但木敬一元検事総長を第2回文化講座にお招きしました。教西寺のホー

昨年は、徳川文武先生をお招きし、第1回目の教西寺・やわらぎ幼稚園やわらぎ保育園企画の文化講座を開催しました。徳川先生は、水戸藩最後の藩主徳川昭武の曾孫で松戸徳川家第3代当主です。



今年の第2回文化講座は、平成24年6月17日(日)に、元検事総長但木敬一先生をお招きしました。質問の時間も設けています。これから法曹を希望される学生の方々のご来場を歓迎いたします。



せっかくの文化講座なのですこし広くお知らせすることにいたしました。教西寺ホームページを開設した動機です。未完成ですが、少しずつ手を加えていこうと思っています。

教西寺ホームページ

検察の愚挙

検察は間違っている。検察の愚挙は歴史的に高くついた。検事総長は、歴史に記憶されるポストではないが、検事総長樋渡利秋は愚物として歴史に残るかもしれない。林健太郎が「ワイマール共和国」という本で、ヒトラーの登場を許した責任を共産党にあると記述していたことを思い出した。

小沢一郎の政治献金の処理が、検察が主張するように重大犯罪であったとしても(私は微罪にもならないのではないかと思っている)、現在の時点で第1秘書を逮捕するのは政治的に偏向していると思わざるを得ない。逮捕は、政権交代で一番損をする公明党を守ろうと考えた検察に潜む創価学会勢力に突き上げられた結果ではないかと思う。おそらく、創価学会公明党も、幹部は指示をしていないと思う。跳ね上がりの行動であろう。

検察が本当に政治の浄化と思うのならば、衆議院選挙が終わり、政権交代が実現して、小沢一郎が総理大臣になってから逮捕すればよかった。樋渡利秋が本当の男であればそのくらいの気概がほしかった。検察も権力の一翼であることは事実であるが、きれい事をいうのであれば、現職の総理大臣秘書を逮捕してもらいたかった。韓国のように何代も、前任大統領が逮捕される政治状況は、遅れている。日本は、政権交代により政治浄化が実現する民主主義国にならねばならない。総理大事である小沢一郎の秘書を逮捕し、小沢一郎が失脚しても日本の政治はより民主化される。国民は、小沢一郎を支持したのではない。民主党を支持し、政権交代を目指したのである。小沢一郎が辞職し、岡田克也でも総理大臣になればよい。今回の検察の愚挙は高くついた。(2009/03/08 10:15初出)


先日の小沢一郎郵政民営化についての発言について以下のように考えていた。アップしておく。

全国郵便局長会(全特)で、小沢一郎郵政民営化反対の発言を行った時は、「狂ったか小沢一郎 ― 郵政民営化の否定」いうタイトルでブログを書こうと思ったが、いまいちテンションも上がらずそのままになっていた。特定郵便局長には、中に立派な人物もいるが、とんでもない人物がいる。特定郵便局長は、お金持ちか公務員のOBと相場が決まっている。日下公人は、日本全国津々浦々寒村まで特定郵便局を設置したのは、兵隊の徴収令状を届けるためであったという。命を出させるためのシステムである。私も同感である。江戸時代、寺院が権力の末端として寺請制度に組み込まれ危険思想のチェック機関になって庶民の反感を買ったのと同じ構図である。地元の有力者が特定郵便局長になったが、お金持ちや権力につながる者は、目立たないように生活しなければならない。社会に奉仕しなければならない。今の特定郵便局長の姿はどうか。実例であるが、一部の利害と結託し高潮堤防建設に反対し、現状の低い堤防(平成20年11月のテレビ朝日が全国放送していた)を高潮がオーバーフローすれば地域が2階まで水没し多くの人命と財産が失われる状態を作っている。そして外車を何台も乗り回している。それが特定郵便局長の実態である。彼らがなぜ公務員資格に固執するのか。インターネットやネットバンクが普及した現在、郵便局業務が、山奥の2〜3人しか住んでない地域に必要であろうか。小泉郵政民営化の時に、テレビ等で放映された山奥の状態は、郵便で救済されるべきでなく福祉で救済されるべき問題である。本当に郵便局業務が国で維持されなければならないとしても(私は全面的に民営化すべきと考える)、それは本局レベルのみに限定し、特定郵便局は民間化されるべきものと考える。巨大な利権集団の存在は、政治に有害なバイアスをもたらすだけと考える。

【資料】
全国郵便局長会(全特)と郵政政策研究会は(平成21年1月)31日、都内で合同集会を開き、民主、国民新両党を支援し、次期衆院選での政権交代郵政民営化見直しの実現を目指す方針を確認した。国民新党から綿貫民輔代表らが出席、民主党小沢一郎代表、菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長を初めて招いた。
 小沢氏は「国民新党民主党がしっかりと信頼関係を築き上げ一致協力すれば、必ず郵政民営化見直しを実現することができる」と強調。浦野修全特会長も「両党幹部の声を地方に持ち帰り、郵政民営化見直しに最大限努力することを確認しあいたい」と述べ、全面支援を訴えた。(19:32、NIKKEI NET)

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宗教とは

宗教の定義を云々することはむなしい。岸本英夫が宗教の定義を採集してまとめているが、退屈である。ご本人も退屈であったと思う。論文の約束事として調べ羅列しただけである。

私は最近次のように実感している。宗教とは、人間を生きさせているものである。死も生きることの帰結である。生の一態様といえる。生きているということは、宗教のなかにいるということだ。人が今ここにいる空間が、即すでに宗教空間である。

宗派の教義(教義は、キリスト教等の一神教も含め、すべて宗派の教義としてある)は、時間と空間との相関関係で機能している。教義だけ切り離して論じても意味はない。宗教の伝播と変容もこの文脈の問題である。変容は、抽象的単語が同じでも(翻訳は抽象的に同じとはいえなくなるが)、言葉以外の文化によって意味が違ってくる。

私は、マルクス主義無宗教であり、マルクスは「宗教はアヘン」というが、マルクス主義の幻想が雲散してみるとマルクス主義は宗教そのものであったとの意見に賛成する。マルクス主義は、キリスト教そのものであった。マルクス主義者は、牧師(神父)だった。

人に宗教が必要かの議論はナンセンスである。生きているということは、宗教を受け入れているということである。宗教が個人的か集団的かの問題も、人は生きているためには、1人のみの存在が不可能という人間存在のあり様と関係する。浄土真宗は、集団のなかで最も個人主義的に生きる教えである。

最も個人主義的な生き方を追求する浄土真宗が、巨大な教団を維持しているのはなぜであろうか。寺院は、1村1ケ寺(いっそんいっかじ)が経営的には一番安定する。都市の寺院は競争にさらされ厳しいものがあるが、門信徒(信者)の意識のなかに、俗社会と同様の名誉心、出世競争などの集団的要素をふんだんに入れ込んで寺院護持集団をまとめるとうまくいくようである。徹底的に品位を下げて低俗化するのが寺院経営のコツか。私は堕落と思うが。類は友を呼ぶということか。

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セクハラ(セクシャルハラスメント)

週刊新潮高山正之「変見自在」は、買ったときは必ず読んでいる。平成19年(2007年)1月18日号の「(サダム・フセインを)悼む」は、興味深かった。

「 これ(=女性を教育から遠ざけ、家に閉じ込めること)は国家の損失になる、と宗教からの脱却を求めたのがイラクのサダム・フセインだった。……(中略)……イラクも同じでイスラム聖職者、とりわけシーア派は彼(=サダム・フセイン)に対する暗殺を執拗に企て続けた。
 彼はそれを徹底的に弾圧した。今回、彼に死刑判決をもたらした「シーア派の虐殺事件」がそれだ。
 彼の鉄の意思はついに宗教界を黙らせ、イスラム圏にあってここだけが女性に教育と社会活動を保証するまともな国になった。
 国民の半分が生き返ったイラクは急速に国力を伸ばし、忘れていたアラブ民族意識も取り戻した。
 ただそれが欧米には都合が悪かった。アラブ国家は頑迷固陋な宗教に浸ったまま石油さえ供給していればいい。変に民族意識をもっては困るというわけだ。
 それでサダムは取り除かれた。」

小滝透が、アルジェリアの革命家フェラウーンの「アラブは女性の膣にその名誉を埋め込んでいる」との言葉を紹介している。

「一神教と性」「予定説」について、私と岸田秀氏とのやり取りをお読みください。

週刊新潮の同じ号に「園児がセクハラ」という記事が載っていた(58ページ)。
「米メリーランド州で、5歳の幼稚園児が園内で女の子お尻をつねった件がセクハラと認定され、その記録は中学を卒業するまで付いて回ることになった。テキサス州では女教師に抱きついた4歳の男児が通園停止処分になった。」

日本では信じがたい事件である。ここに米国ピューリタニズムの真骨頂を見る。昨今の「セクハラ」も、米国ピューリタニズムの起死回生の悪あがき(「性」で人間をキリスト教に縛り付ける)というのが正しい位置づけと私は考えている。日本社会に強姦が少なく、米国社会に強姦が多いのは合点できる。強姦とセクハラは本質的に異なる。

赤松啓介「夜這いの民俗学」等の日本の性文化についての著作は、非常に有益である。

「大阪で強姦強盗事件30件超」Sankei Web(2007/01/13 17:56)というのは、日本の文化に異質である。外国人犯罪か、日本文化に異質な日本人か。日本文化が変質したのであろうか。

神仏混淆

私も神仏混淆です。

広島は雨でした。今日(日曜日)、私が町内会長をしている町内で亥の子祭りをしました。あいにくの雨で、町内の会館の前で亥の子もちをついただけで、街に出ることなく亥の子祭りを終了しました。

数年前、町内の係りの方が、神主に連絡するの失念されており、私が仏式で亥の子祭りをすることになりました。町内会副会長に浄土真宗寺院出身の方(70才代)がいて、その方も同意(黙認?)の上でしたが、私も気を使いました。結局、神主に連絡がついて私は仏式の亥の子祭りを主宰しませんでした。しかし、町内会長をしながら、亥の子祭りは継続しています。浄土真宗の僧侶として、失格でしょうか。

犯罪はあるべきだと発言しながら、まだ治安権力から問合せを受けていません。広島の中央防犯連合会の理事も続けています。

今日の終わりのご門徒の十七回忌法事で、長い法話を終えたところ2時間たっていました。午後5時半になっていました。興味の持てた話だったのか、単に我慢していただいたのか良く分かりません。長くなったことをお詫びをした後辞し、自坊に帰り反省しています。

お付き合いさせていただいた方や親戚、存命の方・故人の方、おそらく矛盾を感じ・忸怩たる思いを抱き娑婆での生活をし・されたでしょう。私は、あまりのもの綺麗ごとの発言・生き方に共鳴できません。私がお付き合いをさせていただいた方・影響を受けた親戚の方が、矛盾に満ちた誠実な娑婆での生活を送られたことを信じるのみです。

本願寺の基幹運動の闘士や浄僧に私は共感を持てません。浄土真宗の僧侶の書込を期待いたします。できれば本名でコメントしてください。

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猟官制…個別と全体はまったく別物である。そして西本願寺の宗政のあ

安部晋三内閣のポストは論功行賞であり、猟官行為だとマスメディアは報じている。猟官制に対する日本の常識は否定的である。私は、猟官制のすすめを熱心に説いてきた。一言、コメントしておきたい。

民主政治は、ミクロ的に観察すれば、賄賂政治.である。集積すれば、専制政治に対する民主政治になる。専制政治とは、君主政治・独裁政治である。天皇制政治も究極的には専制政治である。我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。

猟官制は、個別的に行えば、品のない買官行為であり、賄賂政治への道である。政権獲得者が組織的に行えば、官僚組織を掌握して民意を実現する民主制の完全なる機能発揮である。そして、政権交替したときは在野への人材供給である。この在野への人材供給が、成熟した民主的社会の担保である。

安部政権は、今回の組閣については評価できない。安部首相の対北朝鮮の姿勢が見るべきものがあっただけに残念である。

我が宗門(西本願寺)は、どうであろうか。大谷光真門主が、武田昭英とその対立者を戦わせるような玉手箱にされなければ宗門の未来は暗い。ご門主は、僧侶と門徒から、手続き的には宗会から意思表示の機会を奪われるべきではない。(blog安芸ねっとwebryに2006/10/28 21:20アップ)

【資料】
猟官制が宗門を変革する(スポイルズシステム)
小沢一郎の終身雇用・年功序列セーフティーネット説は、猟官制である

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blog安芸ねっとwebryへの「大室☆寅之助。」さんのコメント2006/10/29 11:59
 こんにちは。質問ですが、シャカの教えとはそもそも何でしょうか?私見ですが、北伝仏教は伝播する過程で変容し、本来の姿から外れているのではと疑念を持っています。>我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。 と、おっしゃっていますが、宗教というより日本の仏教は政治そのものに見えます。


blog安芸ねっとwebryへの管理人(武田勝道)の書込2006/10/29 02:00【←メンテ中でアップできない。】
書込、ありがとうございます。

まず「我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。」は、宗政について述べたものです。国(俗)の政治についての記述ではありません。もっとも、鎮護国家の仏教として伝来受容されたので、ご指摘のような「日本の仏教は政治そのもの」の印象はあると思います。しかし、宗教は内心というのは、明治時代のキリスト教徒による非常に意図的洗脳であると思います。むしろ、世界的には、宗教は人間存在を包括的に規制するのが本来的であり、すなわち、政治を含む生活全部です。イスラムキリスト教に顕著です。それと、宗教は、一人のみを対象とするのか、集団を対象とするのか、古くて新しい問題があります。

お釈迦様の教えは何かと大きな質問をされても非常に困惑しますが、私は、お釈迦様は寂静をお教えくださったと味わっています。さとりの向こうは、死の向こうは、彼岸は、シーンとして何もなく静かなのではないでしょうか。真如に入海一味です。

伝播・変容の問題ですが、戒律にしても、暑い地方と寒い地方で同じであることはできません。人が他の人を理解するとき、自分の個性が認められないのでしょうか。お釈迦様の説法は、対機説法であったといわれています。そもそも、原理主義的であっても、2600年前のインドのお釈迦様と現代の日本人が(インド人ですら)同じであることはできないでしょう。キリスト教も、キリストの考えではなく、パウロの考えであり、パウロ教であるといわれています。そして、パウロキリスト教と現代のキリスト教が同じではないでしょう。

言葉の問題、音写か意訳かにはじまる翻訳の問題、受け手の自由や能力の問題は、人が人を理解する、しかも言葉を超えて理解するとき重要です。「原理主義」といわれるものは、形式的すぎるのではないでしょうか。親鸞聖人の教えは、娑婆で命を燃焼する教えです。燃え尽きたとき往生する。私には、お釈迦様の教えの究極の姿に思えます。

blog安芸ねっとwebryへの「大室☆寅之助。」さんのコメント2006/11/11 17:31
 大変に丁寧なお答えありがとうございます。>宗教は、一人のみを対象とするのか、集団を対象とするのか、古くて新しい問題があります。・・最近の社会・政治に関する様々な現象を見ておりますと、仏教界に期待したいことは沢山あります。私としては、小乗・大乗といった壁を超えた原初的な仏陀の教えを啓蒙して頂きたいと思います。

宗教者として自殺行為

48歳の男が30万円相当の軽乗用車を窃盗し、福岡市西区の教会の牧師に窃盗を告白した。教会は警察に通報し、男は逮捕されたそうである。(Sankei Web 2006-10-02

私は、この牧師は宗教者として失格であると考える。説明はいうまでもない。キリスト教関係者の意見を聞きたい。