他者

山本七平が、日本語の「他人」という言葉はちょっと他ではない語のように書いていた。

いや、ベンダさんの著作だったか。

自分と全く関係のない、どうなっても知らない人、風味だったかな?

うーん、ナショナリズムでくくられてしまうのか、僕はシリアの人のことを考えることができない風味である。

世界平和だと良いんだけどと素朴に思うが、何をすれば良いのか見当がつかず、何もしない。

で、死者を悼む、こと。https://note.mu/finalvent/n/n89c25e36c13d?creator_urlname=finalvent

それはそれとして、私たちと直接関係のない他者が、しかも遠隔地で亡くなったとき、それはどのように悼むことができるのだろうか。

僕は他人と付き合うってことは、他人を傷つけるってことだし、傷つけられることだし、または、与えるってことだし、与えられる、与え合う、相応性のあることだと思う。

そういう意味で、絶対的に信頼するってことが、良くわからないというか、もうちょい詰めて書きたいとは思っているが、

私たちは不遇が天災の、まるで無意味に見えるような死者に対して、直接的な関係がないなかでも、本質的にその名前を呼びかけようとして存在することで、悼みを遂げることができる。


というか、私たちが未知の関係性のなかであたかも既知の親しみに取り込まれているとき、そこに死者の悼みが横たわっている。
(前述)

呼応しあわない、テレビの中の死者、こちらが絶対に傷つかない他者なのか。

傷つく、傷つかない選択肢が一方的に自分にしか与えられない他者に対し、名前(唯一性か)を呼びかける。

確かに、関係ない他者の名前なんてどうでもいいか。

ある役割、置かれた環境で眼差しが変わるのと対称ではあるかな?

名前は交換可能性がない(という私は「君の名は。」を見ていない)。

ある人の役割、役職、ある人の名前、特有の苦悩、とまあ、次のネタということで。 

悼む、僕が傷つくことであり、悼まれる者は傷つくことができない一方的な思いである。

ここで一方的な思いを肯定するのであれば、他人に届かない思いを持つことは、他人に影響を与えず、見守る(関心を持つ)ことになるのか、関心ということは何なのか。

橋本治の「89’」は関係をもつということを書いていたが、「関係」は深めることができない僕のテーマだ。


大学院へ行きたい病が再発している。

経済か、完全に趣味に走って哲学か。

(今すぐにというわけでもないが、入試勉強にどちらの本を重点的に読むか)

ツイッター界隈で産業連関の話題が、トランプさん当選のときにでていた。

地方って、車買っても石鹸買っても、他県のもので、1で回ってないんスよね。かねがそとにでていって1以下。

東京から交付金突っ込んでも、東京に帰るだけっちゃーだけで、それがなくなれば、暮らしが立ち行かないのか、東京に移れば良いのか、付加価値をつけるってどんなことか、

国民経済計算体系を勉強したら良いのかどうか、うーんてなことというか、

金の周りを考えるなら、マジ貿易を県内県外で捉えるか、国内でそれを考えるのか、国内で差をつけるのはどういうことか、好きなところで暮らす権利なのか福祉なのか、アイデンティティとは何か。