Q92.死とは何か?

A.死とは精神の死・波の循環が止まること

 生命にはもともと死というものはありません。あるのは心の死だけなのです。
 多細胞生物ではそれぞれの細胞のレベルの死があります。人間でも体の細胞は毎日のように生まれ、死んでいます。脳のニューロンさえ死にますが、それが一つでは心には影響しないし、それを死とは表現することはありませんでした。これを死だと考えたのは、顕微鏡でその活動の開始と停止を知ることになったためです。
 わたしたちが死と表現するのは、動物、植物などが自律的な動きを失い腐敗していく場合です。そのとき、すべての細胞が死に向かいます。そしてこれは心の死であり、生命における死──細胞の死とは本質的に異なるものです。生命における死とは、遺伝子の活動の一つの区切りに過ぎず、細胞の発動と停止でしかないのです。その遺伝子は子孫に伝えることにより永遠に生き続けることが可能です。
 有名なのがヒーラ細胞です。アメリカで1951年にヘレン・ヒーラという人が子宮ガンで亡くなりましたが、そのガン細胞はそのまま培養されて研究用に今も生き続けています。しかし、ヒーラという人物がいまも生きていると考える人はいないわけです。
 心は循環する波ですから、死とは波の循環が止まることです。
 循環はきれいな円ではないが回転しているといえます。回転するものには必ず軸があります。自己と他人を区別するものは、軸がどこにあるかということです。一つの時間においては、同じ場所に異なる循環の軸があることはないのです。
 人間が生まれると、一つの波の循環とその軸が生まれます。死ぬときにはその循環が停止します。循環を止めると心は死ぬということですから、循環を止めなければ生き続けることができます。
 自己意識をもつ動物では、環境と脳の間だけで循環するのではありません。脳につくられた意識もまた循環です。その循環は脳の中で回転し続けます。
 では、脳の中の循環が停止するとそれは死でしょうか。これはとても難しいことです。停止しただけなら、もう一度動かせばよい。仮死状態といえるでしょう。
 脳の循環部分が破壊されたらそれは死でしょうか。脳の循環部分の破壊は記憶の消滅を意味します。しかし、その後、ニューロンが発芽して回復したらどうなるでしょう。子供の場合にはこれに近いことが起こることがあります。この場合、新しい経験とともに新しい人格をつくり成長することになります。大脳皮質が崩壊した植物人間の回復はこれに近いものです。
 このときの新しい人格は、その前の人間と同じ自己を継続しているといえるのでしょうか。自己の継続感は記憶があることにより成立します。新しい人格は以前の記憶を継続していません。まわりの人間にとっては同一の人間であるとしても、本人にはその記憶がないから、以前の話を聞かされても自分のこととは思えないでしょう。
 この場合は第二の誕生といえるでしょう。別の人間が誕生したというべきですが、それでも同一の自己なのです。
 心の生と死は、台風の発生から消滅にたとえられます。この場合は、台風が低気圧に変わってから、もう一度発達しはじめたようなものです。こうしたとき、台風九号を十号と呼び変えるのかは判断しだいです。
 これで脳死の意味が正しく理解できます。
 脳死を図2で示すと、そのループのすべてが失われていることがわかります。
 脳死は体は暖かく生命としての維持機能だけが生きています。それは生命としては生きているが、知性としては死んでいます。生命は本質的に不死の存在であるので、生命として生きていることは死んでいるのと同じであり意味がありません。知性の死こそがわたしたちの死なのであり、脳死は死なのです。
 もちろん、それと臓器移植にともなう社会的な問題とは別です。臓器の売買などは人間の平等性に反しているのですから。

A.時空間の連続性と記憶の連続性

 私があなたではないことは明確です。しかし、今日の私と明日の私を比べると、記憶は少し違うでしょうし、物質の構成も、空間上の位置も違います。今日の私が明日のあなたへとつながらないのはなぜでしょうか? 明日の朝起きると、私があなたであったりすることはないのでしょうか? 科学が発展すれば、SFのように心が入れ替わったりすることはできないのでしょうか?
 今日の私と10年後の私では、構成する物質はほとんど入れ替わってしまいますし、記憶もかなり違います。どうして、それを同じ私と呼べるのでしょうか?
 さらに記憶で考えてみましょう。
 ある人の記憶をAとBに区分する。記憶Aが失われ記憶Cを獲得する。その後、記憶Bも失われ記憶Dを獲得する。すると、最初の記憶AとBが失われていまい、本人にすら過去の自分がわからなくなる。
 わたしたちはいろいろな事を覚え忘れていきますから、前文の手順の一つ一つは、日常でわたしたちに起こっていることです。
 ちょうどこれは、竜巻を構成する物質がどんどん入れ替わり共通する物質がないのに、竜巻として継続できるのに似ています。
 このように、すべてが違うものになってしまっても同じ私だといえるのはなぜでしょうか?
 このときに考えるべきことは、「今日の私と明日の私の違い」と「今日の私と明日のあなたの違い」を比較することです。
 主観的には、記憶が連続していることにより、昨日の私が今の私へと連続していると感じますし、それにより、今日の私が明日の私へとつながるだろうと感じるわけです。
 客観的に見た場合、すなわち他人を見た場合、空間上で連続していることが挙げられます。もしずっと一緒にいたなら、それが同一人物であると感じるわけです。
 この二つの条件は決して対等ではありません。客観的自己継続──時空間的連続性が、主観的自己継続──記憶連続性に優先されます。
 人間の物質構成をすべて読み取って新たに人間をコピーする機械を考えてみましょう。本人はもちろんそのまま本人が自己を継続し、新しい人が新しい自己として生まれるわけです。コピーされた人間は記憶は連続していますが、時空間的は連続していないので別人とであり、記憶も時空間も連続しているコピー元こそ同一人物であると認定されるわけです。
 SFでは再構成転送機というものが登場します。人間が転送機に入るとその物質構成が分解分析され、受け取り側の転送機でその物質構成が再現されるという機械のことです。しかし、これは実はそっくりの別人がつくり出されたに過ぎないのです。
 先に挙げた人間コピー機で、コピーした後でコピー元を殺すとまさしく本人が死んでしまいます。このタイミングをずらしていき、コピーと同時に殺すことにしたものがSFの転送機なのです。転送機に乗ると死んでしまうということがわかります。とはいえ、客観的に別人であることを確認する方法は現場に居合わせる以外ありませんけども。
 この場合、コピーにより生まれた人間にとって、過去にいたコピー元の人間は同一人物です。しかし、過去のコピー元から見れば、コピーにより生まれた人間は他人ということになります。すなわち、未来⇒過去では同一人物であり、過去⇒未来では他人、すなわち、心の同一性は時間軸に非対称なのです。
 では、分解された物質を光速度で輸送し、その物質を受け取って再構成する転送機ではどうでしょうか?
 これなら、物理的因果関係が維持されていますので、自己の継続が可能と考えられます。日常で生活する人間においても、精神システムを構成する物質の位置関係が完璧に変化しないわけではありません。それが極端に変動したものがこの型の転送機と考えられます。ただし、素粒子まで分解する転送機では、同一の自己としては継続できないと考えられます。素粒子には自己同一性がないので、そこまでバラバラにすると継続という意味がなくなるのです。
 私とはまさに因果関係の連鎖そのものということができるでしょう。