自他の比較が、始まったときからだろうか。
自分の存在に、価値を見い出せなくなったときからだろうか。
それとも、
期待に応えようとしたときからだろうか。
結果や成果こそが、大切だと思い始めたのは。
情報化社会は、否応なく比較を強制してくる。
あなたの優位性、差別性、独自性はどこですか、と問いかけてくる。
自他の比較による自分像が、強まっていく。
結果がついてこようがついてこまいが、お金になろうとなるまいと、
「そうせずにはいられない何かしらの(創造)行為」
をしていれば、結果や成果から離れていける。
離れていこうとしなくても、離れていける。
日々している呼吸の上手下手には、誰もこだわらない。
目的指向的な、あるいは、
何かを成し遂げようとする行為は、
いつしか、比較と罪悪感の呪縛に、からめとられる。
「そうせずにはいられない何か」を見出そうとしないから、
情報的に構築された別の自分にばかり、目が向いてしまう。
そして、虚しくなる。
だから、
「もう、私は結果にこだわらない」
以上、セドナのエアポートメサで考えていたこと。
写真は、チャネリング的交信(クラウンチャクラ)が、
活発になるエネルギーが充ちているエアポートメサと、その頂上から見える景色。