日本人的神について

神なんかいるわけありませんよね。

でも、「どうしていないと思うの?」と聞くと、「いるわけないじゃないですか」と答える人は、おばかさんでしょう。

「どうしたらいると信じられるますか。その条件は何?」と聞いてみて、「そんなものねーよ」と答える人は、思考停止状態です。つまり、宗教を信じている状態と実は同じです。(略)

たいていの人が神を信じないのは、その「神」にイメージを持っているからです。どういうイメージか、教えましょう。

それはアラジンの魔法のランプに出てくる魔神(ジン)みたいなものです。ご主人様である、あなたの言うことをかなえてくれる万能の召使いです。(略)


さすがに万能の召使いなんているわけないですから、次に、日本人はどう考えるかというと、そのイメージと取引をするのです。このくらい願って、このくらい献身したら、このくらい神様=万能の召使いが取引として、願いをかなえてくれるというわけです。

これを日本語で「努力」するといいます。(略)

現実に生きていて、そういう取引がうまくいくことはあまりないけど、努力して報われないなのもなんだなという、ぼちぼちでんなあみたいな部分で、適当に幸運があるといいなあくらいには、日本人は神様を信じているというわけです。

別の言い方すると、ご利益やメリットがあれば宗教を認めてもいいんじゃないみたいに考える人がいるわけですっていうか、そういうふうについ宗教を考えちゃうというのが日本人の宗教なわけです。(略)

それと、取引とは別に神様を信じてしまうテンプレには、奇跡の経験というのがあります。

だから、奇跡の経験みたいな経験するかどうか。偶然とか、無意識にためてる自己欺瞞のプレッシャーみたいなもので、奇跡の経験とかしてしまったとき、どうするかというのは、そんとき、経験を否定するとかどういうことか、自分を疑うとかがどういうことかと、きちんと考えるしかないんですよ。

finalventの日記

「奇跡」と言うと、良いことのようなイメージがあって、何万人かに一人の病気になった、交通事故にあった系統の悪いことが起こった時に、神様の存在で安らぎを得ようとするのは、まだ分かるんだけど。

ちなみに[http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/06/post-0761.html:title=[書評]神様は、いじわる(極東ブログ)]で

本当の物語は、ヨブは苦しみ、神を呪って終わった。本当はなんの救いもなかった。ただ、それでもヨブは神への信仰を失わなかった。なぜか?
 
筋の通った答えはない。信仰はその結論であって答えではない。答えは、そうした境遇を生きた人の人生のなかにしかない。漫画家さかもと未明さんは、その答えを出した。いや、他人から見えるものは、答えというものではないだろう。それでも、現代日本のなかで、彼女はヨブの物語を顕現させた。

と言うのも考えていて、苦しみを与える神を肯定できるのか、私は苦しいときこそ神が必要だと思っているが、薬の効用でしかない。

私がなぜこの人生を歩むことになったのか。

辛いことがあって、他の人は幸せそうで、自分の人生に納得するには神様を持ってくるしかない。

(←神とは納得装置である

が、それだと浅薄なんだよな。

ちなみに「現代のヨブ記」で「ともにある神」とあり、それっていいなと思ったのだが、神学的にみてどうなのであろう。

finalventさんが傾倒したそうなのでそれなりにしっかりしているかもしれないが(改めて調べると、極東ブログに書評ないのね)

神とのコミュニケーションとして、最近の極東ブログの祈りの記事についてもちょっくら注目している。

なんとなくオチはなく「どうしたら神はいると信じられるのか」について「苦しくても生きていれば救い」というツイートととともに、ぼんやり考えている。

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)