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年の瀬なので歳暮を一つ送った。デパートの6階1フロアまるまるを使った歳暮用の特設ブースは寒々しい広さで、行ったことのない就活イベントを想起させたのだが、実際は旧式のパソコンでデジタルだけどなんだかアナログな印象の操作をおこなう場所だった。私はそこで4000円と消費税等を支払った。初めてのことではあったが、悪い気分はしなかった。手紙を込めた。礼を書いた。
一人で生きているわけではないということはずいぶん前から知っているというか意識が芽生えたところから一人で生きていると思うことを許される状況にはついぞ出くわしたことがないままに26歳にもなってしまった以上、一人で生きているなんてひとつも思ったことはないけれど、それでも他人というものがなんなのかは今の今までまるでわからず、けっきょくすべては自分のことへと収斂していく様を見るにつけ、一人で生きているふうを装いたいのかしら、と思わないわけでもない。年の瀬ということもあり、長い小説を読みたいような気もしていたし、それこそ、『失われた時を求めて』のような、長い小説を手に取ってしまいたいとも思ったから、『失われた時を求めて』の場合は年の瀬に読み始めてそれから何回も年の瀬を迎えるということにもなりかねないから、それにすでに読んだから、取らなかったのだけど、思い出せば去年はガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んでいた。読んだのは二回目だった。何度読んでもこれはたぶん面白いだろうなとそのとき思った。今年は満を持したかっこうでピンチョンの『逆光』を買った。いつ読み終わるのかも知れない長さであり、書店で購入した際には身震いにも似た奇妙な緊張を感じていたものだし、今だって、1ページ1ページ、1行1行を大切に読みたいと思ってはいるのだけど、どうしても、いつお客さんが来るかわからないと思うと進む目も進まず、それが続くと開くのも気が進まず、まだ100ページも読んでいないから話がどう進んでいくのかまるで見当がつかない。その状況は、悪くない気分だった。
冬になり、というか12月に入り、てきめんにお客さんが減った。つまり売上が驚くほどに減った。しかしこれは私の犯している大きなあやまちかもしれなくて、12月になり、ではなく、開店から半年が過ぎ、がもしかしたら正しい記述なのかもしれない。つまり、この先どうなるかはまるでわからないということで、気分で言えばあたたかくなれば人が戻ってくるだろうと、わりに楽観はしているのだけど、開店から半年が過ぎ、人々の興味が一服し、これからいつまでも下降線をたどる可能性だって、それは否定ができないのだ。だからこそ、暇だからこそ、長い本を読もうとピンチョンを取ったわけで、夏は、忙しかった夏は、冬は暇になるだろうから、そのときにたくさん本を読もう、映画を見よう、小説を書こうと、それを楽しみにしていた。それがそのままに実現しているのに、お店は大丈夫だろうかと心配しているこの様は実にこっけいだ。
私は、自分のことばかりにかまけていて、いつの間にか誰も寄り付かなくなるということをちゃんと考えたことがない。それは大きな、私が犯した大きなあやまちに果たして、なるのか、それは当然、今のところはわからない。どれを考えてみてもそれは憶測の域を出られない。半年という時間ではかれるものなんてこれっぽっちもなくて、一人で生きているわけではないということは十分に承知しながら、私はどうやってこの生を暮らしていいのか、それをはかりきれずにいる。人々がくだらないように見える時間を過ごしているなかで私が、いったいどうくだらなくないのか、その根拠などどこにもないようにも思える。今日考え事をしていて、これまで、どこまでいっても自分の身体からは逃れられないということに対して絶望に似た気持ちを抱くことは多々あったが、今日考え事をしていて、身体と同様に、どこまでいっても自分がこれまで生きてきた経歴から逃れることもできないのだと初めて、そう思った。くだらないことにとらわれていてもばかばかしい、あほらしい、不毛、万死にまでは値しない、それでもそうとうにどうでもいい、ということはわかっていても、私は私であるを規定するそれがあまりにも脆弱であると思え、ばからしい、とシニカルな態度でそれを一蹴したところで、一回りして私にぶつかって落下した。それっぽいことを言えば人々は満足する。私はそれを知っている。私の生にどんな意味があるのか、私はその答えを知らないままでいる。全部はばからしくはないけれども、見聞きするたくさんのものが非常にばからしい。