愛の経験

豊田議員が、車ん中で突然「ママごめん、まゆ(豊田さんのこと)が悪かった」と叫んだとか、虐待サバイバーを考える。

というか、橋本治は「子供のころ青空に見とれた経験があれば、その後の(つらい)人生も生きていける」だったっけな、人から愛を受け取る経験さえ稀なものとしているというか、

finalventさんが「(子供のころ?)植物になりたかった」と書かれたことと言うか、

人からの愛の経験を受けたことがないとして、愛の経験を他に与えることができるのか?

「鍋で机を囲むというのはスーパーマンと同じでフィクションだと思っていた」と言う子がいたとして、

その経験をしてみるという「ごっこ」をするのか?

理想の結婚を頭に置きすぎて、結婚できない男女とか思う。

と、逆に喜ばせたい人がいるので、自分の不利益は見ないふりをして、尽くす。

それができないと家庭生活は維持できないが、一方で共依存と言うかヒモも呼びそうな感じで、相手も尽くしてくれるという信頼を得ないことには、自分も尽くしたくないから、結婚できないし、

相手も自分が尽くしてくれるという確信がなければ、自分に尽くしてくれないの鶏と卵。

で、最初はGIVEの5乗だけど、見切る点、ってのもないとだめなのかな?

どれだけで見切るか、自分の経験で丁度良い距離を探さないとで、「失敗が許されない」で経験していなければ、本番で失敗もしそうな、人生において本番とは何ぞや。

と言うか、自尊心のない子って、すぐ分かるかんなー

他から自尊心を与えられないとして、どこから認められた経験を調達するかと言えば、青空であるのか?自分の小ささを実感してタメを得るのか?


「植物になりたい」絶望の深さって、たぶん、僕は想像できるけど、実感を持ってわからないだろうと思う。

母親の愛情がなかったら、僕はどういう性格になっていたのか考えるだに怖い。

結構、繊細なところがあるような図太いような、それこそ他人より自分の利益、になっていそうな気はする。

経験のないフィクションをどう生きるのか。

フィクションを正として、自分の経験をノイズにすると、経験からのフィードバックを得ない。

言い方で人を動かせるか決まるときに、失敗したら、自分の言い方の失敗を直すと気がつけるか?

その人がそもそも動かせない人であったと考えそうな?

私は「起きていることは正しい教」に帰依している。

世界平和が無理だとしても、ま、やれることはやっておきましょう。

もたらされる利益と、自分の持ち出しとを秤にかける冷静さと、しかし実際と自分の考えと出来事の起こる確率が違う、もっと良い方法があると知るには、試行錯誤の経験を続けることか。

自分のやり方を否定して、それでも自尊心が損なわれないって、どういうことだろう?