暴力に「教育」なんて名前つけないでよね。
こんにちは。管理人のakiraです。
このブログ書かなくなって久しいので、どう書き出していたか忘れてしまいました。
この記事のテーマは日野皓正氏の体罰問題についてです。
本館の方ではなく、あえてこちらに書くことにしました。いわゆる社会問題なので。
休みの日でめずらしくTVを見ていたら、あの動画が流れてきて・・・。
何があった?しかもよりによって世田谷区(あの保坂さんが区長をしている)?って感じで。
私が最初にtwitterで呟いたのは
TV番組で、たまたま観てたんだけど、日野さんがドラムの少年の頰を叩く直前に「なんだその顔は!」って怒鳴ったんだよね。止めるために叩いたんじゃなくて、反抗されてムカついただけだよ。自分の衝動がコントロールできなかっただけ。
— akiraさん。はい。 (@t1akira) 2017年9月2日
というもの。
(動画を見返したら「なんだその顔は!」って言ったのは、直前ではなくて直後でした。訂正します)
その後も色々つぶやきましたが、当初の「反抗されてムカついたから手が出たんだろう」という感想は変わっておりません。いや、むしろ強まっております。
DVや虐待との類似点
日野氏のビンタ騒動、叩かれた本人謝ってるし、二者関係の中で起こったことだから、他人関係ないしっていう意見もある。
— akiraさん。はい。 (@t1akira) 2017年9月4日
でもね、だったら、虐待とかDVとか全部そうなるぢゃん!
なんでそれがわからないかな?
私の、このつぶやきに対する反論や批判も来ています。
曰く「虐待やDVと同一視するな」と
親密な関係の中で、力の不均衡の元、権力を持った者がもう一方に(単発ではない)暴力を振るう。目的は相手にいうことをきかせるというところが、この件と虐待やDVとの類似点だと私は考えました。
以下、説明を試みます。
日野氏の言動
日野氏がインタビューを受けてコメントを出しました。
その動画がこちら
https://www.youtube.com/watch?v=i6Yh4pxfXTc
同内容のニュース記事
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170901-00000105-dal-ent
動画の最初に
「嘘だよ〜。軽く触っただけ」とヘラヘラ笑いを浮かべる日野氏にドン引きしたのは置いといて。
「俺とあいつは、父親と息子なわけ。他の生徒には絶対に手を上げない」とした上で、「ヤツの心を立て直してやらなきゃという思いがある。だから、これからもやるよ。ビンタもね、アントニオ猪木の方が数段痛いと思うよ」と、愛情を持った教育の一環であることを強調した。
デイリースポーツより引用
「これからもやるよ」と言っていますし、他の報道(http://news.livedoor.com/article/detail/13552675/)では、練習中にも、かの中学生に手をあげることが、あったとのこと(やはり今回だけではなかった)。
日野氏はドラマー君との関係は「父と子」のような特別な関係であるといい、他の生徒は叩かない、彼がいうことをきかなかったから叩いた。これは愛情であり教育だと自分の行為を正当化しています。そして、当初は叩いてない、ちょっと触っただけと事実の矮小化さえ行っています。
DVや虐待加害者の言動をよく知っている人なら、皆声を揃えて「そっくりじゃん」というはずです。
力の不均衡
こう言った暴力が行われる背景には、まず前提として「力の不均衡」があります。
親>子 男>女 教師>生徒 師匠>弟子 など、暴力は強者から弱者へです。(例外もありますけどね)
この「力」というのは、単に体の大きさや腕力だけでなく権力の差も含みます。
この暴力に「教育」だと名付けたのは誰?
いうまでもなく、暴力を振るった日野氏(と、それに同調する人たち)ですね。
その昔、ミシェル・フーコーという人が、「権力とは状況の定義権である」ということを言いました。
私がこの言葉を知ったのは信田さよ子さんの講演会ですが、信田さん曰く、殴る行為そのものが権力ではなく、それを暴力と呼ぶことを禁じ「しつけ」「愛の鞭」「教育」と定義すること自体が権力であると言っています。
今回の場合、日野氏は彼の父として振る舞い、バンドの指導者であるという、この場での最高権力者でもあったわけです。その人が「これは教育である」と状況を定義したのですから、この状況を「暴力である」と定義し直す力はドラマー君にはないのです。
以上、私がこの状況を虐待やDVと同じだと思った理由です。
虐待にしても体罰問題にしても、あって当たり前だった強者(権力者)から弱者への暴力を、「しつけ」や「愛の鞭」ではなく「児童虐待」「DV」「暴力」と名付けることにより「理由があっても、暴力は行なってはいけませんよ」ということができるようになりました。
日本がそういう国になってから、まだ20年かそこらです。
ここで、また20年前に戻ろうというのでしょうか?
理由があれば暴力を振るっても良いという時代に戻りますか?
この暴力の教育的価値
叩かれた子どもも納得し反省ているし、教育的価値はあったというふうに思う人もいるでしょう。
でも、本当にこの件が教育的であったとしたら
「僕は悪いことをしました。皆に迷惑をかけて、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。でも、誰も僕に暴力を振るっていい人はいません。そして僕も暴力は振るいません」
となったのでしょうね。
一般的に被害者側が暴力を容認することは多々あります。
今回の件でも「昔はもっとひどかった」「悪いことをすれば殴られて当然。自分も殴られた」という声が大きいでしょ。
ドラマー君が暴力を肯定する人にならないことを願うばかりです。
あまりまとまらないけれど、そろそろ日常に戻る時間です。
では、また。
ピンクリボン
放置しまくりですみません。
本館は細々と続けています。
本館で書いたエントリ
「ピンクリボン」
http://akiras-room.seesaa.net/article/427116535.html
9年前に乳がんで亡くなった絵門さんのこと。
「明日、ママがいない」 まとまらないまとめ
あまり気は進まなかったんだけど「明日、ママがいない」第1話を、放送の翌日にGyaOで観てみた。
ここ1週間、そのことばかりTwitterでつぶやいていたんだけど、きりがないからエントリにしようと思う。
(なんと8ヶ月ぶりの更新w)
このドラマに対する様々な意見がある。大別すると以下のようなもの。
ドラマの内容に対する異議
・あだ名が差別的。
・預けられている子どもたちは、虐待や遺棄された子どもたちばかりのような印象を与える。
・(職員の言動も含め)養護施設が誤解され偏見が強まる。
・今、実際に社会的養護を受けている子どもたちが傷つく。
・ドラマを見た人(特に子ども)たちからの、養護施設にいる子どもへのいじめを助長する。
・養護施設の職員や里親が萎縮する。
・子どもを預けている親が偏見に晒される。
ドラマの内容に賛同
・フィクションだと思ってみている。あれを本当だと思う人はいない。
・見て傷つくなら、見なければいい。
・放映中止を求めることは表現規制に繋がる。
・親が子どもと一緒に見て、本当のことを教えればいい。
・あの時間のドラマを子どもが見ている事が問題。
・子どもが、いじめをするのはドラマのせいではなく、親や学校の責任。
・実際に施設内虐待は起きている。
・児童養護の関係者がドラマに異を唱えるのは、自分たちを正当化するため。
・子どもたちが可愛そう。捨てる親が悪い。
・子どもたちの悲惨な状況が分かるから続けて欲しい。
・養護施設を考えるきっかけになる。
・子どもを大切にしようと思えた。
・感動した。泣いた。よいドラマだ。(大多数)
・おもしろかった。次回が楽しみだ。放映を続けてほしい(大多数)
40年以上も前のこと、私は母親から捨てられた。
とはいっても、それは養護施設ではなく、母方の祖母の家に置き去りにされたのだけれど。
(いきさつは別ブログのエントリ→ 「ネグレクト(1)」
http://blogs.dion.ne.jp/akiras_room/archives/3618071.html)
母が出て行った後、1週間ぐらい布団にくるまって泣いていた私に、祖母が言った「そんなだから、捨てられるんだ」って言葉。
今でこそ、「殺さないでくれて、ありがとう」「捨ててくれて、ありがとう」と笑って言えるようになったけど、そこまでたどり着くのに25年もかかってしまった。
かのドラマの感想には「ポストって名前は、本人が望んでつけた名前で蔑称ではない。捨てられたんじゃない、自分が捨てたんだという思いがこもっている(大意)」みたいな意見が散見される。
ドラマの中で、主演の少女がそういう台詞を言ってたし。
でもね、9歳の子にそう言わせたいのは脚本家だってこと。
簡単に言うなよと思う。
どれほど酷い扱いを受けても、自分から捨てるのは容易ではないよ。
「捨てたいけど捨てきれない」そういう葛藤を抱えている子どもも多いだろう。
「関心を持って貰うきっかけになればいい」という意見もあるけれど、私はそうは思わない。
今、社会的養護を受けている子どもたちは、そこに至った事情も様々で、ドラマのイントロダクション(http://www.ntv.co.jp/ashitamama/introduction/index.html)に書かれているような、虐待を受けた子どもばかりではない。傷つけないために、生きていくために泣くなく子どもを手放した親もいる。
制作側の誤解に基づいて作ったドラマを見て「可愛そうな子どもがいる」と分かった気になっているだけ。
「感動した」で終わらせないで、きちんと調べたり本を読む人がどれぐらいいるだろう。ドラマが終わっても関心を持ち続ける人がどれぐらいいるのだろう。
ドラマを視聴した直後の、このツイートを沢山の方が読んでくださったようだ。
まだ、施設入所には至っていないが虐待を受けている。そんな子ども達があのドラマを見たら、「絶対施設には行かない」「だから助けは求めない」となるだろうよ。施設=怖いところと思わせないで欲しい。 http://t.co/MLsXuOQBkE
— akira@冬眠モード (@t1akira) 2014, 1月 17
一時の関心はすぐに忘れ去られてしまう。だけど、植え付けられた偏見は、ずっとずっと影響し続けてしまうのだと思う。かつて「孤児院」を恐れた私のように(昭和生まれの人は、この感覚が分かるかも)、自ら救いの手を拒む子どもがいないことを祈るしかないが。
「フィクションだと分かっているから、偏見など持つはずがない」という意見に、もう少しだけ反論させていただくと。
ここのところずっと読んでいたツイートには、「フィクションだ」といいながら同じ人が「こんな酷い事件もあった」と実際にあった事件を持ち出したり、「酷いのは、実際に子どもを捨てる親であって、ドラマではない」とか「簡単に子どもを捨てるのは酷い。施設に預けないで」なんていう意見もあった。
児童養護施設や施設に子どもを預けている親への偏見が醸成されつつある(というか、もう出来上がってる?)と思う。
意外と簡単に影響されてしまうもんですね。人っていうのは。
なんだかんだ書いたけど、「おもしろかった」という大多数の意見に集約されるように、描かれる側の心情を無視して、娯楽として消費する人達の多さにうんざりしているんだね。私。
以上。
まとまらないのは仕様です\(-_-;)
※ちなみに私は、施設内虐待があることを否定はしません。
https://twitter.com/t1akira/status/425529112111763456
■「明日、ママがいない」意見、報道まとめ
ドラマ「明日、ママがいない」第1話へ児童養護施設関係者からのツッコミ
http://togetter.com/li/616921
「明日、ママがいない」施設出身者の方々の反応
http://togetter.com/li/617131
「明日、ママがいない」漫画家、クリエイターなど創作を生業とする方達の反応
http://togetter.com/li/617121
日テレのドラマ「明日、ママがいない」への抗議問題。施設の子どもに対する「想像力の欠如」と「加害性」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20140118-00031720/
日テレ「明日、ママがいない」 実の母親が育てられない「養子縁組の子ども」を育てる母親からのメッセージ
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20140122-00031853/
「明日、ママがいない」騒動で耳を傾けるべきは施設出身者の声
http://blogos.com/outline/78173/
『明日、ママがいない』問題について。作り手と受け手の想像力の相克
http://www.huffingtonpost.jp/hotaka-sugimoto/post_6694_b_4625728.html
「親に捨てられた子」と呼ばれて自尊感情は育つのか
http://ameblo.jp/sweetcocoamilk/entry-11751009141.html
表現と風評と想像力と
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20140118/1390018114
ドラマを創作するときの自由
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20140117/1389983342
【児童養護施設/グループホーム】本当はどんなとこ!?「明日、ママがいない」抗議、放送中止要請も
http://matome.naver.jp/odai/2138980261428740301
テレビ史の汚点になる前に、日テレは『明日、ママがいない』の放送中止か軌道修正を考えるべき!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38139
赤ちゃんポスト運営病院、日テレドラマに抗議へ
http://www.asahi.com/articles/ASG1J64S6G1JTLVB00T.html
【明日、ママがいない】全国の児童養護施設と里親会が日テレに抗議「人間は犬ではない」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/21/mamagainai-kougi_n_4634833.html
「裁判員メンタルヘルスサポート窓口」という欺瞞
今朝、新聞を読んでいたら以下のような記事が載っていました。
福島・死刑判決:元裁判員がストレス障害 遺体画像で (毎日新聞 04月18日)
強盗殺人罪などに問われた被告に死刑を言い渡した今年3月の福島地裁郡山支部の裁判員裁判で、裁判員を務めた福島県の60代女性が、証拠調べで見た遺体のカラー画像などが原因で不眠症や食欲不振に陥り、「急性ストレス障害(ASD)」と診断されたことが分かった。女性の弁護士によると、裁判員経験者が精神障害と診断されたのは初めてという。女性側は国に制度の見直しを求めるため、慰謝料など計160万円を求める国家賠償訴訟を仙台地裁に起こす構え。
元裁判員の女性は、裁判に参加中から不調を訴え「裁判員メンタルヘルスサポート窓口」に連絡するも、交通費を自分で負担して東京に行かないと対面カウンセリングが受けられないと告げられ断念したとのことです。そして「裁判員の心のケア制度はあるのかもしれないが、実際には役に立っていない。」と述べています。
裁判員のメンタルサポートについては、5年ほど前に旧ブログで取り上げていました。
裁判員制度と二次的トラウマ
裁判員制度 心のケアに900万円!
これらのエントリで私は、委託業者の専門性に疑問をもっていること、裁判員制度推進のためのアリバイ作りに過ぎないという意見を述べました。当時の懸念が現実になってしまったことが残念でなりません。
■ 相談窓口業務を委託されていた業者
先のエントリを書いたときには、業者の選定方法や、どういった業者が請け負ったのかなど分からないことだらけでした。今回の記事を受け少し調べてみることにしました。最初に見つけた文書はこれ。
第2回「犯罪被害者等に対する心理療法の費用の公費負担に関する検討会」に提出された、内閣府事務局が作成した「裁判員メンタルヘルスサポート窓口制度(PDF)」という資料です。
この文書によると平成23年8月当時は、「裁判員等の電話カウンセリング等委託業務(裁判員メンタルヘルスサポート窓口制度)」は(株)保健同人社 (http://www.hokendohjin.co.jp/) に委託していたようです。
その後もう一つ、裁判所のサイト内にあった「公共調達の適正化についてに基づく競争入札に係る情報の公表(PDF)」という文書を見つけました。
平成24年4月に一般競争入札でダイヤル・サービス (株) (http://www.dsn.co.jp/)が、「裁判員等の電話カウンセリング等委託業務」を(たったの)299,250円で落札していることが分かります。ということは、件の「役に立っていない」という業者はここのことなのでしょう。
ちなみに、平成23年度の「裁判員のメンタルヘルス対応電話相談等委託経費」予算額は9,804,000円です。24年度は分かりませんけど…。残りはどうしたんでしょうかね。
このダイヤル・サービス(株)のサイト内の「トータルEAPサービス」というページを見てみると、『全国217ヶ所に提携カウンセリングルームをご用意。(中略)ご相談者1名につき、年間5回までは無料でご利用いただけます。』とあります。東北にも9カ所の提携カウンセリングルームがあるとのことですが、だとすると「交通費を自分で負担して東京に行かないと対面カウンセリングが受けられないと告げられ」たというのはどういうことなのでしょうか。
■ 業者選定方法について
先に述べたとおりダイヤル・サービス(株)は、この業務を一般競争入札で落札していますが、H25年度の業者は一般競争入札ではなく見積り合せで選定するようです。なぜ、選定方法を変えるのでしょうか。謎です。
「裁判員等の電話カウンセリング等委託業務等 見積り合せ要領(PDF)」
最高裁判所事務総局経理局 平成24年12月13日
・専門性
裁判員制度が始まったH21年の12月に(社)日本臨床心理士会が「裁判員制度と心のケア研修会」http://www.jsccp.jp/suggestion/sug/pdf/data_Report-20100310.pdf
を行っています。多くの臨床心理士の方々が参加されたようです。
委託された(株)保健同人社、ダイヤル・サービス(株)は共にEAP(企業内のメンタルヘルスを請け負う)業者であり、所属するカウンセラーがどのような研修を受けているかや、トラウマ(二次受傷)・ケアについての専門性には疑問符がつきます。
先に取り上げた「裁判員メンタルヘルスサポート窓口制度(PDF)」という資料の「行っている心理療法の定義」の欄に「心理療法の定義は行っていない。」と書かれており、業者がどのような知見に基づいてカウンセリングを行っているのかさえ判然としません。
・カウンセリングの設定ミス
24時間無料電話カウンセリングという設定自体、問題があると思っています。カウンセリングに必要な枠組みを無視して、何らかの効果が上げられるとは思えません。
また、対面カウンセリングは5回まで無料で受けられますが、それ以降は自己負担となります。この制度が始まった当初から、対面カウンセリング「5回」という回数についての批判が多くありました。何を基準に5回と決めたのか…。
どうも委託業者のEAPのシステム(24時間電話相談、対面カウンセリング年間5回無料)に乗っただけではないかという気がしてなりません。
・予算額の妥当性
上記のような無謀な設定で年間予算が1千万足らず(対面カウンセリング込みですよ)というのは、最高裁はカウンセラーをバカにしているんでしょうかね。しかも、実際は30万円以下で落札って、いったい…。
こういう仕事を受ける業者を私は信用できませんし、無責任に発注した最高裁も信用できません。
カウンセリング方法や回数の設定、業者の選定方法、予算額などについて、いつ誰がどのように決めたのか、いくら探してもそれらしいテキストが見つからず、さっぱり分かりません(単に、私の探し方が悪いだけという気もしますが)。
無謀な立案、安価で委託(丸投げ)…。
裁判員裁判における性暴力被害者のプライバシー問題でも最高裁の問題意識の無さや不誠実さに失望と怒りを覚えましたが、今回またいっそう、その思いが強くなりました。
参考
http://blog.rote.jp/2009/06/16-000100.php
ロテ職人の臨床心理学的Blog
裁判員の心のケア、5回まで無料に…最高裁…って5回まで?(2009.6)
http://saibanin-keiken.net/teigen20101209.pdf
裁判員の心理的負担についての裁判所の対応策への緊急提言
2010年12月9日
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2012/opinion_120315_3.pdf
裁判員の負担軽減化に関する意見書
2012年3月15日 日本弁護士連合会
http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010051801001147.html
裁判員のカウンセリングは適用外 守秘義務で法務省が見解
2010/05/19 02:02 【共同通信】
セカンド・レイピスト再び
沖縄で米兵による強姦事件が再び起きてしまいました。
4年前に同じような事件が起きた時も、被害者バッシングの嵐が吹き荒れましたが、今回もです。
あまりにもタイミングが良すぎる沖縄の米兵強姦事件 (魚拓)
※ひどい内容なので閲覧注意
↓4年前の事件のエントリ↓
怒りで・・・。
沖縄の子ども達にとっての現実世界【追記あり】
被害者の非を言い立てる人達へ
エントリの著者は、産経新聞九州山口版にコラムを書いている井上政典氏。
前回に引き続き、またしても産経新聞のコラムニストですよ。
なんででしょうかね。伝統芸なのか仕様なのか…。
エントリ全体にわたり批判したい部分は沢山ありますが、被害者に対する誹謗中傷の部分だけ取り上げます。
今回、オスプレイの反対運動が下火になる反面、風船を飛ばすなど抗議運動がいっそう過激になっている時に、米兵による強姦傷害事件が起きました。
あまりにもタイミングが良すぎる?(悪すぎる)と思いませんか?
これはいいすぎかもしれませんが、どうしても「美人局(つつもたせ)」という言葉が頭から離れません。もうなりふり構わず、日本本土と沖縄を離間させたがっている人たちの仕業としか思えないのです。
つまり井上氏は「ハニー・トラップ」だと言いたいわけですね。
4年前の事件の時も「ハニー・トラップ」説を唱えた人がいました。
『正論』常連"クライン孝子"は、沖縄女子中学生をセカンドレイプして平気
今回も早々に2ちゃんねる等でそうした暴言が吐かれているようです。しかし、産経のコラムニストともあろう人が、2ちゃんねると同じレベルとは…。いやはや。
いやね、呆れているんではなくて、はらわたが煮えくりかえっているのですよ。続く文章を読んでくださいな。
すると、沖縄の主要二紙はよってたかって『沖縄は被害者だ』『米軍の基地があるからだ』とか小さな強姦事件を重大事件のように騒ぎ立てています。
「小さな強姦事件」って、自分の家族が同じ目にあっても同じことが言えますか?え?
以前起きた少女強姦事件も地元の人に詳しく聞いてみると、被害者の女性は未成年だけど酒を飲み、米兵を挑発するような言動をとっていて、その時間も深夜だったそうです。
「少女が強姦された」と読むと、私達は『いたいけな少女が獣のようなアメリカ兵から無理やり強姦されて純潔を汚され、一生トラウマを持たねばならない人生を背負わされた』というイメージを頭の中で描きませんか?
でも、実際はそうではありませんでした。
これがどの事件を指すのかは分かりませんが(どの事件を指すのか分からないだけに一層たちが悪いともいえる)、「実際はそうではありませんでした」と、見てきたようなことを言ってくれるじゃありませんか。
伝聞で批判するのは、今回の事件の被害者に対しても同じくです。以下のように。
今回の事件も、訴えは「本人からではなく、知人から」「犯行時間は深夜午前3時半」「この女性は他にも米兵との不純異性交遊があるといううわさがある」「行為の後にトラブルがあったらしい」という情報が地元の方から寄せられています。
深夜に若い女性が一人で米兵のたむろする場所に出入りして、挑発的な行動をとれば
Facebook経由で入手した情報に基づく発言のようですが(facebookを過信しすぎなんぢゃ?)、被害者の方の名誉を著しく傷つける発言です。即刻、撤回して謝罪した方が良いレベル。
米兵でなくても鼻の下を伸ばしてふらふらついていく人はたくさんいるのではないでしょうか?私の頭の中には、すぐに十人以上の友人の顔が浮かびます。私も、10年前だったら、行っているかもしれません。
『男は熊』しかも類友って話。10年前なら自分も強姦してたかもという宣言ですもん。怖すぎますよ。
結局、件のエントリは井上氏の願望と憶測による誹謗中傷ってことですな。
ちなみに
米軍の性犯罪については、以下のサイトが参考になります。
米海軍が性的暴行防止に躍起
沖縄からの報告─ 米軍基地の現状と米兵によるレイプ事件─ 宮城晴美(PDF注意)
不平等条約
参考
普天間を閉鎖撤去させ土地を返してもらう なごなぐ雑記
TB先
産経は沖縄の米兵犯罪を無視する気か【追記あり】 vanacoralの日記
沖縄で何人の女性がレイプの被害を受ければ米軍と米日両政府は反省するのだろう? 村野瀬玲奈の秘書課広報室
映画「隣る人」
1年ぶりのご無沙汰です。
ドキュメンタリー映画「隣る人」を観てきたので、感想をつぶやこうと思ったのですが、思いのほか長くなってしまったので久しぶりにエントリにします。
「隣る人」は、ある児童養護施設で暮らす女の子と担当職員の姿を8年間にわたり撮り続けたドキュメンタリー映画です。
http://www.tonaru-hito.com/
この映画のことはずいぶん前に知ったのですが、福岡での上映は9月29日からだったので、今日やっと観る事ができました。
Twitterの「隣る人」アカウント(https://twitter.com/tonaru_hito)から日々多くの感想が流れてきます。おおむね好評なようで「感動しました」「泣きました」というつぶやきを沢山みました。
私がどのように感じたかは、仕事柄と私自身の経験によるところが大きいので、他の方の感じ方とは違うものになってしまったようです。
前置きが長くなりました。感想を書きます。
朝日が昇ります。台所で朝ご飯を作る職員の姿。
子ども達が八〜九人でしょうか。皆で朝食をとっています。
子ども達の登校シーン。見送る職員達。
小舎制の児童養護施設「光の子どもの家」の朝の風景から映画は始まります。
(以下、注釈を入れることができそうにありません。光の子どもの家についてはホームページをご参照ください→http://hikarihp.web.fc2.com/index.html)
この映画には、何人もの子どもと職員の方達が登場します。メインは「むっちゃん」と「まりなちゃん」と保育士の「まりこさん」。
全編を通してナレーションも音楽もありません。ただ、児童養護施設での子ども達の生活を淡々と撮し続けるだけです。時系列に沿った編集ではなく時間も行きつ戻りつします。間に挿入された職員ミーティングでの話や、職員へのインタビューで個々の子どもの置かれた状況が分かっていくという手法でしたが、この施設の概要を事前にHPで知っていた私でも、システムや話の筋がよく分からないところもありました。
■一番印象に残っているシーン
一人の女の子が「ママ〜〜〜」と泣き叫びながら、職員に抱きかかえられているシーンです。このシーンは予告編でも使われていたのですが、てっきり面会にきた実母との別れの場面だとばかり思っていました。でも、ママと呼ばれていたのはこの女の子の担当保育士でした。施設側の事情で、この保育士さんが他の家に移ることになり担当を外れる事になってしまったのです。
驚いたのは、子どもが保育士のことをママと呼んでいたこと。「むっちゃん」や「まりなちゃん」も「まりこさん」のことをママと呼ぶ場面もありましたし。
子どもが担当保育士をママと呼ぶことついての論評は控えようと思いますが、それほど濃密な関係がこの施設の子どもと職員の間にあることを強く感じたシーンでした。
■母親の気持ち
小学校の運動会に「むっちゃん」のお母さんが応援にやってきます。どうやらお母さんは「むっちゃん」を引き取りたいと思っているようです。何度か面会にきたりするものの、親子の関係はぎくしゃくしています。お母さんは子どもにどう接して良いか分からないようでした。
職員や他の子ども達もいる中、子どもとの関係だけでなく、我が身の置き所がないという風に私の目には映りました。
ある日、「むっちゃん」はお母さんとお婆ちゃんが住む家に短時間の帰宅をすることになります。施設長の菅原さんが電話で「むっちゃん」に、「今日一つ(日)泊まるか?」と尋ねますが、彼女は「帰りたい。少ししたら迎えにきて」と。でも、お母さんは泊まってもらいたいようで、菅原さんは「焦らない方が良い」とアドバイスをします。結局、「むっちゃん」も泊まっても良いと言ったようで外泊が決定しました。
このときにすごく気になったのは、菅原さんがお母さんに対して「ちゃんと、親をしないと」というようなことを言っていたことと、「むっちゃん」に、何度も自分で(泊まるかどうか)決めるように言っていたことです。
親元への外泊や外出は、児相や施設が状況の判断をして決断することで、その場の成り行きでいきなり予定外の外泊をさせるというのは、あまりにも無謀なように思えました。また、お母さんの気持ちを考えると初めての外泊で気負いもあるでしょうし「ちゃんと、親をしないと」という言葉はどれほどのプレッシャーだっただろうとも思いました。
外泊中に不都合があったらしく、結果的に、お母さんは引き取りを諦め「むっちゃん」は「泊まって良かった。これが最後になるだろうし」と言っていたということでした。
後出しじゃんけんで「ればたら」といっても仕方ないですし、現場の関係者の方達がどれほどがんばっておられるかは、よく知っているつもりですが…。
■ドキュメンタリーという手法
この映画は本年度の文化庁映画賞・文化記録映画部門の大賞を受賞したそうです。ともすれば忘れられそうな社会的養護の現状や、家族とは何か、親子とは、人と人の関係とは、など多くの問題を提起したことは間違いありません。
ですが、これまでに幾たびかドキュメンタリー映像の被写体を経験した者としては、「ドキュメンタリーは嘘をつく(by 森 達也)」というのが、まさにぴったりという感じでした。
そもそもドキュメンタリーという手法は、まずは「何を表現したいか」という監督の「思い」があり、取材という言葉そのままに、監督の「思い」に合致する「素材」を集めて作るものです。撮っている最中に方向性が変わっていくというのは私も経験しましたが、変わったとしても、それは監督の「思い」が変わったというだけのことです。
どれほど人為を廃し現実を撮したように見えても、ドキュメンタリーは人為以外の何ものでもありません。
そして、「日常にカメラが入る」ということもあり得ません。
カメラが入った瞬間に日常は非日常になってしまいます。一般人がカメラを向けられて、平常心でいつもと同じように過ごすことができる訳はないのです。
この映画の場合、このことがどれほど大きな弊害をもたらしたのかということを、とても危惧しています。女の子と担当保育士との別れにしても、「むっちゃん」の外泊の時の菅原さんにしても、カメラが入ってなければ違う対応をしていたのではないか、という思いがよぎりました。
誰の為の映画だったのか、というところにいまだ悶々としています。
とあるエントリを読んで職業的な権威付けについて考えた
5月15日付けの、とあるエントリが話題になっています。
『放射能を正しく理解するために』(文科省発表)に込められた巧みな“トリック”を大阪の精神科医が指摘しています。 - Eisbergの日記
私もつい先日、上記ブクマ経由で読みました。すでに地下猫さんが反論エントリをあげていらっしゃいます。
ほかにも、あの「精神科医」の発言はソースもわかんにゃーし、そもそも文科省の文章 ※PDF注意を思いっきり誤読しておりますにゃ。文科省の文章には、津波や地震などの災害とPTSDの関わりは確かに書いてあるし、放射線の心理的ストレスが放射線被曝より有害であることも書いてありますにゃ。でも、放射線でPTSDと直接は書いてにゃーです。
※アップ直後に追記:なぜか文科省PDFへのリンクが切れています。(数時間前まで、つながってたんだけど)
大阪の精神科医が書いたという文書への反論は、引用した地下猫さんの発言だけでも十分だと思いますが…。『「精神科医」の発言ソース』と、ストレス関連疾患などについて、いくつか補足をさせていただこうと思いました。
元エントリーの日付の方のコメント欄(はてダの仕様はどうも分かりにくい)に、件の文書を書かれた精神科医が直接コメントを寄せています。
津波や地震でPTSDが引き起こされることはありますから、この時期にPTSDが話題になり、関心が高まるのは当然のことだと思います。しかし、この文書(タイトルは「放射能を正しく理解するために」)では、「心配事やストレスは心身の不調を引き起こします」と述べた後にPTSDについて述べ、そのすぐ後で「放射能のことを必要以上に心配しすぎてしまうとかえって心身の不調を起こします」と書いています。これでは「放射線のことを心配しすぎるとPTSDになる」という誤解を引き起こしてしまいます。
文科省がこの時期にこのような文書を発表することに問題を感じ、face bookの「福島第一原発を考えます」というグループで発言しました。
お名前などはあえて引用しませんでしたが、(コメントがご本人のものであるならば)大阪在住の精神科医であることは確かなようです(専門分野は統合失調症)。そして、元の文章はface bookの「福島第一原発を考えます」というグループへの投稿だと書かれています。ちなみにこのグループは、あの木下黄太氏が立ち上げたグループとのこと。同じ文章は木下氏のblogにも転載されていました。
ー木下黄太のブログー「放射能恐怖症」をでっち上げようとする文部科学省へのある精神科医の抗議
元エントリの中で、精神科医氏(タイポではありません)は、トラウマティックストレス学会が特設blog内で発表した「原発事故による避難者/被災者のメンタルヘルス支援について(PDF注意)」という文章を紹介していますが、同じblogに3月24日付けで以下のような文章があります。
原子力災害が与えるメンタルヘルスへの影響
放射能が与える心への影響はとても大きいです。放射線は目に見えなくて、どのくらい被爆したかが自分で評価できません。そのため、「被曝したかも」という脅威だけで、猛烈な恐怖を起こします。過去の事例を参考に、その影響をまとめてみました。・被曝したと思う者は、実際に被爆していなくてもそれ相応の行動をとる
避難、病院受診など
医療者の説明が入りづらい
・医療機関には、不安にかられた人々が実際の受傷者以上に受診する
医療機能のパンク
多数の精神科事例が発生しうる
・不安、身体化が前面に出やすい
身体症状と精神症状との区別が難しい
ストレス反応症状(再体験、回避、過覚醒)は比較的出にくい
・人々の反応を決めるのは情報発信者の情報の伝え方(リスクコミュニケーション)
望ましい情報の伝え方 ⇒ 正確・迅速・透明性
望ましくない情報 ⇒ デマ・集団パニックを引き起こしうる
過剰な情報 ⇒ 不安を増強させる
・もっとも効果的な治療は「情報」
情報を複数箇所から入手して情報の精度を高める
放射能汚染を抑える方法を学ぶ
科学的データに基づく安心感の回復(放射線量測定、血液検査など)また、不安に駆られた人に、どのように接すればいいのか、当委員会の委員であり、JCO事故で地域支援を行った経験を持つ武蔵野大学小西聖子、藤森和美がまとめました。
原発事故による避難者/被災者のメンタルヘルス支援について(PDF)
子どもたちの放射線被害を心配する保護者や教育関係者の皆様へ(PDF)
※強調は引用者による
今まさに、上記で心配されているようなことが起きています。精神科医であるならば、このような文章をこそ拡散するべきではないでしょうか?(同エントリの最後尾にリンクしてあるPDFも必読)
PTSD(心的外傷後ストレス障害)は過去の心的外傷が原因で発症しますから、現在進行形の事態に対してPTSDを持ち出すことはそもそもおかしな話です。
だから、PTSD(外傷後ストレス障害)と結びつけるべきではないといっています。しかし、精神科医ならば、ここでASD(急性ストレス障害)という疾患名が思い浮かばないはずはないのです(もし、思い浮かばなかったとしたら…)。PTSDとASDの違いは発症時期(というか、診断時期)と、ASDの方が解離性の症状を示しやすいことぐらいで、後はほぼ同じです。そして、初期のケアが上手く行かなければASDからPTSDへ移行しやすいことも知っているはずです。
また、過度のストレスは、胃痛、食欲不振(あるいは昂進)、便秘、下痢、不眠、頭痛、目眩、発熱、アレルギー疾患の憎悪、高血圧、動悸など多くの症状を引き起こし心身の不調を招きます。高じればストレス関連疾患にも結びつく可能性があります。これらのことは、私が言うまでもなくよくご存じのことだと思うのですが。
結局のところ精神科医氏が、PTSDを否定してまで言いたかったことは、以下の文章に尽きるようです。
チェルノブイリの事故の後、心身の不調を訴える人々に対してソ連が
「放射能恐怖症」という精神科的な病名をつけて、
放射線被曝の後遺症を認めようとしなかったことがありました。
それと同じことが日本でも起こるのではないかと心配しています。
福島県の被災者の方達は、震災、津波、原発事故という、ひとつでもPTSDになり得る体験をしています。これ以上の不安を煽ってどうするのですか?精神科医氏の文書は多くのblogに転載され、まだ広まり続けているようです(8月末に掲載しているblogもありました)。精神科医がそれと名乗って書いた文章でなければ、これほどの広まることはなかっただろうと思います。