シカゴの病院にモバイルソリューションを導入してきた話

前回のエントリーでは、2014年の夏にブラジルのポルト・アレグリ、リオ・デ・ジャネイロの病院でモバイルソリューションを導入したことを書きました。
2015年はいよいよアメリカに進出し、シカゴの病院に導入されました。

今回の導入は、シカゴのRush University Medical Center。脳外科は全米の病院のTop15に入る、素晴らしい病院です。病院のエントランスも綺麗&オシャレなカフェ付きで、豪華なホテルみたいです。


今回は、Rush Universityの先生の要望で、救急車が病院に向かう際に救急車の位置情報をトラッキングして、病院内から追跡できる機能を開発しました。
患者さんの状態を病院に到着する前にチャットで共有し、救急車が今どこにいて、あとどれくらいで病院に到着するかが推測できるので、スタッフや検査・手術の準備が事前に出来て重宝するようです。

実際の追跡画面はこんなイメージです。
※シカゴのO'Hare空港から、Rush Universityに車で向かった時のデモデータ。


アメリカでは救急車は民間企業が運営しているケースもあり、今回はこういう新しい技術も救急車にすんなり導入できました。

医療ICT技術で夢やアイデアは色々広がりますが、何を作れば医療の現場に役に立つかは、やっぱり日々最前線で医療の現場にいるドクターに聞いてみないと、なかなか分からないものですね。

そしてRush Universityの先生にこの機能が気に入られて、WLNC2015(World Live Neurovascular Conference)という、世界中の脳外科のドクターが集まってリアルタイムで脳の治療技術をお披露目する学会で、救急車追跡機能を先進的ケースとして紹介してくれました!(一枚目の写真に写っている左側のスライドに、この機能がデカデカと紹介されています。)



いやー日本での開発&アメリカでの検証・フィードバックを得るために、一ヶ月でシカゴ-東京を三往復した甲斐がありました。笑
日本で開発した技術が、アメリカの医療の現場で実際に使われるのは嬉しい限りですね。

最後に、シカゴの日本食レストランで、いつもお世話になっている脳外科の先生、会社の代表と北米・南米・欧州のセールスマネージャーたちとのグローバルミーティング。


日本→ブラジル→アメリカと来たので、次はどこになるのか、楽しみです!

ブラジルの病院にモバイルソリューションを導入してきた話〜その2 リオ・デ・ジャネイロ編

前回のエントリーでは、ポルト・アレグリの病院にモバイルソリューションを導入してきた話を書きましたが、その続きです。

ポルト・アレグリの病院に導入が終わり、意気揚々とサンパウロに戻り、次はリオ・デ・ジャネイロのHospital Miguel Coutoという病院に導入することになりました。

サンパウロからリオ・デ・ジャネイロへ行く際は、イグアスに寄って、かの世界三大瀑布で有名なイグアスの滝を見てきたのですが、これはまた別エントリーで。

リオ・デ・ジャネイロと言えば、キリスト像や世界一綺麗とも言われる海と山が連なるカリオリ風景でしょう。

そして今回行ったHospital Miguel Coutoは、キリスト像のあるコルコバードの丘から車で40分くらいのところにある市立病院です。

前回のエントリーで書いた「Hospital Moinhos de Vento」と比べると建物も古く、病院内も患者さんが行列を作って並んでいて、雑多としてる印象ですね。

ちなみにブラジルでは公的保険があるのだが、公的保険で通える病院は限られており、ある程度所得がある人はプライベートで保険に入って、保険のランクに応じてより設備が整っていたり綺麗な病院に通える制度になっています。
恐らく前回の「Hospital Moinhos de Vento」が高所得者向け病院のようです。

ちなみに病院の食堂です。導入先の先生と仲良くなったお陰で、ランチが無料に。笑


さて今回の導入は事前に病院のエンジニアと全く連絡ができなかったため、病院内のシステムとアプリを接続する作業をほぼぶっつけ本番で病院内でやることになりました。
しかし案の定、ぶっつけ本番でやると苦戦します。

病院のエンジニアとパソコンの前に横並びになってGoogle翻訳を通じて会話

まず作業を始めるも病院のエンジニアがポルトガル語しか話せなくて、英語が全く通じません。
私も当時はレストランで注文したり、日常会話くらいならポルトガル語でできましたが、やっぱり仕事で使うにはまだ至らず。
そうこうしているうちに、一緒に導入に行っていたブラジルの営業メンバーが、次の打ち合わせがあるからと先にリオ・デ・ジャネイロからサンパウロに帰ってしまい、通訳してくれる人もいなくなりましたΣ(゚д゚lll)ガーン

そこで言葉で通じないならと、病院のエンジニアと二人で横並びになってパソコンに向き合い、お互いGoogle翻訳を使って英語⇒ポルトガル語ポルトガル語⇒英語にしてひたすら会話することにしました。

実はGoogle先生、日本語⇔ポルトガル語の訳は全く使い物にならないんですが、英語⇔ポルトガル語の訳は結構精度が高く、意外と何とかなるものです。たぶん他の言語にも当てはまります。

Google先生のお陰で、直接会話は通じないけれど、なんとか病院のエンジニアと意思疎通はできました。

病院のネットワーク設定…反映されるのは6時間後…?

しばらく作業をしていると、どうも病院のネットワーク設定を少し変更して貰う必要があるということが分かりました。で、早速病院のエンジニアに依頼すると「ここはリオ・デ・ジャネイロ市立の病院でネットワーク設定はどうもリオ・デ・ジャネイロ市の役所のような別機関が管理しているから自分にはできない。」と言い出しました。何か雲行きが怪しくなってきますね。

「ではその機関に連絡してくれませんか。」と言うと「それは自分の仕事ではない。」と言い出すではありませんか。
しかし「それは困る、この仕事を完成させないと自分は帰れない。だから連絡をしてくれるまで帰らない。」などと説得をしていたら、病院のエンジニアが電話してました。エンジニアは多少めんどくさがり屋だけど、根はいい人なようです。

そしてリオ・デ・ジャネイロ市の機関に電話でネットワークの変更依頼を出してもらい、これで一件落着、と思いきや、その機関の担当者から返ってきた返答は「変更は可能だが、設定するのはリオ・デ・ジャネイロ市の規則で夜19:00になる。」でした(´д`)工エエェェ

出張の予定は、当日19:00にリオ・デ・ジャネイロの空港からサンパウロに戻り、25:00にサンパウロからドーハ経由で東京に戻るスケジュール。

なので19:00まで病院で待てない…これは詰んだかΣ(゚д゚lll) と一瞬思いました。
しかしそこで、外部から病院内のサーバにアクセスできるようにして、後はサンパウロから確認すれ良いのでは!と思いつき、病院のエンジニアに許可を貰って外部アクセスツールをインストール。

そして予定通り19:00にリオ・デ・ジャネイロから飛行機でサンパウロに戻り、サンパウロに戻ってからゆっくりリモートアクセスして、全ての設定が完了していることを確認しました。

これが一番冷汗かきました。

で、こちらがおなじみのブラジルのドクターへの導入風景です。
たくさん集まってくれて嬉しい限りです。


というわけでブラジルの2都市、ポルト・アレグリとリオ・デ・ジャネイロの病院で、日本発のモバイルソリューションプロジェクトが動き始めました。

※2014年9月の活動内容です。

ブラジルの病院にモバイルソリューションを導入してきた話〜その1 ポルト・アレグリ編

去年の夏の話ですが、ブラジルの病院にモバイルソリューションを導入してきました。

元々は日本で開発していた医師向けのコミュニケーション用チャットアプリで、LINEのようなチャットに患者さんの検査画像などをチャット上で共有できるように統合した、遠隔診断補助用のモバイルソリューションです。アプリの詳細はこちらで。

当時このアプリは日本でもローンチしてから1ヶ月弱で、日本の3病院で使われていた開発したてのサービスでしたが、急性期医療において医師不足や緊急時の患者さんの検査画像共有といった課題は世界共通らしく、一気に海外に展開することになりました。まずは既に子会社があったブラジルから展開していくことに。

ちなみにブラジルに子会社を立ち上げに行った時のエントリーはこのあたりです
サンパウロ出張記〜その1 一番役に立ったのは英語でもプログラミングスキルでもなく、ストレス耐性である。

サンパウロ出張記〜その2  昼にガッツリ食べて、夜は少なめに食べるというとても健康的なブラジル食文化

そしてアプリ上で患者さんの検査画像を共有するには、アプリと病院内のシステムを接続する必要があったため、ブラジルの病院内のシステム接続&医師へのアプリ導入を行いに、3回目のブラジル出張に行くことになりました。


最初に訪問したのは「陽気な街」という意味を持つ、Porto Alegre(ポルト・アレグリ)という都市にある私立病院「Hospital Moinhos de Vento」。


写真からも分かるように、エントランスが病院というよりはホテルのようなとても綺麗な病院。日本の病院と比べても、なんだか豪華な感じがしますね。

院内のシステム接続はブラジル出張の前に、Hospital Moinhos de VentoのITエンジニアと1週間のうちに30往復くらいメールでやりとりしていたので、あっさり接続出来ました。
日本とブラジルの時差は12時間あり、ブラジルが日中の時は日本が深夜なので、深夜の2:00くらいまで起きて夜な夜なメールをしていたのが懐かしい…

でHospital Moinhos de Ventoの中で今回のアプリを導入してくれたのは、Neurosurgery department、つまり脳外科です。実際にブラジルの医師たちにアプリの導入をしている風景がこちら。一番右が私です。当時のアプリのロゴも背景にばっちり写っています。

ブラジルの医師たちに大好評。
これはすごい!エキサイティングだ!と言いながら、使ってくれています:)

自分たちの開発したソリューションを実際にユーザーに、しかも日本の裏側のブラジルで使ってもらえるのは嬉しい限りですね!
開発中の苦労も、一瞬だけ吹っ飛びました。笑
昔からずっと「日本で開発したソリューションやサービスを海外に出していきたい」と言っていたのですが、その第一歩になったかなと思います。

P.S ブラジルの病院にモバイルソリューションを導入してきた話〜その2 に続きます。
次は、リオ・デ・ジャネイロの病院で大苦戦?!したエントリーを書きます。

「憧れは理解から最も遠い感情だよ。」

多様性の中で生活すること、そして海外で仕事すること。
大学院卒業間近に、せっかくベンチャー企業に入るんだったら、ベンチャーのメッカと言われるシリコンバレーに行ってみたいと思い立った。

ドキドキしながらサンフランシスコからカルトレインに一時間近く揺られて、毎日のようにパロアルト、サンノゼに通った。

現地でいくつかの企業と、スタンフォード大学を訪れた。
当時まさに大ブレーク中だったTwitterも訪問してみた。

その時の詳細はこれ⇒シリコンバレー旅行記

エンジニアとして、自分でモノを作れるくらいになってやるという決意も、今では少しくらいは達成できたのだろうか。

ーそして今、ブラジルで仕事をしている。

「憧れは理解から最も遠い感情だよ。」
という有名漫画での有名な台詞があったように
当時は漠然と海外で働くことに憧れていたが、憧れているうちはその裏にある苦悩は見えてこない。

外人って言っても恐ろしく細かいところまで気にする人もいるし、信頼関係ってやつがあるかどうか分からないうちはこっちの言うことにまともに耳を傾けてくれないし、言ってることの30%くらいしか通じてないという前提でのコミュニケーションはお互いの疑心感もあり神経をすり減らす。

それでも最近感じるのは、自分たちの提供する価値が顧客の求めるものであるという一種の過信と、俺が諦めてしまったら誰がこの事業の面倒を見るのだという責任感がミックスされたような感情。

だが、これでいいのだ。当時海外で働きたいと思っていた大学院卒業間近の時の目的は、着実に実現されているのだから。


ーブラジルからの帰り、肌寒いデトロイトのメトロポリタン空港にて。

いつでも思い出すのは、フランスで14人で3週間過ごしたシェアハウス 〜 海外で仕事したいと思った経緯 その3

前回のネパールから帰国後は、一ヶ月くらい海外に行ける機会がないかを探していた。そして大学院の修士1年の夏に、ポルトガルの大学で3週間、抗癌剤の開発のインターンしてみないかというオファーがあったが(一応、当時の専門は生命工学だったので。)、研究室と就活で都合が合わず、断念。

そして2009年、修士2年の時にとあるNPOのプロジェクトで、フランスのパリから一時間くらい離れた村のオレンジジュース農園の拡大工事を手伝うという、ワークキャンプのプロジェクトに参加することになった。

現地集合、現地解散のプロジェクト

とりあえず参加が決まった後の通達書には、8/10の14:00にフランスのAngersっていう駅に来てね、プロジェクトは8/28までで同じくAngers駅で解散だから、切符の手配諸々よろしく('-'*) という何とも気軽な文章が書いてあった。

なのでプロジェクト開始の2日前の8/8にパリに到着して、8/28から一週間くらい旅行期間を入れて、9/5に日本に帰国する航空券を購入。おいおい、これ当日行って駅に行って誰もいなかったらもはや笑えるというか、そのあと8月28日まで何すればいいってんだ、と不安に思いながらもAngers駅まで一人向かったのを今でも思い出す。そしてAngers駅に到着したら既にバックパッカーを背負った先に集まってたメンバーがいて、一安心したものだ。

初めての英語での生活と、いくつかの気付き

その時の細かい出来事や何にカルチャーショックを受けたかなどは、以下のエントリーに書いてあるので省略するが、

非日常的な体験、世界の中の日本
カルチャーショックと英語格差


このプロジェクトの良かったところは以下の3点だ。

・世界中から同年代の若者が集まっているところ。(イタリア2人、ドイツ2人、フランス3人、日本2人、スペイン2人、トルコ1人、スロバキア1人、韓国1人てな構成。)公用語はもちろん英語。

・14人で、でっかい一戸建ての部屋をかりて、食事を自分たちで作って共同生活するところ。ちなみに働くことの対価としてか、滞在費、食費はかからなかった。

・オレンジジュース農園の拡大工事の手伝いは基本15:00くらいで終わって、メンバー間の交流がたっぷりあったところ。


なので、仕事終わった後はトランプしたり、サプライズで誕生日を祝ってもらったり、3人一組に別れて昼食と夕食を毎回各国の料理を作ったり、収穫したオレンジで村の人とパーティーしたり、近くの街に行ってカヌーしたり、ナントという街を観光したり、日本の歌舞伎について教えたり、、とホントに色んな経験ができた。

その中でも大きな気付きを得たのが、各メンバーが自分たちの国の問題点について説明し、ディスカッションした時のことだった。
イタリアは政治にマフィアが蔓延っていて街のいたるところにマフィアがいて治安が最悪なこと、韓国は熾烈な受験の代償としての自殺者が後を絶たない事、スペインは当時からリーマン・ショックの影響で若者の失業率が既に30%を超えていることなど、各メンバーから語られるトピックは、その国に住む人達の実感値としてとても説得力があった。そしてどの国の若者にも共通しているのが、政治への不信感。政治に希望を持っているか?という問にYesと答えたメンバーは、14人中1人もいなかった。

その時、国の借金がGDPの200%を上回っているだとか、高齢化社会がどうだとか、人材の流動性が少ないだとか、日本にいると日本だけが色んな問題を抱えていてそれだけに目が行きがちだが、世界中で問題を抱えていたい国なんてないのだと、という気付きを実感として持てた。

またヨーロッパの人達にとって外国へ行くこと、例えばイタリアからフランスに行くのは、日本でいう違う都道府県に行くぐらいの感覚なんだということ。そりゃ陸続きになっている国に入れば、子供の頃から色んな国の人と接する機会も増えるだろうし、中にはイタリア語、フランス語、スペイン語が話せるよ、っていうツワモノもいた。

そして英語格差は確実に存在することを実感した。メンバーの中にはフランス語しか話せなくて英語があまり話せない人がいた。イタリアのメンバーとかとコミュニケーションを取る時はフランス語でも意思疎通できるが、やはり5,6人集まって話す時になると英語が話せない分、メンバーの中での存在感というか、プレゼンスが低くなっていった。この14人の中でも確実に英語格差によって、その人の存在感に影響を与える。考えてみれば当たり前のことだが、これには当時強烈な危機感を持った。

ちなみに私がFacebookを始めたのも、このキャンプがきっかけだ。当時日本ではFacebookをやっている人は殆どいなかったが(代わりにmixiがあったな。)、ヨーロッパでは既にスタンダードになっていた。「See you on facebook!」っていうフレーズもこの時初めて聞いた。


1ヶ月弱のワークキャンプを通じて、多様性の中で生活し、その中で気付きを得ることが自分の中に新しい部屋ができるような感覚だった。この時だろうか、将来は海外で明確に仕事をしたい、と思うようになったのは。そして次回は最終編、海外で働きたいという思いを決定的にさせた、シリコンバレーでの衝撃について。

雑多なアジアの匂い@ネパール〜海外で仕事したいと思った経緯 その2

さて、ロサンゼルス、ニューヨークから帰ってきて、漠然と海外に対する興味が増し、観光から一歩進んでその街を知ることに興味が向くようになった大学3年生の冬休み。


当時お世話になっていた社会人から、「ネパールのサランコットという村で10年前から小学校を建設して、現地の村の子供達の教育支援をしている。今度新しい支援制度を考えているのだが、現地の村の調査をして、実体を調べてベストと思える支援制度を考えてみないか?」とのオファーがあった。ので、友人と二人でネパールに行くことに。

そこにあるのは、剥き出しの人々の生活

カタールのドーハ経由で、20時間超のフライト。
空港に降りると、タクシードライバが引っ切り無しに荷物を掴んで、俺のところに乗れや、と近づいてくる。油断しているとあっという間に荷物を持ってかれてしまう。


首都カトマンズは、車の排気ガスと雑多な匂いがした。
首都でさえ電気の供給もままならず、一日平均6時間くらい停電がある。


ニューヨークとの対比で、あの街には何でもあった。綺麗な空気も、魅力的に整備された観光名所も、便利な交通も、エンターテイメントも、ブランドも。
一方この街にはニューヨークのような華やかな要素は何もない。そこにあるのは、剥き出しの人々の生活。現地の人が入るレストラン。川沿いに出れば火葬所が見える。


途中仲良くなったネパール人の家に招待してもらった。停電が起きたが、それでもネパールの人達は慌てず、ろうそくを持って粛々と生活をし、ご飯を食べ、知らない俺たちにも気を配りながら、自分たちの生活を語る。


それで調査のために、カトマンズからポカラという都市に向かう。


ポカラまでバスで悪路に揺られ、8時間くらい。静かな湖畔の街である。そこからさらにタクシーで30分くらい、サランコット村に向かう。社会人の人と現地で合流し、村の住人の家に泊めさせt貰った。2日に渡って村を視察したり、他の住人に話を聞いたり、小学校に行って子どもたちになぜか算数を教えたり。最終的には、奨学金ではなく、カバンやノートなどの現物支給制度を考えて、提案した。(ここで国際支援の是非は問いません。)


生活自体は確かに不便だったが、村の人達はとても暖かかった。サランコット村は標高が高く泊まっていた場所からは星がすごく綺麗に見えた。


シャワー施設もなく、お風呂は一ヶ月に一回井戸の水で洗う、という生活で、ポカラに戻って3日振りに浴びたシャワーは、今まで浴びたシャワーの中でも一番気持ちよかった。


この旅で、何となくアジアが好きになった。現地の生活に入り、そこにある剥き出しの生活の中に溶けこんでいく感覚がたまらなく好きだった。今回の旅は一週間くらいだが、そして次はもっと長く、海外で生活をして現地の生活に溶け込んでみたいと。それが、フランスでの一ヶ月のワークキャンプに繋がっていった。

海外で最初に見た忘れられない光景は、サンタモニカの夕日に沈む桟橋だった〜海外で仕事したいと思った経緯 その1

2/20から二度目のブラジルはサンパウロに出張に来ているわけですが、成田からデルタ航空アトランタ経由でサンパウロまで約35時間。
飛行機の中で、私はいつから海外で働きたいと思うようになったのだろう、と回想していたのですが、、

海外で最初に見た忘れられない光景は、サンタモニカの夕日に沈む桟橋だった。

海外と言っても、昔子供の頃に親の仕事の関係で住んだ中国以外、あまり海外に行った頃がなかった私が、自分から進んで海外に踏み出したのは2006年、大学3年生の夏だった。

今思えば大学で膨大とも思える暇な時間を持て余して私は、一時期国際交流のサークルに入っていた。そこで知り合ったアメリカから来た留学生がアメリカに戻ったので、久しぶりにそいつに会いに行こうかと。

その友達に「遊びに行って良い?アメリカのどこに住んでる?」ってメール送ったら「いいよ、カリフォルニアに住んでる。」って返事が来て、カリフォルニアってアメリカのどこだっけ?っていうレベル。
「カリフォルニアがどこにあるかよく分からんが、せっかくアメリカに行くんだから、ニューヨークとボストンにも行ってしまえ!」というノリで、友達と二人で成田⇒ロサンゼルス⇒ニューヨーク⇒ボストン⇒シカゴ⇒成田 という飛行機のチケットを予約した。
今思えばなんと大雑把な判断だったのだろう、、と思うが。

片言の英語でロサンゼルスにたどりつき、友達の案内でロサンゼルスのビバリーヒルズや美術館、派手なショッピングセンター、ハリウッドなど定番な場所を案内してもらったが、一番心に残ったのは、少し離れたサンタモニカの夕日に沈む桟橋だった。

ビーチの浅瀬から漆黒の海に進出せんとばかりに伸びる桟橋。その上から聞こえてくる人々のざわめき。夕日が落ち、少しずつ暗くなると漆黒の海の上で唯一の輝きを放つかのような桟橋の姿になぜか哀愁を感じ、とても記憶に残った。

ここ人達はどんな生活をしてるのだろう、いつも何を楽しみにして生活しているのだろう。俺がもしここに住んだら毎日この光景を見に来るのに。とかそんな事を思いながら、それぞれの街にそれぞれの人々の生活があって、それを少しでも知りたくて、ずっとこの場にいたい衝動に駆られた。

初めてニューヨークに足を踏み入れた時は、白黒のモノクロの世界から色鮮やかな新世界にでもやってきたのかと思った。

ロサンゼルスからニューヨークへ。空港に着いたのが深夜1:00で、誰もいない深夜の地下鉄を、ホステルまで友達とビビリながら何とかたどり着いた。

ニューヨーク初日は雨だった。イエローキャブロックフェラーセンターエンパイア・ステートを初めとする高層ビル群とヨーロッパのような建築仕様が交じり合った街並み。街に飾られた英語の看板。高級ブランドの代名詞となった五番街と派手なパレード。そして9・11の痛みを忘れんとばかりに粛々と存在し続けるグランド・ゼロと、その横で揺らめくアメリカ国旗。

テレビや、ファンだった今はなきZARDの「Don't you see」のPVの中でしか見たことない世界が目の前に広がっていて、その中を自分が今歩いていると実感できることが嬉しくて、ある種の自己満足に浸っていた。

そして実にいろんな人種がいた。南米系、ロシア系、中華系、韓国系、ヨーロッパ系・・・その国のメインストリートを歩く人種の多さが、国際都市としての成熟度を表す。東京との対比で、そんな多様的な街で自分の人生の幾ばくかの時間をここで過ごしてみたい、とう思うようになった。

そんなかんなで日本に戻ってからは、漠然と海外に対する興味が増し、観光から一歩進んでその街を知ることに興味が向くようになった。それが次の旅、ネパールで国際支援の現場を調査する旅に繋がっていった。長くなったので、続きは次のエントリーで。