大壁画「秋田の行事」誕生 … 平野政吉と藤田嗣治の構想した美術館の壁画に

 昭和11年3月の秋田訪問の際、藤田は歓迎会の席の挨拶で「世界第一の芸術家、大日本帝国藤田嗣治の名において、1923年(大正12年)、バチカン宮殿で、ローマ法王に謁見たまわった。エリゼ宮で、フランス大統領にも勲章をもらい、ベルギー皇帝からも栄誉を授かったのであります」と話し始めたと言う。藤田の語ったことはすべて真実であったが、伝説では、この話に平野政吉がカチンときて、「世界一というなら世界一の絵を描いて証拠を見せろ」と詰め寄り、藤田が「それなら、世界一の大きさの絵を描いて見せましょう」と言ったのが、「秋田の行事」誕生のきっかけであると伝えられているが、晩年、平野政吉は、実際は、藤田の迫力の前に圧倒されたのが真相であると語っている。
 二人の間に心の応酬があったとも伝えられるが、「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の固い友情、強い信頼関係の中から生まれたものと見るべきだろう。
 昭和4年に初めて藤田嗣治の作品に出会って以来、藤田嗣治作品に魅せられ、熱心な収集家となった平野政吉は、藤田の作品を集めた美術館を建設する夢を抱くようになり、昭和11年夏に、美術館建設構想を藤田に打ち明けた。藤田はこの話を受けて、美術館の壁を飾る壁画の制作を表明した。パリ時代と中南米の旅からの帰国後に、藤田は各地で壁画制作に挑んでいたが、秋田の中に日本を見い出し、その集大成として、秋田を題材にした壁画を描くことになったのだった。
 この年の7月以降、藤田は度々秋田を訪れ、平野の案内で秋田市内の竿灯、日吉八幡神社山王祭などを見学し、スケッチをするなどした。また、平野は藤田のために、千秋矢留町に別宅を用意し、藤田の長期滞在に備えた。藤田が秋田に訪れるたびに二人は美術館の構想を深めていき、「秋田を第二の奈良に」「正倉院法隆寺を秋田に拵えるつもりで」「壁画は奈良・東大寺の大仏に匹敵する世界一大きなものに」などと話し合われていった。
 藤田は、壁画制作の前に、「秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもりである」(「夕刊秋田」1936年《昭和11年》11月18日)と語り、壁画制作の決意を表明した。
 そしていよいよ、昭和12年2月21日、平野政吉の米蔵で後に「秋田の行事」と言われる秋田の全貌を描いた壁画が描かれることになった。藤田は一気に15日間、174時間でこの壁画を描き上げた。興が乗った時は三晩位の徹夜も度々あったとのことだ。完成後、藤田は平野に「平野さん、無駄な材料を使わせて申し訳ない」と言って、紫の絵具一個と白の大ビン二個だけを差し出したと言う。平野は最初に藤田から言われた量の絵具を渡しただけだったので、藤田の天才ぶりに畏敬の念を感じたと言う。完成後、藤田は「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまでまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたとのことだ。

 「秋田の行事」は、縦3.65メートル、横20.5メートルの大画面に、昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、竿灯、梵天などの年中行事、祭りが生き生きと躍動的に描かれ、秋田の産業、歴史まで描かれている壁画である。画面には藤田ならでは線と色彩が融合し、生命力、パッションが溢れている。
 「秋田の行事」は、二人で構想した美術館に飾る壁画として描かれたものである。その後30年の時を経て完成した美術館は、日本宮殿を思わせる屋根の形、正倉院を模した高床式の造りなど藤田嗣治、平野政吉の構想を生かしており、「秋田の行事」は藤田の助言通り、床から6尺(約1.8メートル)上げた位置に据え付けられ、両端を少しずつ迫り出して据え付けられている。壁画の臨場感や迫力を出すための藤田の狙いがあったのだ。
 平野政吉美術館とそこに展示されている「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史から生まれたものであり、その証である。この貴重な文化遺産を後世の人々にこのままの形で伝える義務が私たちにある。移設によって、文化的な価値を壊すようなことがあってはならない。



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秋田県立美術館(平野政吉美術館)の移転理由は何か

 2007年(平成19年)11月、財団法人平野政吉美術館(現、公益財団法人平野政吉美術財団)は、平野政吉美術館の移転要請をされたが、主な移転理由とされたものは、平野美術館にある藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を再開発予定地区の目玉にしたい。現美術館が10年以内の耐震補強のための大規模改修が必要となる。県の財政上の理由から今回移転したほうが良いなどであった。

 まず、「秋田の行事」を再開発地区の目玉にという話だが、現美術館と新美術館建設地は、僅か200メートルしか離れていない。しかも、現在地のほうが、秋田市で一番の観光名所、千秋公園の入口にあり、集客面でも優位な立地環境にある。 わざわざ再開発地区の商業施設に隣接した場所に移転しなければならない合理的理由はない。
 また200メートル移動しただけで、にぎわいの目玉になると言う確証は何もない。
 また、現在、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)に展示されている「秋田の行事」は、床から6尺(約1.8メートル)の位置に上げること、両端を少しずつ迫り出して据え付けること(アールを付けること)を藤田嗣治から直接助言を受け、展示しており、美術館自体が「秋田の行事」を展示、鑑賞することを主目的に建設されたものだ。「秋田の行事」を鑑賞するうえで、最高の展示状況にあると言える。この美術館から「秋田の行事」を移設しなければならない合理的理由は見当たらない。また、「秋田の行事」に限らず藤田嗣治の作品を集客目的に考える発想は疑問視される。

 次に10年以内の耐震補強ための大規模改修が必要であるとのことだが、建物の耐震診断さえ結局実施されなかった。また、現在の耐震技術では東京都台東区国立西洋美術館や神奈川県箱根町のポーラ美術館が採用している建物の揺れを軽減させる「免震構造」という技術もあるが、一切検討しなかった。また、2010年2月と2011年2月の県議会において、知事は「現美術館の文化施設など美術館以外の活用も可能だ」と発言している。美術館としては使用できず、他の文化施設なら可能であるという合理的理由がどこにあるのだろうか。

 県の財政上の理由から、10年後の改修費確保が困難になる可能性があるとの説明があったが信じ難い話である。当初、今回移転した場合、県有地との相殺により県の支出はほとんどないと説明していたものが、2010年の議会では9億2千万円の支出に変わったが、計画の中止はおろか見直しや再検討さえされなかった。著名建築家に設計を依頼したために数億円の設計費が掛かり、イベントなど移転関連事業費にも多額の県費が浪費され続けている。移転が財政上有利だという説明は、真の理由ではなかったようだ。 

 また、県議会において、再開発地区への移転が「秋田への観光客誘致の一助に資する」という、藤田と平野の理念に合ったものだと言う県の答弁もあったが、身勝手な論理である。秋田への観光客誘致の一助に資するために、平野政吉や当時の秋田県知事、秋田市長などによって、恒久的な場所として、閑静な千秋公園の入口の現在の場所が選ばれ、現美術館が建てられたのである。
 
 さらに、近年、東京などで開催された藤田嗣治巡回展に比べ、平野美術館の入館者が少ないことを問題視し、移転が必要だという議論もあった。2010年国勢調査の結果によると首都圏(1都3県)の人口は35,623,327人であり、秋田県人口は約32分の1の1,085,878人にしか過ぎない。単純計算で見ても秋田市にある平野美術館の100人の入館者は、首都圏の3280人に相当し、入館者が少ないとは決して言えないはずである。
 没後40年レオナール・フジタ展など、藤田嗣治の全国巡回展が多くの観客を動員したのは、全国紙新聞社、全国ネットのテレビ局が主催し、多くの大企業の協賛、外務省やフランス大使館などの後援を得るなど総力を挙げて企画された展示会であったからである。秋田県単独では規模も限定され、全国の美術ファンを引き付けるものはできないだろう。

 平野政吉美術館の移転の理由とされるものは、すべて合理性に乏しく、特定の考えを持った人達だけが利するような移転計画である。また、美術館は、人々が優れた美術品と向き合い、人々の心を豊かにする場所であることが忘れ去られ、再開発地区のにぎわい創出と結び付けられている。

 この移転計画は、当初より、平野美術館を移転させ、跡地に他の施設(千秋公園内にある某施設)を移転させることを目的とした計画であったことが明らかになっている。このことは、当時の県会議員(前国会議員)のブログにも示されている。さらに、当時の佐竹敬久秋田市長(現県知事)は、2007年(平成19年)9月の秋田市議会において、この施設の改築について、「県立美術館跡地における改築も視野に、別途検討を要する」と発言している。現在では、平野美術館の建物を残すべきだと言う市民、県民の声の高まりによって、方向を変え、平野美術館の建物だけを残し、建物に他の施設を移そうという目論見に変わっているようだ。(県議会において、千秋公園内の某施設、美人会館の名が出されている)
 このような移転計画は道義的に見て問題視されるものだ。


 平野政吉美術館は、藤田嗣治の作品を始めとした美術品の収集に全生涯を懸け、生まれ育った「ふるさと秋田」の地に収集した作品を残そうとした平野政吉の人生の終着駅であり、集大成である。美術館の屋根にある採光のための丸窓藤田嗣治の助言を忠実に守ったためであると平野政吉は複数の新聞、雑誌で証言している。そして、この美術館にはレオナール・フジタ藤田嗣治)が最後に制作したフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じるフジタの尊い思いが込められている。

 平野政吉美術館はこれまで通り、平野政吉が生涯を懸け収集した「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品を保存、展示、公開する美術館として存在し続けることが、本来の姿であり、自然なことである。
 そのことによって、藤田嗣治作品と一体になり、秋田の世界に誇れる文化遺産としての価値をさらに高めるに違いない。




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また安藤忠雄氏講演会が秋田で開催 … 新美術館建設は誰のためのものか?

  著名建築家の安藤忠雄氏は、あるインタビューの中で、国の補助金交付金が日本の地方都市を危機的状況にしている原因の一つだと答えていたことがあった。一方で、安藤氏自身は、巨額の公的な補助金交付金が投入されている再開発事業に多数参画していることが知られている。国内では、東京都調布市茨城県水戸市の再開発事業、東京都「表参道ヒルズ」、山梨県JR竜王駅と駅前広場の設計を担当するなどし、大阪市のJR大阪駅北側の再開発事業にも今後関わる予定だと言うことだ。海外ではオイルマネーで資金が潤沢な中東のバーレーン、アラブ首長国連邦や高度経済成長の中にある中国・上海などの大規模プロジェクトに参画している。発言と現実の間に食い違いが見られ、巨大利権がある大規模事業の存在するところに頻繁に登場する建築家でもあるようだ。
 この安藤忠雄氏の講演会が、7月22日に、県の主催でまたもや秋田市で行われると言う。安藤氏の講演会は、昨年7月8日にもあったばかりで、県の主催ではなかったが2009年5月10日にも秋田市であった。新秋田県立美術館の設計者であったと言う理由からだと思うが、これほど頻繁に行われると、この新県立美術館の新築は、一体何のため、誰のためのものであったのか、改めて考えさせられる。美術館の主役は建築家や建物ではないはずだ。また、安藤忠雄氏は講演会の出演が非常に多い人でもある。無論、依頼を受けたからであろうが、今年の4月〜6月だけで、予定も含め、17件の講演を行っている。調べてみると、昨年一年間だけで74件の講演会に出演している。講演料は1件あたり100万円〜150万円が目安のようなので、かなりの高額だ。年間では7400万円〜1億1100万円になると言うところか。講演会と再開発事業や美術館建設がセットになって開催されるケースも多い。山梨県北社市、清春芸術村の「光の美術館」建設でも昨年の完成記念講演に続き、今年4月29日に開館1周年記念講演会まで行われている。特定の建築家を偏重する風潮は改めるべきではないか。剥き出しのコンクリートが特徴の建物に好感を持てない人も多い。新しい街づくりの主役は、建築家でもなければ建物でもないなずだ。新秋田県立美術館の建設は、「安藤忠雄氏なら進めたい」と前知事が発言し、県民の見直し要求を聞かず、現知事が「安藤氏による計画を白紙にすれば、県の信頼が失われる可能性がある」と主張し進められたものだ。秋田市のこの再開発、新美術館建設は誰のためのものであったのか。

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安藤忠雄氏設計の美術館が秋田に必要か?

 秋田市中通の再開発事業で、安藤忠雄氏設計の美術館が建設中だとのことだ。著名な安藤忠雄氏設計の美術館と藤田嗣治作品で街のにぎわいをという目論見のようだが、当初より、にぎわい実現が疑問視され、藤田嗣治作品を客寄せ目的に利用する動機が非難されている。秋田には、大壁画「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品のために建設された平野政吉美術館があるではないか。何故という疑問が消えない。この計画は、地元紙によると、県庁若手職員による、藤田嗣治作品の移設展示案からスタートしているらしいが、真相は不明だ。ただ誰かが、この案を思いつき、設計は始めから安藤忠雄氏と決められていたようだ。形式的には、県の設置した「新県立美術館基本計画策定委員会」が、設計は一流建築家がよいと提言し、再開発組合が安藤忠雄氏を推薦し、知事が交渉するという筋書きで決められたが、新美術館のコンセプトさえ決まらぬうちに、設計は安藤忠雄氏と決められている。また今回秋田で予定されている建物は、2階部分屋上にプールのような水槽を造るとのこと。予期せぬ事態が発生した場合、作品に被害が出る恐れはないか。商業施設に極端に隣接する姿から、独立した美術館としての存在感がない。この建物に藤田嗣治作品を移設するのは止めるべきである。何か他の県民ニーズのある施設に目的を変更すべきである。そのほうが平野美術館との相乗効果も期待でき、にぎわい創出も期待できるのではないか。





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藤田嗣治「秋田の行事」の迫力を伝える平野政吉美術館(現県立美術館)

 先日、県教育委員会が、現在の県立美術館の建物の活用方法を募集したと言う新聞記事があった。その結果、どんな意見が寄せられたかは別にして、現県立美術館が老朽化し、耐震補強工事が必要であることが、移転の理由とされていたが、実際は、使用可能であることを認めているわけであり、20億円を掛けた新美術館の建設が、一体何のためであったのか、疑問を感じざるを得ない。 

 新県立美術館の建物が建設中である現在、現美術館の建物と新美術館の建物に相応しいのはどういった利用方法、展示品であるのか、先人から受け継いだ貴い文化の継承と新しい再開発地区の活性化に相応しい展示は何かについて、一体的に新たに考え直すべきである。新県立美術館が本格的にオープンするのは、平成25年秋だというので、時間的な余裕もある。先人が残してくれた文化遺産と新しく創造する文化を組み合わせ、秋田の観光と文化の発展に貢献できる新しい地区を創る機会とし、再検討すべきである。

 現県立美術館(平野政吉美術館)の藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を展示している広さ500平方メートル、天井高18メートルもの大展示室は、上方からの柔らかな自然光とともに、「秋田の行事」の壁画としての魅力、迫力を伝える最高、最善の鑑賞空間といえる。「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品の展示以外の利用は考えられない。

 また、万一、美術館の屋根の丸窓からの自然光に含まれる紫外線の影響を懸念する場合でも、近年の技術革新により、紫外線カットガラス、紫外線吸収のコーティング技術もあり、対応が可能となっている。  

 新県立美術館については、金沢21世紀美術館十和田市現代美術館の成功例に学び、入館者が観るだけでなく体感できる「現代アート」を中心とした展示内容が、新しい街の活性化に最も貢献できるはずだ。

 現県立美術館〜先人から受け継いだ文化遺産〜と新県立美術館〜新たな文化の創造〜が共存した、新しい観光・文化地区を秋田市に創る機会とすべきである。





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藤田嗣治「秋田の行事」の感動を伝える美術館はどこですか。

 平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、「秋田の行事」を鑑賞することを主目的に建てられた美術館です。

 展示している、広さ500平方メートルの大展示室は、双曲線を描いた4階ほどの高さの天井があり、丸窓から自然光が降り注ぎ、上方への広がりを一層感じさせます。

 観る者をゆったりとした、心豊かな気持ちにさせてくれる特別な空間です。

 藤田のアドバイスで壁画は、1.8メートル程の高さに据えられ、左右が少しずつ迫り出しています。自然な視線、視野から壁画の迫力を感じることができるよう工夫されているのです。

 3階は大展示室を取り囲むような回廊になっており、正面、右側面、左側面からも「秋田の行事」を堪能できます。

 藤田が僅か15日間で書き上げたとは思えない、藤田の技、色彩、情熱、躍動が様々な角度から我々に迫ってきます。

 平野政吉美術館は、藤田嗣治の渾身の大壁画「秋田の行事」のための最高の美術鑑賞空間です。

 この壁画は多くの人を感動させましたが、その「感動」がほかの美術館で味わえるでしょうか。

 藤田嗣治が平野政吉の為に描いた巨大な作品を、平野政吉が建てた美術館で観る喜びを考えるべきです。

 「秋田の行事」の感動を揺り動かすこれ以上の美術鑑賞スペースはない。

 私はそう考えます。



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拝啓 秋田県教育委員会 様 美術館の目的は人の心を豊かにすることではありませんか。

拝啓 秋田県教育委員会 様  


 美術館の目的はにぎわい創出ですか。人の心を豊かにすることではありませんか。

 県立美術館を移転すれば、にぎわいが生み出せますか。人の心を豊かにすることになりますか。

 言い換えれば、人の心を豊かにする美術館作りに心がければ、人は集まり、にぎわいます。

 平野政吉が命を懸けて建てた美術館をこれからも使用し続けることは、人の心を豊かにします。秋田を愛する心を育むことにも繋がります。

 秋田県立美術館(平野政吉美術館)が、入館者が少ないと言う人がいますが、平野政吉亡き後、予算と人に愛される美術館にするための情熱が足りなかったのかも知れません。

 十分な予算と情熱で、人の心を豊かにし、人に愛される美術館作りをすれば、平野政吉美術館はにぎわいます。

 どうか、貴重な秋田の文化遺産、平野政吉美術館(秋田県立美術館)を壊したり、中身を変えるようなことはしないよう、お願い申し上げます。                                

敬具
秋田県
                                
                                                                                          <関連記事>
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