知る時間もないこと

3つぐらい前の記事で、いきなり、反知性主義と書いてしまって、文脈分からないだろうなと補足。

知る、知らない、相手の関わり方で引っかかることがあるんだけど、考えながら書くし、例によって陳腐です。

 こうした本質的な矛盾の背景には「反知性主義」があると、佐藤優氏は言う。反知性主義的社会では各人が「思いたいように思い込む」ため、議論が成り立たず、民主主義が機能しない。
http://blogos.com/article/102444/

香山のリカちゃんがツイッター上の有名人に絡まれたので

 「戦争責任は世代を超えて担うべきか」との問題意識そのものは重要なものだ。しかし、これに関してはマイケル・サンデルを持ち出すまでもなく、すでに膨大な議論の集積がある。それらをいっさい踏まえずに「知ったことじゃねーよ」と断言する人に、これまでの議論をひとつひとつ紹介して解説しながら、さらに持論を伝える、という余力は私にはとてもなかったので、私は1冊だけ本を紹介することにした。白井聡氏の『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版、2013)だ。
http://webronza.asahi.com/business/articles/2015010500004.html

当然突っ張られたと続くのだと思う(有料です)が、全てのことを知ろうとするのには時間がないのである。

いちいちマイナスイオンの発生原理まで調べるわけにもいかぬが、適当に真に受けて散財するわけにもいかぬ。

何を信じるか、という問題に行きつく

しかし、finalventさんは3.11の時に原発炉の対応策について米国が真っ当だったと評価できるし、

ペトロニウスさんは昭和な時代なことが知りたくて、本を読みまくりである。

finalventがのさばっていないのは、このブクマ数を見てごらん。

 これ⇒はてなブックマーク - 極東ブログ: [書評]その夜の終りに三枝和子

 そして元のこのエントリ⇒ [http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/03/post_2c7c.html:title=極東ブログ: [書評]その夜の終りに三枝和子
]
 読まれていないよ。

 これが読まれたら、のさばっていると言われてもいいな。

 このエントリはあえて閾を高くして書いたし、防御も張って書いたが、物を読むことができる人間なら読めるように書いた。私の万感の思いも込めておいた……最後の思い……finalvent

 しかし、ブロゴスフィアでは読まれない。

 そんなものだ。(略)

私の糞エントリなんか消えてしまってもいいと思えるくらいは謙虚に生きている。それでも、これらの本に封印された歴史の思いを、大切に思う私がここにいたのだとちょっと声を出しておきたい。

 そして、謙虚に願い、その該当の書物を読む人が、たった一人でもいい、未来の日本に現れることを信じている。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070407/1175915559

ペトロニウスさんの昭和物の記事もブクマ伸びないんだよな。

応援するために私もつけてやろうかと思わなくもなかったんだが。

ちなみにfinalventさんの紹介本はアマゾン見て高さに諦めた。日本の古本屋だといいお値段だったので、買ったろーか、まだ買っていない、のであるが。ごめん。

それはともかく、知ることで受け継がれるものはあるんだろう。

ある集団と集団で話が合うとすれば前提が同じだということだ。

私は前提を同じくする人がいれば、結語が反対であっても同じ意見の人だと判断してしまうのだが、前提(知識)を同じくするってほとんど絶対にありえないことである。 

パンピーはただ吼えれいればいいのか、知識を共有する一定のレベルの人がいいのか、と言った知識人の問題は古い。

知識人にも追いかけられなくなった現在の知の広さと全て知っていなければいけない人がいるのか。

知識は誰に聞いたら分かる(どの本を読んだら分かる)と言ったマッピングのことだと内田樹は書いていた気がするが、

全体の把握としたとき、やっぱり学会の最新情報はだれが握っているかを知ることなのだろうか。

そして、パンピーは専門家に任せて諾々としていればいいということにはならず、出口治明さんは尊敬するが、パンピーなりに考えることはやっぱり専門家にとっては変なことである。

・知を受け継ぐことは集団の一員であることである
・中途半端にしか知らないパンピーは専門家の話を拝聴するしかないのか

論文を書いたときに、結論はジャッジしないことに感銘を覚えた。

思想で結論を歪めたらいけないというのなら、論理というか、ルールが踏まえられていたらいい。

日本人が同じ意見どうしの人しか経験がない、空気読めってなるわけですが、話し合いのテーブルに着くというのはどういうことか。

ディベートは日本人の役に立たない、ときっぱり言った人もいて、最近あまり聞かない。

ただ、ディベートのネタも相手が考えそうな論理のことをよく知っておく必要があるので、やっぱり知識は必要なのかな。

そこで、共通見解をインストールさせておくか、

「思いたいように思いこむ」ことから、思い込みのパターンを知って打破する論理構造をあらかじめ学校でインストールさせておくしかないのか、負けを認めないことはカッコ悪いと教え込んでおくか。

共通見解というかルールを教え込むことですかな

私は真理を求めるわけだが、知ることに対する執着心はどこで養われたのか、いや、執着してないけど、とオチなし、というかリカちゃんと結語が同じだったらどうしよー(ないない