映画「隣る人」

1年ぶりのご無沙汰です。

ドキュメンタリー映画「隣る人」を観てきたので、感想をつぶやこうと思ったのですが、思いのほか長くなってしまったので久しぶりにエントリにします。

「隣る人」は、ある児童養護施設で暮らす女の子と担当職員の姿を8年間にわたり撮り続けたドキュメンタリー映画です。
http://www.tonaru-hito.com/

この映画のことはずいぶん前に知ったのですが、福岡での上映は9月29日からだったので、今日やっと観る事ができました。
Twitterの「隣る人」アカウント(https://twitter.com/tonaru_hito)から日々多くの感想が流れてきます。おおむね好評なようで「感動しました」「泣きました」というつぶやきを沢山みました。
私がどのように感じたかは、仕事柄と私自身の経験によるところが大きいので、他の方の感じ方とは違うものになってしまったようです。

前置きが長くなりました。感想を書きます。

朝日が昇ります。台所で朝ご飯を作る職員の姿。
子ども達が八〜九人でしょうか。皆で朝食をとっています。
子ども達の登校シーン。見送る職員達。
小舎制の児童養護施設「光の子どもの家」の朝の風景から映画は始まります。
(以下、注釈を入れることができそうにありません。光の子どもの家についてはホームページをご参照ください→http://hikarihp.web.fc2.com/index.html

この映画には、何人もの子どもと職員の方達が登場します。メインは「むっちゃん」と「まりなちゃん」と保育士の「まりこさん」。

全編を通してナレーションも音楽もありません。ただ、児童養護施設での子ども達の生活を淡々と撮し続けるだけです。時系列に沿った編集ではなく時間も行きつ戻りつします。間に挿入された職員ミーティングでの話や、職員へのインタビューで個々の子どもの置かれた状況が分かっていくという手法でしたが、この施設の概要を事前にHPで知っていた私でも、システムや話の筋がよく分からないところもありました。

■一番印象に残っているシーン
一人の女の子が「ママ〜〜〜」と泣き叫びながら、職員に抱きかかえられているシーンです。このシーンは予告編でも使われていたのですが、てっきり面会にきた実母との別れの場面だとばかり思っていました。でも、ママと呼ばれていたのはこの女の子の担当保育士でした。施設側の事情で、この保育士さんが他の家に移ることになり担当を外れる事になってしまったのです。
驚いたのは、子どもが保育士のことをママと呼んでいたこと。「むっちゃん」や「まりなちゃん」も「まりこさん」のことをママと呼ぶ場面もありましたし。

子どもが担当保育士をママと呼ぶことついての論評は控えようと思いますが、それほど濃密な関係がこの施設の子どもと職員の間にあることを強く感じたシーンでした。


■母親の気持ち
小学校の運動会に「むっちゃん」のお母さんが応援にやってきます。どうやらお母さんは「むっちゃん」を引き取りたいと思っているようです。何度か面会にきたりするものの、親子の関係はぎくしゃくしています。お母さんは子どもにどう接して良いか分からないようでした。
職員や他の子ども達もいる中、子どもとの関係だけでなく、我が身の置き所がないという風に私の目には映りました。

ある日、「むっちゃん」はお母さんとお婆ちゃんが住む家に短時間の帰宅をすることになります。施設長の菅原さんが電話で「むっちゃん」に、「今日一つ(日)泊まるか?」と尋ねますが、彼女は「帰りたい。少ししたら迎えにきて」と。でも、お母さんは泊まってもらいたいようで、菅原さんは「焦らない方が良い」とアドバイスをします。結局、「むっちゃん」も泊まっても良いと言ったようで外泊が決定しました。
このときにすごく気になったのは、菅原さんがお母さんに対して「ちゃんと、親をしないと」というようなことを言っていたことと、「むっちゃん」に、何度も自分で(泊まるかどうか)決めるように言っていたことです。
親元への外泊や外出は、児相や施設が状況の判断をして決断することで、その場の成り行きでいきなり予定外の外泊をさせるというのは、あまりにも無謀なように思えました。また、お母さんの気持ちを考えると初めての外泊で気負いもあるでしょうし「ちゃんと、親をしないと」という言葉はどれほどのプレッシャーだっただろうとも思いました。

外泊中に不都合があったらしく、結果的に、お母さんは引き取りを諦め「むっちゃん」は「泊まって良かった。これが最後になるだろうし」と言っていたということでした。
後出しじゃんけんで「ればたら」といっても仕方ないですし、現場の関係者の方達がどれほどがんばっておられるかは、よく知っているつもりですが…。


■ドキュメンタリーという手法
この映画は本年度の文化庁映画賞・文化記録映画部門の大賞を受賞したそうです。ともすれば忘れられそうな社会的養護の現状や、家族とは何か、親子とは、人と人の関係とは、など多くの問題を提起したことは間違いありません。

ですが、これまでに幾たびかドキュメンタリー映像の被写体を経験した者としては、「ドキュメンタリーは嘘をつく(by 森 達也)」というのが、まさにぴったりという感じでした。
そもそもドキュメンタリーという手法は、まずは「何を表現したいか」という監督の「思い」があり、取材という言葉そのままに、監督の「思い」に合致する「素材」を集めて作るものです。撮っている最中に方向性が変わっていくというのは私も経験しましたが、変わったとしても、それは監督の「思い」が変わったというだけのことです。

どれほど人為を廃し現実を撮したように見えても、ドキュメンタリーは人為以外の何ものでもありません。

そして、「日常にカメラが入る」ということもあり得ません。
カメラが入った瞬間に日常は非日常になってしまいます。一般人がカメラを向けられて、平常心でいつもと同じように過ごすことができる訳はないのです。

この映画の場合、このことがどれほど大きな弊害をもたらしたのかということを、とても危惧しています。女の子と担当保育士との別れにしても、「むっちゃん」の外泊の時の菅原さんにしても、カメラが入ってなければ違う対応をしていたのではないか、という思いがよぎりました。
誰の為の映画だったのか、というところにいまだ悶々としています。