2010-01-05
出崎演出、『ウテナ』幾原演出、新房演出について
id:mattuneさん、『ウテナ』とシャフト・新房演出の関係について、コメントとトラバありがとうございます。
特にコメントは、当ブログを開設してから記念すべき初となります(笑)。
返信は長くなりそうですので、単独記事とさせていただきます。
akita_kiaの日記 - 2009年ワースト・アニメ へのmattuneさんのコメント
少女革命ウテナで、シャフトが下請けローテに入っていることも見逃せないと思います。特に武内宣之さんがコンテを担当する場合は特に。
基本的には「出崎統」を源流にしており、
出崎統まで遡らずにウテナの劣化コピーというのは早計かな、と。
「過去作品の記憶を相当な密度でガジェット化している」ということだと思います。(http://plaza.bunka.go.jp/festival/2007/animation/000832/)
「その“技術”は懐古ではなく、現役であり、未来だと製作者たちは言っている」
まっつねのアニメとか作画とか - はてなキーワードの「少女革命ウテナ」で発見
唯一出崎統の影響下にあって出崎統を超えたかもしれない作品である。
―――ウテナ至上主義者まっつね
akita_kiaさんという人のブログの
(http://d.hatena.ne.jp/akita_kia/20091231)
ウテナについては向こうのコメントで書かせてもらいました。
上記の通り、ウテナ至上主義者として、
というのが俺の主張です。
いや、このakita_kiaさんという方が
新房シャフトとウテナが「出崎統」という上流で繋がっているというのを
知っているのかいないのか、同じウテナ教徒として
不安になったというのもある。
まあ新房については、エロアニメで暴れてた、って部分に言及しないまでも
「コゼットの肖像」
には言及してもいいんじゃないかなぁ、この記事。
新房の「トリッキー」と「スタイリッシュ」の境目は
コゼットなんだし。
いや、それくらい売れなかったわけですけどねw
おっかしいなぁw
まず早速ですが、『少女革命ウテナ』でシャフトが下請けをしていようといていまいと、監督をする上で新房氏が『ウテナ』の演出スタイルをパクることとは関係ないと思います。
下請けしても独自の演出をする人は大勢いますし、スタジオでも同様です。
mattuneさんは、『少女革命ウテナ』の演出の源流には出崎統作品があると書きます。
『少女革命ウテナ』(1997年、監督:幾原邦彦)以前の出崎統監督作品だと、較べるべきは同じ少女マンガの世界をアニメにした『おにいさまへ…』(1991〜1992年)ということになるでしょう。
確かに、お嬢様達が通う学園の造形、描写などは『ウテナ』の
「通常の学園のシーン」
と良く似ているでしょう。
しかし、『ウテナ』(テレビアニメ版『少女革命ウテナ』(1997年、監督:幾原邦彦)、劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999年、監督:幾原邦彦))の独自性であるトリッキーな演出に、出崎統作品の影響は強くあるのでしょうか。
『おにいさまへ…』OPの冒頭、顔や体を黒く塗った少女の絵などは『ウテナ』の源流と言えるとは思いますが、本編でも良く使われているとは言えません。
特に『ウテナ』らしい映像が出て来る
「生徒会執行部のシーン」
「影絵少女のシーン」
「決闘シーン」
「世界の果てのシーン」
に、出崎統作品の影響が強いと言えるのでしょうか。
出崎演出の特徴と言われる「止め絵」「繰り返しショット」「陰影の強調」「透過光」「入射光」など(Wikipediaより)は、物語が要請する感情を強調する効果を狙っているとまとめられるでしょう。
しかし、『ウテナ』における幾原演出、前記事で書きました「舞台劇のような平面的な画面構成、赤等の原色を使った人工的な空の背景、人物や建物・木を影の黒一色で表現、物語と直接関係のないカットを象徴的に挿入、尖った雲の描き方」などは、物語が要請する感情を異化する効果を狙っていると言えます。
特に前述の「生徒会執行部のシーン」「決闘シーン」「影絵少女のシーン」「世界の果てのシーン」は、シーン自体が「通常の学園のシーン」を異化していると言え、これらのシーンは、むしろ寺山修司やJ・A・シーザーの影響の方が強いのではないでしょうか。
「通常の学園のシーン」がオブジェクト・レベルで、「生徒会執行部のシーン」「決闘シーン」「影絵少女のシーン」「世界の果てのシーン」は完全にメタ・レベルとまでは言えないまでもオブジェクト・レベルとの中間レベルのシーンと言えます。
まとめると、『少女革命ウテナ』は、
と言えると思います。
『ウテナ』の『ウテナ』らしいところが物語をメタ・レベルからずらすところにあるなら、オブジェクト・レベルに相当する出崎統的学園描写は『ウテナ』らしいところとは必ずしも言えないのではないかと思います。
同様にオブジェクト・レベルを担当する元ネタとして、幾原監督自身も参加した『美少女戦士セーラームーン』シリーズがあります。
つまり、『ウテナ』は幾原監督による『セーラームーン』論でもあります。
『ビューティフル・ドリーマー』が押井守監督による『うる星やつら』論でもあるように。
そういう訳でありまして、新房監督の『まりあ†ほりっく』『夏のあらし!』『化物語』『夏のあらし! 〜春夏冬中〜』に表れている「舞台劇のような平面的な画面構成、赤等の原色を使った人工的な空の背景、人物や建物・木を影の黒一色で表現、物語と直接関係のないカットを象徴的に挿入」や「尖った形の雲、会話中に関係ないことをやるところ」などの演出は、出崎作品よりも『ウテナ』の影響ではないかと思うのであります。
そして、これらの作品に良く見られる正面や真横のカメラから取った構図は、『おにいさまへ…』ではあまりありません。
当然のことながら、私は全てのアニメ作品・映像作品を見ている訳ではありませんので、他にも影響が強い作品を指摘していただけましたら幸いであります(他にも市川崑監督や実相寺昭雄監督の実写作品の影響もあるでしょう)。
『コゼットの肖像』(2004年、監督:新房昭之、制作:童夢)をmattuneさんから教えていただき拝見しました。
繰り返される「目」のアップ、空中に浮いた巨大な眼球など、「見る」ことのアニメと私は受け取りました。
グラス・窓ガラス・サングラスなど各種glassに反射した/透かしたショットや何らかの枠を手前に置いてなめたショットなどは「画面内画面」であり、「複製された自己・世界」を表していると言えますが、これは押井守監督『劇場版機動警察パトレイバー2』などで描かれたモチーフです。
画面上の人物が引き裂かれたり、複数のグラスに反射するのは「引き裂かれた自己」を表しているのでしょうが、これは庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』などで描かれたモチーフです。
しかし、『ウテナ』的演出については自分はそれ程感じませんでした。
発表年も2004年ですし、それよりも以前で『ウテナ』色が強い『The Soul Taker 〜魂狩〜』(2001年)の方が「『トリッキー』と『スタイリッシュ』の境目」としては適切なのではないでしょうか。
あと、
http://plaza.bunka.go.jp/festival/2007/animation/000832/
のページまで行きましたけど、「過去作品の記憶を相当な密度でガジェット化している」は幾原邦彦氏の言葉なのでしょうか。無記名でしたし、幾原氏は審査委員の一人に過ぎませんが。
ただ「ガジェット」(ストーリー上の小道具、仕掛け。)とは言い得て妙でありますが。
私はパロディ、オマージュ、引用などの手法自体を批判している訳ではありません。
『ウテナ』を見ていない人が、新房作品を見て新鮮に感じるのは分からなくもありません。
ただ元ネタに気付いた人が「あれは『ウテナ』のパロディだよね」と言っていれば、一部での「斬新」などと言う評が一人歩きすることもないのでしょうか。
新房作品の『ウテナ』パロにしても技術と密度は『ウテナ』から向上していますが、発想の幅やセンスは「生徒会執行部のシーン」「決闘シーン」「影絵少女のシーン」「世界の果てのシーン」に較ぶべくもないと言えるでしょう。
演出スタイルをパロディ化すること自体は昔から行われていることで、例えば押井守チーフディレクター時代のテレビ版『うる星やつら』(1981〜1984年、制作:スタジオぴえろ)でもありました。
『あしたのジョー』(1970〜1971年、チーフ・ディレクター:出粼統)『あしたのジョー2』(1980〜1981年、演出(チーフディレクター):出崎統)のパロディもありました。
それらに対して当時のファンから言われた「新しい」と言う評に対して、押井守は「何も新しいことをやっているつもりはない。今のファンは自分が見慣れない面白いことを『新しい』と言っているだけではないか」(大意)と『アニメージュ』で答えています。
まあテレビアニメでは新しかったのではないかと思いますが。
とりあえず、以上です。








他にも新房作品(主に『The Soul Taker 〜魂狩〜』ですが)に影響を与えたものとしてマイク・ミニョーラの『ヘルボーイ』があると思いますよ。
自分が知らないだけで、まだまだアメコミの影響を受けているのかもしれませんが。
それでも、ちゃんと「おにいさまへ」を見ていれば、
メタとオブジェクトの中間表現がなされていることが理解できると思います。
山本寛は撮影出身という立場から、
ウテナとおにいさまへ・家なき子のブック・背景の使い方の類似性に着目していました。
ただ、個人的にはこの問題はもっと根が深く、
出崎版ベルサイユのばら・エースをねらえを越えて
「哀しみのベラドンナ」まで遡るところに、ウテナと出崎の関係の源流がある、
と考えています。
(幾原監督がベラドンナに心酔しているという事実もあります。)
また、ウテナとビューティフルドリーマーを並べるならば、
押井が劇場版エースをねらえのメソッドを応用して、
ビューティフルドリーマーを作ったという事実も見逃せない。
これは押井自身も公言してますし、
小林七郎も「押井さんは出崎手法というものを相当研究している」と発言しています。
あと、新房はまりあほりっく等のインタビューではっきりと
「目指した映像は『俺(の中での)出崎』」
と名言しています。
そして客観的に見ても、
秋田さんが指摘している部分はどれも
新房が俺出崎たらんとした部分ばかりの様に感じます。
新房が「俺は出崎をパクったんだよ」
とカミングアウトしているようなものですw
シャフトの下請けの件ですが、もう一度はっきりと
「たけうちのぶゆき」の名前を出しておきましょう。
彼がシャフトの多くの作品で「ビジュアルディレクター」をしていることが
ウテナと無関係だと考えるのは不自然なように思われます。
>>metaさん
新房の色彩感覚は金田伊功譲りだと思いますよ。
そのことはまたいずれ。
ありがとうございます。マイク・ミニョーラの『ヘルボーイ』ですか。
アメコミは詳しくないのですが、機会があれば見てみたいと思います。
確かに『The Soul Taker 〜魂狩〜』はアメコミっぽい感じがありますね。
長文コメント、ありがとうございます。
>おにいさまへ、はウテナと出崎を繋ぐ本質足り得ませんが、
>それでも、ちゃんと「おにいさまへ」を見ていれば、
>メタとオブジェクトの中間表現がなされていることが理解できると思います。
具体的にどのカットでしょうか。
またどの作品なら繋ぐ本質足り得ますでしょうか。
>山本寛は撮影出身という立場から、
>ウテナとおにいさまへ・家なき子のブック・背景の使い方の類似性に着目していました。
技術的なところならいろいろあるんじゃないですかね。
>ただ、個人的にはこの問題はもっと根が深く、
>出崎版ベルサイユのばら・エースをねらえを越えて
>「哀しみのベラドンナ」まで遡るところに、ウテナと出崎の関係の源流がある、
>と考えています。
>(幾原監督がベラドンナに心酔しているという事実もあります。)
『ベルサイユのばら』『エースをねらえ』は昔見ましたが、良くある出崎アニメの印象で、正直『ウテナ』との関連は分かりませんでした。
『哀しみのベラドンナ』見てみました。
確かに絵画を使った演出で『ウテナ』的なところがあります。
ただ、これ監督は出崎統ではないですよね。監督は山本暎一。wikipediaによると美術の深井国もかなり深く関わっているようですが。
出崎統は一原画マンだった訳で、ここから出崎統から幾原邦彦への影響を論じるのは無理があるのではないでしょうか。
>また、ウテナとビューティフルドリーマーを並べるならば、
>押井が劇場版エースをねらえのメソッドを応用して、
>ビューティフルドリーマーを作ったという事実も見逃せない。
>これは押井自身も公言してますし、
これは具体的にどういうメソッドなのでしょうか。
これも技術的なところならいろいろあるのでしょうとしか。
>新房はまりあほりっく等のインタビューではっきりと
>「目指した映像は『俺(の中での)出崎』」
>と名言しています。
制作者のインタビューを信じすぎるのは危険ではないでしょうか。
自分も書きましたが、あくまで参考資料でしかないと思います。
作品に全て表れていると考えるべきでしょう。
それで、具体的に『まりあ†ほりっく』のどこのカットに出崎演出の影響があるのか示していただいたく思います。
文章なり画像なりで。
>そして客観的に見ても、
>秋田さんが指摘している部分はどれも
>新房が俺出崎たらんとした部分ばかりの様に感じます。
>新房が「俺は出崎をパクったんだよ」
>とカミングアウトしているようなものですw
それは多分mattuneさんが出崎ファンだから、何を見ても出崎の影響に見えるんじゃないですかね(笑)。
いえ、私も否定している訳ではなくて、具体的に例証していただければ、いつでも考えを改めるのに、やぶさかではありませんが。
>シャフトの下請けの件ですが、もう一度はっきりと
>「たけうちのぶゆき」の名前を出しておきましょう。
>彼がシャフトの多くの作品で「ビジュアルディレクター」をしていることが
>ウテナと無関係だと考えるのは不自然なように思われます。
たけうちのぶゆき氏はテレビ版でも劇場版でも作画監督ですよね。
クレジットされている小林七郎(美術監督)、中村千恵子(美術監督補)、長濱博史(コンセプトデザイン)ならいざしらず、たけうちのぶゆき氏が『ウテナ』のデザインにどの程度関わったのかなと。
例え作画スタッフとして関わっていたとして、後に自分でビジュアルディレクターなりコンセプトデザインなりで『ウテナ』っぽいデザインするのはオリジナルな表現とは言えないと思いますが。
もちろん完全なオリジナルな表現はあり得ないし、パロディ等を否定するものではありませんが。
あと、スタッフの繋がりだけで、作品を解釈するのはいかがなものかとも思います。
やはり作家間の影響を論じるにも、第一に根拠とすべきは作品そのものではないかと。
だから、インタビューよりも我々視聴者(観客)の視点こそ重視すべきかと思います。
と言う訳で『まりあ†ほりっく』にしろ、『化物語』にしろ、映像に表れている直接的な影響としては、出崎作品よりも『ウテナ』の方が強いように見えますが。
簡潔にいきます。
・「出崎ファンだから出崎に見える」
同意です。
俺が出崎信者だから何でも出崎に見えるように
akitaさんはウテナ信者だから何でもウテナに見える。
そういうものかもしれません。
俺にも新房がウテナに見えた時期がありましたよ。
・「視聴者がどうみたかが重要」
同意です。
だからこそ20代後半の視聴者が、
新房をウテナのパクりと言わなかった
という事実を受け止めるべきでしょう
ヤマカンや水池屋さんのウテナ・新房に感じた出崎臭は
彼らだけのものではありません。
その世代としては至極一般的な感想なのです。
どう見えるかは全て視聴者の自分の中にしかない。
だからこそ、それを主張し合うのは不毛ではないと思っています。
ただ、今回の新房=ウテナパクり論は
昔の自分を見ているようでちょっとムキになってしまいました。
無礼をお許しください。
これからもご活躍を応援しています。
コメント、ありがとうございます。
自分は、宮崎―庵野の系譜を中心にアニメを見ていて、+高畑・富野・押井・幾原という感じなので、正直、出崎はあまり重視していなかったので、今回は勉強させていただきました。
宮崎が出崎を遠まわしに批判しているように、出崎演出は(時間や空間を恣意的に操作する)マンガ・劇画の延長なのではないかと思います。
アニメの文法の破壊者というよりは、最初からアニメの文法の外部にいた人ではないかと。
アニメをあくまで映画として考えている宮崎には耐え難い感覚なのでしょう。
私が見るところ、新房もマンガ的です。
幾原は、演劇や少女マンガの影響が強いですが、カット割りやカット・インのタイミングを見ると、かなり映画的感性に恵まれているようで、そこが出崎との違いを感じるところです。
まあ、出崎には出崎なりの宮崎的でない映画的感性があるのでしょうが。
テレビアニメの歴史を見ると、マンガ的感性を排除して語れないのは事実でしょうし。
mattuneさんのブログでの、出崎=セカイ系の源流というのはなるほどとも思ったので(時間・空間を恣意的に操作する出崎演出という私の認識にも一致します)、出崎は今後も見て行きたいと思います。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。