みでその権力を維持しているのでしょうか。カトリックは、現在でも救済に教会や神父、ローマ法王が必要とされているのでしょうか。「司祭(司教および司祭)だけが病者の秘跡の執行者」(教皇庁教理省「病者の塗油の秘跡の執行者に関する覚え書き」2005年2月11日)であるとわざわざ表明しているところを見ると、現在でも中世とかわっていないようです。

世界でもっとも強大な利権集団であるカトリックが、中世のシステムを放棄しない姿を見ると、本願寺教団が門主の玉手箱を否定すると本願寺教団が崩壊の道を歩むことになるのかと一抹の不安を持たなくもありません。

宗教集団において、門主や法王の存在は何なのでしょうか。

浄土真宗は、法機ともに充分成熟しており、門主が僧俗の敬愛すべききずなの象徴であっても(門主を信仰の要素としなくても)、本願寺教団が真宗の教義と信仰を維持し将来に伝えていく集団として機能すると私は思います。

2005-06-30 Thursday 浄土真宗の他力思想とキリスト教の予定説

 他力思想と予定説とは、信仰する者にとって構造は同じだと思いますが、浄土真宗キリスト教は次の点で決定的に相違いたします。親鸞は悟りを求める仏教の一流であり加えて妻帯しています。キリスト教徒は神を措定し差別された自己のみが神に救済を予定されているとの確信を無理強いするために他者(近代以降の植民地時代は、黒人や黄色人)を救済が予定されていない存在とする脅迫にさらされています。キリスト教徒は、植民地時代に有色人種(現地人あるいは土人)を人間ではないと判定して殺戮し、神の救済を予定されていない範疇を作って、自己の救済予定を確信したのだと思います。絶対無限の神の前で人間はその違いが無限小になり、そこに平等観念が生まれたとキリスト教を美化する考えの限界がこれで明らかになります。と同時に、平等主義の限界をここに見ることができます。


浄土真宗の他力思想とキリスト教の予定説――岸田秀先生と再び

2005-06-19 Sunday 靖国問題

私は、国の元首や宰相が戦闘行為で亡くなった兵士の墓(霊)に礼拝(らいはい)するのは当然と考えます。(ただし、本願寺教団(西本願寺)内でも、厳しく反対する方々もいます。)戦争の是非云々にかかわらず戦場に送った国家が将兵に敬意を表するのは他国にとやかく言われる筋合いではないと思います。しかし、浄土真宗の僧侶として、靖国神社で礼拝するのは不自然な心情です。

神道やキリスト教など他の宗派の儀礼で執り行われる葬儀に参列することがあります。他宗派の儀礼に参加する場合、私は、念珠を手に掛け、念仏を小声で称えて、執行されている儀礼と自分の信仰との折り合いをつけております。

私は、全宗派がその儀式で礼拝しうる追悼施設を設けるべきと思います。追悼される対象は、戦闘行為で死去した将兵に限定するか、ひろく戦争犠牲者を対象するのならば、原爆犠牲者や空襲犠牲者など民間人を含むべきでしょう。

私は、戦勝国が敗戦国の責任者を処刑することをやむを得ない考えますが、人類の正義をもって裁く形式の東京裁判を敗戦国に対する侮辱と考えています。戦争責任の中身が違ってきますが、日本人自身の手によって為政者の戦争責任を追求すべきであったと考えます。戦場で戦死した将兵と東京裁判のA級戦犯を一緒に礼拝するというのは理屈に合わないことです。東京裁判のA級戦犯も追悼するのであれば、すべての戦争犠牲者を追悼すべきと考えます。

私は、他国からとやかく言われることに対する不愉快さと同時に、他宗派の施設に礼拝する不自然さを感じます(敬意を表するのにやぶさかではありません)。

2005-05-31 Tuesday 「はてな」キーワードについて

「はてな」キーワードについて

キャッチフレーズに「はてなダイアリーはキーワードでつながる面白ブログ」とあるように「はてな」の特長は、自動的につながることです。また、自動的に生成される膨大なリンクの数量で、検索エンジンのYahoo!やGoogleで検索結果が上位になったことです。この2つが「はてな」の成功の理由です。「はてな」は、リンク機能がすべてです。近藤淳也さんがどの程度意識したかどうか分かりませんが、インターネットのプル機能(能動)とプッシュ機能(受動)が程よくミックスされています。とりあえず文章を書く、キーワードで他人と自動的につながっていく、知識と自動的につながっていく。自尊心を満足させながら、情報を提供する。おまけに、検索エンジンで上位ヒットした。利用者は、はまってしまうと思います。

私がたてたキーワード「日本キリスト教団(日本基督教団)」を登録する時、「はてな」は重くレスポンスが遅いので、登録クリックを2回押して2重登録になったため、一つを削除しました。それが「はてな」キーワードを検閲している方の目に触れたようです。「みなさんが苦労して書き足していっているキーワードを,理由も述べずに削除して回っている荒らし屋さんがいます.はてな市民の皆さん,下の削除予定キーワードリストから,そうした荒らし屋さんに削除されそうになっているキーワードを見つけたら,コメントを付けたり,カテゴリを修正してあげたりしてください.」(「電源不要日記」)(この呼びかけは、現在削除されています)という運動の網に掛かったようです。私がキーワードを作り最初に書いた説明の記述は全面削除されていました。

ウィキペディア(Wikipedia)では、「出典の明記」が推奨(大部分なされていないとしながらも)され、「編集過程(履歴)の保存」がされています。匿名のウィキペディアの未来がどのようなものか判断しかねますが、平凡社の百科事典で、執筆者名が明記されていたのに馴染んだ者には責任の所在に危惧を持ちます。執筆者匿名の百科事典であっても、見出し語の説明に質を確保したポーズを示すためには、出典明記や編集履歴保存に努力しています。「はてな」キーワードには、そのようなシステムはありません(変更内容の対照表がありませんし、「はてな市民」以外は、過去の説明文にアクセスできませんから知ることができません)。「はてな」は、リンク機能に重点を置いているシステムですから、それらがないのでしょう。

「はてな」キーワードを立派にする運動を提唱しながら(彼は、大変精力的な活動家です。「なぜ熱烈な宗教家と活動家は了見が狭いのだろうか?」と非難していますが。「電源不要日記」H17(2005).5.26)、「浄土真宗」「日蓮宗」の説明を例に挙げ、「はてな」キーワードの説明は一般にレベルが低いとし、自己が行った「日本キリスト教団(日本基督教団)」のコピーペースト的説明を正当化します。「浄土真宗」「日蓮宗」の説明は放置し、「日本キリスト教団(日本基督教団)」の説明のみ、最初の説明のレベルが低いとして削除しレベルの高い(?)コピーペースト的説明に直し「情報の粒度」を上げようとする意図は理解しかねます。

インターネットの「匿名」性について

別の「はてなキーワード」(別の見出語)を作る基準について

両者を一覧で読む

インターネットの「匿名」性について

インターネットで匿名が維持できるかどうかですが、ある者がマイナーな場合は匿名性が保てるでしょうが、明確な意見を述べたり、メジャーになると匿名を維持するのは困難でしょう。プロバイダに料金を払ってインターネットに接続している普通の市井の人間の場合、犯罪として警察権力の対象になったり、軍事的必要からペンタゴン等の捜査対象になれば、インターネットの痕跡からも本人にたどり着くでしょう。私は、コンピュータの専門家ではありませんので、専門家にお尋ねしたいと思いますが、「はてな」ダイアリを開設して、警察や軍隊から追求を眩ませる方法があるのでしょうか。私には、通常の犯罪捜査より楽な気がします。

さて、通常の意味でインターネットの匿名性とは、利用者同士の間のことだと思います。匿名性の利用は、2チャンネルでは前提(これも、ひろゆき氏が勝手に決めたもの)とされていますが、ホームページやブログの場合、利用者の意思に任されています。匿名同士コンタクトを持つのも結構、匿名と実名(本名)間のコンタクトも良し、実名(本名)同士にコンタクトを限定するのも自由です。私も、ホームページやブログが縁となり、実名(本名)の手紙や電子メールをいただくことがあります。つまりは、どうでも良いことなのです。ただいえることは、匿名と実名(本名)の間での論争・議論は、対等性を欠きます。対等性・互換性の無いところで、まともな議論は成り立ちません。私がホームページを開設したきっかけは、私が書いた案内状が、被差別部落に対する差別文書もしくは誤解を招く文書として匿名氏から告発されたことです(詳しくは、「安芸ねっと」をご覧下さい)。センシティヴな問題には、匿名で介入しないのがエチケットです。

インターネット社会では、無料のサービスが沢山あります。しかし、私は、インターネットの無料は無料ではないと思います。テレビも無料ではありません。視聴者は、見ることにより情報を受入れるという対価を払っているのです。情報を伝える(受入れてもらえる)というのは価値があることなのです。「はてな」が利用を拒否するのは勝手です。ユーザーは、利用を拒否するだけです。「はてな」は、利用者がゼロであれば企業として成立たなくなります。プロバイダが奇特な個人のときも、利用してもらえなければ、「主宰する」あるいは「支配する」という喜びを失います。

無料のブログで、サイトが消去された場合の法律関係はどうなるでしょうか。故意過失があるときは、ライブドアには損害賠償責任が発生すると思われます。どんな場合が不可抗力(賠償責任が無い)になるでしょうか。地震でサーバーが破壊された場合は不可抗力といえます。金融機関のように、別の場所(遠隔地)で丸ごとミラーリングするような本格的なバックアップまでは要求されないでしょう。しかし、ユーザーが自分でバックアップを取ることが可能なシステム(ソフト)を作っていない、またはバックアップの仕方を公開していない場合は、地震の場合も過失が認められると考えます。

無料と匿名とは、非常に関係の深い観念です。


日本キリスト教団(日本基督教団)」の私の質問についてはここをご覧下さい。


一つ書き加えておきたいことは、使用されているハンドルネーム(完全な名無し書込でも)が誰であるかグループ内で判っている場合があります。連携している場合もありますし、特定人が苛められている場合もあります。このような場合、匿名という言葉で括って良いのかという問題です。インターネットでは、普通に行われています。【平成17年6月14日追記】


インターネットの匿名習慣について


「はてな」キーワードについて

別の「はてなキーワード」(別の見出語)を作る基準について

両者を一覧で読む

別の「はてなキーワード」を作る基準について

「対象」の違いと「立場」の違いは、そう明白ではありません。例えば、「妖精さん」というはてなキーワードが2ヶ登録されていますが、「はてな」ワールドでの意味は、別立てしなければならないほど特別ではありません(「誤爆」では、「はてな」の意味を第2義としています)。ティンカーベルが粉をかける様子が、キーワード編集にイメージが重なっての使用法ですから、別立てしなければならないものかどうか微妙です。常識的には、派生語義として△琉嫐ですが、「はてな」に対するサービスといったところでしょうか。別の見出しをたてるか否かは、ユーザーの個人的好みに従い、お遊びで良いと思います。誤爆などの不都合には、個別対症療法で対応し、行けるところまで行くのが「はてな」の道でしょう。

意味の厳密な区分(分類)は、「はてな」のカテゴリーが失敗したように、無理でしょう。意味づけ行為そのものが学問営為ということです。いわゆる自然科学でも検証可能性はそう簡単なものではありません。偽造された科学史では立派な科学者も、オカルト的錬金術師であったというのが、ヨーロッパの科学史です。皮相的に科学を受入れた日本と違い、ヨーロッパ文化では、科学も宗教です。経済学もマルクスが主張するように下部構造でもありませんでした。法学部は、もっとも伝統的な学部ですが、法律解釈学は、伝統的な学問の定義では学問ではないように私は思います。それは、宗教の神学論と同じです。キリスト教文化圏では、神学部はもっとも権威ある学部でしょうが、明治以後大学制度を受入れた日本では、もっとも違和感のある学部でしょう。立場が違った場合の方が、文字面が同じでも、全く別物ということはよくあることです。

はてなキーワードは、所詮近藤淳也さんの株式会社はてなの商品(公的なものでなく私的利益追求の商品だから価値が低いという意味ではありません。近藤淳也氏が勝手にやり、面白ければユーザーが支持するのが一番良い)ですから、その単語の説明に目くじらを立てることもないと思います。キーワードの編集は、エチケット、品性の問題です。

「妖精さん」の粉かけに不快感を持つ者は、それを「牢名主」または「岡っ引き」と呼びます。

ともかく、近藤淳也さんらが余りに支配しようとすると、「はてな」は、NTT(日本電電公社)のキャプテンの運命をたどるでしょう。ニューメディアがもてはやされていた頃のことです。インターネットは、支配者がいないから、盛んになったのです。技術差だけの問題ではなかったと思います。cf関心空間「キーワードの重複」はてなダイアリーと関心空間

「はてな」キーワードについて

インターネットの「匿名」性について

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2005-05-22 Sunday 「日本キリスト教団」について質問

私は、20年から30年ぐらい前に、個人的に親しかった日本キリスト教団(日本基督教団)に関係する明治生まれの広島在住の方(故人)に質問したことがあります。明確なお答えはいただけませんでした。

質問の内容は、次のとおりです。欧米のキリスト教の宗派と全く関係なく日本で「日本キリスト教団」が存在するのは理解できない。教義との整合性はどうなるのか。

もし、「日本キリスト教団」のあり方が正しいのであれば、欧米のプロテスタント各宗派のあり方が間違っていると言わなければなりません。私のような仏教系(浄土真宗)の僧侶には、非常に理解しにくいところです。


私の関連記述(1)

私の関連記述(2)

私の関連記述(3)

2005-05-20 Friday 「はてな」の旬は過ぎた

5月18日に「はてなキーワードに「日本キリスト教団」を作って、古参の方に叱責されました。それで、「はてな」キーワードには、厳しい掟があるのを知りました。

私は、以前、以下のとおり書いたことがあります。

『GoogleでBlogがよくヒットされるというのは、トラックバック機能でリンクが縦横にされているからですが、「はてな」はキーワード機能を初期のまま放置しておくと、煩わしいくらい(小学校の国語辞典程度の単語まで)記事の単語にキーワードのリンクが張られます。これが、「はてな」が検索エンジンに有利な理由です。検索エンジンが、記事の重要性の判定に、ある学術論文が引用された件数でその重要度を判定するという機械的な手法を流用しているから、自動的に膨大な量のリンクが張られる「はてな」が有利なはずです。「はてな」のキーワード辞書は泡沫HPとはいえず、かなりの信用性がありそこと縦横にリンクがはられる威力は相当なものです。私も、キーワードを書く資格(「はてなダイアリー市民」と呼んでいるようです)ができたら、キーワードを登録しようかなと思っています。こういうお遊び的要素はなかなかのアイデアだと感心します。』


最近、「はてな」が検索エンジンで、さほど上位にならないような気がします。検索エンジンが、「はてな」のリンクのウエイトを下げたのでしょうか。そうだとすると「はてな」の旬は過ぎたことになります。

saito728saito728 2005/06/25 21:50 こんばんは。
ご無沙汰です。
そうすっね、わたしは、最近、はてなから離脱気味といいますか、ほぼ、離脱してます。
そもそも、はてなの魅力は検索エンジンに強いというのが、
はてな登録の動機でした。
、、しかし、最新の高機能ブログも出現し、
はてなの魅力は、ほとんど、薄れました。

古参の方の厳しい批判ですか、・・・。
早速、拝見させていただきます。

2005-05-18 Wednesday 日本キリスト教団

日本キリスト教団について少し書きました。

敵対的買収対策を盛り込んだ会社法案についてのコメントの中で、戦後の新聞社と日本キリスト教団について触れました。blog安芸ねっとwebryで、フジテレビとライブドアについて少々意見を述べてきましたが、その流れです。



はてなキーワードに、「日本キリスト教団」がなかったので、私はキリスト教関係者ではないのですが、作りました。(その後、「他人の脳内another」氏によってキーワード「日本基督教団」が別に作られ2005/05/18 23:09:47、説明書きは漢字の基督の方につけられています。)

『日本キリスト教団:大東亜戦争(太平洋戦争)への流れの中、戦時動員体制強化に呼応して昭和16年(1941年)6月に日本のプロテスタント教派を一元化したキリスト教団体。』←安芸ねっとの文章


以下、平成17年(2005年)5月18日PM6:30書き加え

編集履歴

日本キリスト教団@20050518180358 (2005/05/18 18:03:58) manpukuya 3c3 5c5

日本キリスト教団@20050518153950 (2005/05/18 15:39:50) aki0843 edit

日本キリスト教団@20050518153653 (2005/05/18 15:36:53) aki0843 1c1,5

日本キリスト教団@20050518141730 (2005/05/18 14:17:30) akinetto append

aki0843電源不要日記http://d.hatena.ne.jp/aki0843/

manpukuyaまんぷく日記http://d.hatena.ne.jp/manpukuya/のお二人によって、以下のように直ちに書き改められました。


『日本キリスト教団:公式名称は「日本基督教団(United Church of Christ in Japan)」。

1941年6月25日に会衆派教会?の流れを汲む教会を含む30数派のプロテスタント教会が集まって成立した合同教会?。当時の軍事政権下における宗教団体法の影響と、1940年に開かれた全国信徒大会の宣言とを受けて成立した。

戦後、宗教団体法の廃止にともない、1946年10月16日新たに教憲を制定して自主的に成立した公同教会?として再スタートした。沖縄が日本に復帰した後、1968年10月に沖縄キリスト教団と合同し、一つの教団として今日にいたっている。』←「まんぷく日記」、「電源不要日記」二人の文章



私が作った当初のキーワードの記述は、出来るだけ無色に心がけ、かつ戦後のあり方を検討しうる文章でした。お二人は、キリスト教信者の方でしょうから、編集を尊重しましょう。しかし、歴史は隠蔽しないようにしていただきたいと思います。浄土真宗が、当時、戦時体制に自主的に迎合したのと同様、日本のキリスト教信者も戦時体制に自主的に迎合しました。私には、日本キリスト教団が現在も存在することが、戦争協力を清算していない証拠に思われます。如何でしょうか。

文章を完全に改変されるのであれば、エチケットとして、別の「日本キリスト教団」を作られるべきと考えますが、一神教には通じないことです。

以上をアップした後で、「電源不要日記」aki0843さんのまじめなコメントを読みました。私が不満に考えたのは、戦争協力ではなく戦後の対応です。私も、戦争協力を拒否できたとは思えませんから。ご指摘のキーワード(浄土真宗日蓮宗)については、これから読みます。



以下、平成17年(2005年)5月20日PM10:40書き加え

はてなキーワード平成17年5月20日現在

【浄土真宗】2004/05/20作成

阿弥陀仏の他力本願を信じることで成仏できるとする。親鸞によって浄土宗から出て一派をなした。

【日蓮宗】2004/04/05作成、最終編集2004/12/14

日蓮によって興された仏教の宗派。

創価学会も元は日蓮宗の一派・日蓮正宗の在家信者団体だった(1991年まで)。

【日本基督教団】

[United Church of Christ in Japan]

大東亜戦争への流れの中、戦時動員体制の強化に呼応して1941(昭和16)年6月に日本のプロテスタント教派を一元化したキリスト教団体。

1941年6月25日に会衆派教会?の流れを汲む教会を含む30数派のプロテスタント教会が集まって成立した合同教会?。

当時の軍事政権下における宗教団体法?の影響と、1940年に開かれた全国信徒大会の宣言を受けて成立した。

戦後、宗教団体法の廃止にともない、1946年10月16日新たに教憲を制定して自主的に成立した公同教会?として再スタートした。

沖縄が日本に復帰した後、1968年10月に沖縄キリスト教団?と合同し、一つの教団として今日に至っている。

《キーワード日本基督教団の編集履歴》

日本基督教団@20050518235606 (2005/05/18 23:56:06) Kakeru edit

日本基督教団@20050518235523 (2005/05/18 23:55:23) Kakeru 1,5c1,6

日本基督教団@20050518231751 (2005/05/18 23:17:51) aki0843 3c3 5c5

日本基督教団@20050518230947 (2005/05/18 23:09:47) another append

[コメントを書く]

# aki0843 『中途半端な場所で切られて自動リンクされている単語がいくつかあったので,修正しました』 (2005/05/18 23:18)

# another 『了解しました。』 (2005/05/18 23:24)

(参考資料:キーワード日本基督教団(削除予定))

二重登録されているので,削除予定キーワードに移します

(United Church of Christ in Japan)

1941年6月25日に会衆派教会の流れを汲む教会を含む30数派のプロテスタント教会が集まって成立した合同教会。当時の軍事政権下における宗教団体法の影響と、1940年に開かれた全国信徒大会の宣言とを受けて成立した。

戦後、宗教団体法の廃止にともない、1946年10月16日新たに教憲を制定して自主的に成立した公同教会として再スタートした。沖縄が日本に復帰した後、1968年10月に沖縄キリスト教団と合同し、一つの教団として今日にいたっている。

《キーワード日本基督教団(削除予定)の編集履歴》

日本基督教団@20050518231608 (2005/05/18 23:16:08) aki0843 0a1,2 change category to 削除予定キーワード

日本基督教団@20050518231030 (2005/05/18 23:10:30) another append

【日本キリスト教団】

→日本基督教団

《キーワード日本キリスト教団の編集履歴》

日本キリスト教団@20050518235223 (2005/05/18 23:52:23) Kakeru edit

日本キリスト教団@20050518230914 (2005/05/18 23:09:14) another 1,5c1

日本キリスト教団@20050518180358 (2005/05/18 18:03:58) manpukuya 3c3 5c5

日本キリスト教団@20050518153950 (2005/05/18 15:39:50) aki0843 edit

日本キリスト教団@20050518153653 (2005/05/18 15:36:53) aki0843 1c1,5

日本キリスト教団@20050518141730 (2005/05/18 14:17:30) akinetto append


以上のとおりで、私の文章は、ほぼそのままキーワード【日本基督教団】でお使いいただいています。(なお、私の文章は、二重登録ミスによる削除予定のキーワード【日本基督教団(削除予定)】の編集履歴やaki0843氏の最初のコメントの時刻(2005/05/18 19:33)等を見ると、編集によって、途中から付加されたようです。)【浄土真宗】と【日蓮宗】は、無編集か大幅な編集の手は加えられておらずそのままです。

はてなキーワードの【日本基督教団】の説明の文章は、「日本基督教団成立の沿革」に依拠していると思われます。したがって、コピーした者がその文章の機微を理解する能力を欠如する場合であっても、その文章自体は、当然日本基督教団に属するプロテスタントの牧師あるいは信者の立場からの説明です。特に、戦後の部分の”自主的に”というすこぶる価値判断を前提とする用語にそれは現れます。教団の公式サイトがないので、同志社大学神学部教授小原克博さんの私的サイトにリンクします。



本論に戻りますが、私は、昭和21年(1946年)10月16日に「自主的に」再確認したということは、昭和16年という戦時体制確立の年に教団が成立したことに「やましさ」を感じるところが戦後あったからだと思っています。



平成17年(2005年)5月26日現在の「はてな」キーワード【日本基督教団】の説明文

egarotsikaさんによって、「大東亜戦争への流れの中、戦時動員体制の強化に呼応して1941(昭和16)年6月に日本のプロテスタント教派を一元化したキリスト教団体。」の文章が2005/05/25 10:05:23に削除されました。(厳密には、<”!--文章-->を付加したコメント化による非表示のテクニックの使用です。)

aki0843aki0843 2005/05/18 19:33 はじめにお断りしておきますと,私はキリスト教信者ではありません.なぜakinettoさんがそう判断されたのか,正直理解に苦しみます.あなたの意見に異を唱える者=非仏教徒ではありませんよ.
 さて,akinettoさんは戦争協力の項が削られたことに不満を感じられていらっしゃるようですが,[[浄土真宗]]や[[日蓮宗]]の説明をご覧になれば,はてなの宗教関連キーワードに期待されている情報の粒度がどのようなものであるか,ご理解いただけるかと存じます.その上で,編集の意図を汲み取っていただければ幸いです.

akinettoakinetto 2005/05/18 20:24 すこしナーバスすぎました。もともと私が「日本キリスト教団」を「はてなキーワード」に登録したのは、そのリンク機能によって、キリスト教信者に私の考えにコメントを貰うのが目的でした。

aki0843aki0843 2005/05/18 23:12 コメントを貰うのが目的であれば,[[編集待ちキーワード]]( http://d.hatena.ne.jp/keyword/%ca%d4%bd%b8%c2%d4%a4%c1%a5%ad%a1%bc%a5%ef%a1%bc%a5%c9 )というはてなグループがありますので,そちらを利用されては如何でしょうか.あるいは,説明文中にこちらへのリンクを入れて,議論を行いたい旨を告知するという手段もあります.
 いずれにせよ,特定の立場の方々に問いかけたいことがあるのであれば,今回のようなうやむやなやり方を取るのではなく,自分の立場を明確にして正面から問いただすのが筋かと存じます.

akinettoakinetto 2005/05/19 20:44 昨日の私の「ナーバスすぎました」の言葉は、「匿名」氏とは議論にならないので打ち止めにするためでした。

aki0843aki0843 2005/05/20 07:14 「匿名」氏とは議論する気が無いのであれば,「リンク機能によって、キリスト教信者に私の考えにコメントを貰う」のは全く見当違いの手段だということにお気づきでしょうか.匿名・実名のユーザが混在している以上,当然のことなのですが,はてなダイアリーは「実名のキリスト教信者」からのコメントを求めるのに適した場ではありません.
 何かしら高い目的を持っているのであれば,発言したり行動したりする前に,まず熟考するのがよろしいかと存じます.

jounojouno 2005/05/23 19:17 本題と外れますが、同じ対象に対する異なった立場からの記述をするためにキーワードを分離することははてなの意図するところではなく、同じ文字列に対して複数キーワードを作れるのは、あくまで、同名の別の対象のためです。

ヘルプの「複数の「もの」を表すキーワードについて」の項に以下の記述があるのを参照ください。

『ただし、同じ文字列で同一の「もの」を表すキーワードは、1つの
キーワードにその内容を記述してください。』

2005-05-03 Tuesday 「多神教からの一神教批判に応える」を検討する

以下は、浄土真宗安芸教区広陵東組基推委習俗分科会の平成16年度報告です。

 平成16年度の習俗分科会の研修は、自由についての考察を企図し分科会を開きましたが、平成16年(2004年)10月30日に同志社大学一神教学際研究センター(センター長森孝一同大神学部長)により「一神教と多神教−新たな文明の対話を目指して」という公開講演会が開催されたことをインターネットで知りました。同志社大学神学部教授小原克博という方が企画したもので、中沢新一さんを招聘したものです。この結果、習俗分科会は、小原克博さんと中沢新一さんの見解を検討することになりました。

 この講演会は、COEとして指定された同志社大学の一神教学際研究センターの21世紀COEプログラム「一神教の学際的研究」の活動であり、この研究は、一神教サイドからの反論を権威付けようと目論むものといえます。

 したがって、小原克博さんは牧師でもあり、彼の言説はとりあえずキリスト教会側の"権威ある言説"として検討すべきであると考えました。

 中沢新一さんの立場は、小原克博寄りであり、中沢新一の高名さが、キリスト教サイドからの反論を補強することが期待されているようです。

 小原克博さんのブログ(KOHARA BLOG)の要約によると、『いわゆる「一神教」と「多神教」との対立という構図は、宗教の表層的理解のレベルでのみ機能する一種の「ねつ造された概念」の類にすぎない』(中沢新一)として、『一神教における神理解(唯一神信仰)に対置されるべきは、歴史的には「偶像崇拝」であったことを指摘する。』(小原克博)。そして、『「一神教と多神教」という問題設定があまり有効でないとすれば、何が見るべき思考軸であるのかを考える。個別宗教・国家の次元で考えれば、それは穏健派(リベラル派)と急進派(原理主義者)との戦い、あるいは、多様性の容認か、一つの強固な価値か、という価値観世界観)の争いに見ることができる。』(小原克博)と主張します。KOHARA BLOG 2004.10.30

 中沢新一さんは、『ねつ造された概念』といいますが、そもそも学問はすべて捏造された概念ではないでしょうか。知能テストで、非ヨーロッパ文化の人間の知能が低く現れるのも、文化が捏造されたものであることを物語っています。キリスト教的観念である発展段階説(マルクス主義の観念ですが)は、アニミズムやシャーマニズムが程度が低くて多神教から一神教に文化が高度になったのだと主張していました。それが、ヨーロッパの学問でした。それを今更捏造だといわれても困ります。キリスト教文化の「ルール変更による勝利」テクニックは、マルクス主義が幻滅した今、もう通用しないのではないでしょうか。偶像という概念も捏造された概念ではないでしょうか。真宗は、木像の本尊を礼拝しても偶像礼拝とは考えません。キリスト教が、十字架を礼拝しても偶像崇拝といわないのと同じです。問題設定が不利になると『あまり有効』でないとするのはフェアではありません。平成16年(2004年)10月30日の研究会は成功したとは思えませんが、小原克博さんの今後の研究には期待して注目すべきと思います。

注)COEとは、Center of Excellenceの略。21世紀COEプログラムは、「大学の構造改革の方針」(平成13年6月)に基づき、平成14年度から文部科学省に新規事業として「研究拠点形成費補助金」が措置されたもので、日本の大学の格付けにつながる非常に影響のある重要な制度

注)小原克博:1965年大阪生まれ。専門は、キリスト教思想、比較宗教倫理学。現代社会が直面する先端的課題に対し、フェミニズム、生命倫理、エコロジーなど多様な学問領域を切り口にしながら応答を試みている。近著に『神のドラマトゥルギー―自然・宗教・歴史・身体を舞台として』(教文館)、『よくわかるキリスト教@インターネット』(共著、教文館)『キリスト教と現代―終末思想の歴史的展開』(共著、世界思想社)、『EU世界を読む』(共著、世界思想社)などがある。公開講演会ポスターより抜粋


一神教への批判として以下をご参照ください。

岸田秀先生からの回答

小滝透先生からの回答


以下、平成17年5月9日追加

キリスト教文化の「ルール変更による勝利」テクニックについては、「1喝たぬき」が、最近のF1(カーレース世界選手権)のホンダ車へのペナルティに対するコメントに同種の「ルール変更」について書いています。なお、「1喝たぬき」は、私がライブドアについて書いたものにトラックバック(trackback)があり、存在を知りました。