家族と正義

対幻想とは家族幻想であり、これに対応するのは国家幻想としての共同幻想だ。そして、もう一領域、個人幻想がある。吉本隆明の公理と言っていいだろう、悪い意味でも。(略)

共同性が正義なり倫理として人を支配しようとするとき、吉本は、それを原理的に無化して見せた。もちろん、そういう総括や理解は違うよ、という批判もあるだろう。というのは、吉本は「国家」の否定原理として対幻想を挙げたのであって「正義」や「理想」ではないのだと。しかし、私は、正義・倫理・理想とは、吉本のいう国家幻想に含めてよいのだと考えている。

 そして、吉本が国家の幻想領域を無化したとき、ある意味、市民社会の正義の可能性というものの芽も断たれた。社会学的に見ればニヒリズムにも転化したと評価してもいいだろう。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/03/post_55.html

半径3mと国家の対比は、吉本隆明が指摘していたのか、の「共同幻想論」は確か持っていたが、1.5行しか読まなかったはず、の秋津君です。

ちょっと難しい本をfinalventさんにこれどうっつったら、秋津君には読まなくてもいいんじゃね、と言われたような、確かに買ったけど読んでない、別に読む気がないわけでもないけど、難しい本を読む静謐な心の状態に持っていくのが難しー、いや、いいけど。再来年当たり1年、、、、鬼が笑う。

秋津君で言えば、自分で納得できれば、国家のために死んでもいいんじゃねと言った、ちょっと半径3mを実感しにくい心理なのである。

公平であるが、愛が分からないと書いた(しかし前回の記事でちょっと筆を滑らせてもいるが、うーん)特定の誰かを贔屓する気持ちは薄い。

で、私は書き言葉から心の感情というか、感触というのか実感する。

極東ブログの過去ログで、数学を勉強するのと、教会で説教を受けるのと、脳の同じ部分が反応していると書かれていたような、それでいうと、半径3mの感情の実感は脳のどこが反応しているのか、気になった。

私は感情のお池があまり反応しないというか、本を読んだ方が情動を感じる気がする。

なお、私はテレビが嫌いである。挿絵があればいいと思うことはあるが、テレビは情報量が少ない。

大学の実験のときに思い知らされたが、言葉と言葉の落差は感情で処理して、妄想系で連想しやすいが、ある「状況」から言葉を抽出するのは不得意である(本質を直感しにくい)。

また、人の話を人の話だけで構成する。

どうも兄弟とか、自分の経験から人の話をジャッジして、自分の経験と照らし合わせて人の言うことを理解しているようなのだが、(ちょっと誤魔化し書き)、私は人の言うことと自分の経験を照合しあうのは苦手である。

なんとなく、人の話のつじつまの合わないところは、無意識に自分の経験で補足しているようなのだがで、現場で経験してこれってどうよ、と思うことがしばしばってこれ、普通だとも思うんだが、相当ひどくないと突込みが発動しない。

なんというか、人の話が一見つじつまが合うとそれなりに納得するというか、怪しい宗教とか疑似科学と相性良すぎだと思うのである。

何で引っかかっていないかと言えば、金をとるのと引き換えにする共同体を求める気持ちも薄いというか、別に正しいことに引かれるが、正しくなくてもいいんじゃねというか、ぼかー理屈好きだが、理屈を人に求めないというか、ちょびっと、ふーん、佐藤優って日本キリスト教会で洗礼受けたの?(確信があるわけでもないが誤読?)と興味がないわけでもないのだが。


と、今日は勉強したくもなかったので、半径3mと正義が対比できるのであれば、吉本がどうやって論理を組み立てたか、読んでみたいと一瞬思ったが、たぶん読まね―の、私は頭でっかちで半径3m、実感できるのだろうかとも思ったまとめでした。