2010-02-02 うえんし-意思決定の所在
今まで竹原信一市長の危険性について、書いてきたが。
竹原信一市長誕生の背景について書いてみる。
冗談のような話だが、阿久根市には「うえんし」というのがいる。
阿久根反市長派の某議員が、前年の選挙で対立候補の田中勇一候補を応援していたのは周知の事実だが。
実は応援というよりも、選挙活動を仕切っていたというのが現実で。
そしてその某議員の後ろには某県議がいてその後ろにいるのが「うえんし」であるという話。
今更だが「うえんし」とは阿久根の言葉で「うえん=上の」「し=人」つまり「上の人」という意味。
某議員が選挙で負けた責任を追及された場で「自分はうえんしの言うとおりにやった」と言い訳したという。
「うえんし」とは特定のある個人を指すのか、それともグループを指すのか、あるいは単にお年寄りという程度の意味なのか
定かではない。
また、「うえんし」が「頼れる相談役」なのか、「黒い支配者」(だったら面白いのだけど・・・)なのかも定かではない。
この話が面白いのは、某議員が「うえんし」の言うとおりにやった、ところではない。
うえんしの言うとおりにやったので自分には責任はないと、某議員が言ってしまうところにある。
自分の意思で行動せず「うえんし」に従ってやっている限り、この町では責任を負わなくて良いのだ。
だから選挙に負けるのだけどね。
2010-02-01 全体主義者としての竹原
全体主義(ぜんたいしゅぎ、totalitarianism)とは、民衆一人一人の自由、権利を無視しても国家の利益、全体の利益が優先される政治原理、およびその原理からなされる主張のことである。歴史的には近現代において国カを全て総動員する戦間期にこうした主張があらわれたとされるが、今日でも、個人の自由や利益を制約する傾向が顕著な国家について「全体主義国家」あるいは「全体主義体制」の呼称があたえられている。個人主義や民主主義の対語として良く使われる。
当初の議論で全体主義が標的としたのは、ブルジョワ民主主義の思想や制度である。すなわち、19世紀後半から顕在化した労働問題などの各種社会問題において、当時の自由主義国家は有効な対応を立てられなかった。国家は個人の自由には立ち入らないまま、深刻さを増していく社会問題を放置しているのであり、ブルジョワ階級の取引と妥協の場と化した議会もまた、中間層以下の庶民の苦しみに目を向けようとしていない。全体主義の主張では、こうしたブルジョワ民主主義の「欠点」が批判されたのである。
全体主義がその「処方箋」として示したのは、国家が積極的に介入してこなかった社会、経済、文化の諸領域にまで干渉し、不毛な選挙や議会政治を否定して、直接的な民意形成を採用することである。こうした体制運営によって、それまで過剰に偏重されていた個人の自由を制限し、国家全体の利益を優先させることが可能になるとされたのである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部抜粋
日記がたまに後日修正されている。
「1984」のビッグブラザーを思わせる。
さて「全体主義」よくわからいながらも、竹原=全体主義者という図式が
私の中で形成されてから長く経ち、放置していたものを今更整理したい。
個人の自由や権利を無視して国家の利益、全体の利益を優先されるという政治原理をもっている。
少なくとも竹原市長は「市民の利益」と称し、個人の権利を無視している。
2.社会の為と称して、障害者の生存する権利を否定した主張
個人の自由を否定しているかは微妙
ある意味、信者に情報制限をかけているのは確か、
「○○新聞は読むな情報が偏っている」「○○の番組を市民は見るべし」といっている。
従うのも個人の自由だが、正常な大人と大人の関係ではないように感じる。
全体主義を育むブルジュワ民主主義(官僚民主主義?)の弊害が阿久根に蔓延しているので小気味良くもあるのだが。
「全体主義」か「ブルジュワ民主主義」の二者択一では阿久根市民が気の毒だ。
二者択一に陥るのは結局、自らの責任を誰かに押し付けたい市民に問題があるのだろう。
2010-01-31 竹原市政の行方-「結局身体だけが目当てだったのね」」
竹原市政はいつかは終わるが、いつ終わるかは分からないでいる。
長く続いたとしても、竹原市長を支持した人たちの多くはいい意味で裏切られるだろうと思う。
そして竹原市長の目的はいい意味で達成できないだろう。
そもそも竹原市長は「阿久根市民が豊かに暮らす」ことには興味があっても
彼の中では「豊かさ」ノットイコール「経済的繁栄」ではないからだ
そして、竹原を支持している人の多くは、先日も書いたように
「田舎の生まれで決まる格差」が気に入らないわけだ。
もっと言えば、自分の置かれている惨めな状態が気に入らない。
もっともなことだ。
私だって気に食わないさ、この町の悪意のない坊ちゃん連中は。
少しは彼我の差に自覚を持てっての。
「みんな右翼が来て困っている?」
「みんな竹原には迷惑している?」
「みんな」って誰だ?
市役所近辺で商売をしている人達や、
運送や営業をしている人たち困っている人たちはたくさんいる。
そんな「みんな」には同情する。
でも、しかし、全然困っていない人もこの町にはたくさんいる。
「みんな右翼が来てわくわくしている」
「みんな竹原のお陰でドキドキしている」
そんな「みんな」の存在も確かにあるわけだ。
別に熱狂的に竹原を支持していない人の中にもね。
そんな「みんな」はけしからんのだが、よくわかる。
こんなことでもなければ退屈だからね。
ともあれ、話を戻せば竹原支持者と竹原市長双方の思惑には
大きなズレがある。
竹原市長は阿久根市民の皆さんに、自らの意思で自らを治める自由が提供したい。
(多分ね、具体的にはわからないさ、竹原市長の妄想を私が妄想して具体化しても意味ないし)
竹原支持者はもっと打算的でお金が欲しい、あるいは鬱屈した気持ちを
解消して欲しい。
(市役所職員とかクビになったら気持ちいい)
ここら辺で竹原市長の手段が、支持者の目的と合致して強固なのだけれど。
ズレている。
結婚して欲しい女とエッチがしたい男みたいにズレていてくっついている。
2010-01-30 阿久根市の現状2
www5.diary.ne.jp/user/521727/
↓右翼関連の2ch(低俗な為お上品な方はご遠慮下さい)
society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1253956059/l50
これは竹原市長の計算どおりなのだと私は考えている。
あわよくば、反対派の人たちを
「市役所職員と結託し」
「右翼を利用し」
「市政改革を妨害している」
人たちであると市民に思わせたいのだろう。
これはうまく行くか微妙なのだけど
竹原市長自身を「右翼も恐れない」「市政改革が出来る唯一の人」
と思わせるのには少しばかり成功しているようには見える。
野良犬に噛まれた右翼みないな構図。
私の知る竹原市長は馬鹿ではない。
少なくとも障害者差別発言をもみ消すのには成功している。
彼はマスコミを敵扱いすることで
「信者の情報による汚染を防ぐ」
ことに成功しつつある。
また選挙になっても勝てる可能性は高い。
「○○地域の人間は竹原のお陰で潤っているから竹原を支持している」
→○○地域の人たちが竹原を支持するようになる。
「竹原派の店には絶対に行かない」
→やはり反竹原派の人たちはカネの力まで使って市政改革を妨害している。
など、不利になる情報を垂れ流しに任せて負ける公算が強い。
竹原はそこのところブログを利用して
相手方の失言を拡大したり上手くやっているように思える。
いずれにせよ人は置かれている環境や、持っている情報によって判断がどちらにでも転ぶ。
阿久根に住んでいない人間には阿久根市民が竹原市長を選んだことは
さっぱり分からないかもしれない。
例えば、竹原ブログ1月26日とか、阿久根の失業中のおっさんが見たら竹原を支持したくなるわけだ。
中面議員と中学校で同級生で中面君より勉強が出来たとかするとね。
田舎というのは生まれで一生が保障される。
中面君はどんなに堕ちても議員報酬以上が約束されている生まれだったということ。
田舎ではそれがむき出しで見えてしまうってこと。
田舎の坊ちゃん連中はそこんところに、びっくりするくらい鈍感ときている。
竹原三連荘め来るかもよ。
傍から見れば馬鹿に見えるさ阿久根市民。
2009-06-15 阿久根市の現状
「阿久根市は大変なことになっている」などといわれるが
私は全然そのようには思わない。
阿久根市のごく一部の人達が大変なことになっているのは事実だろう。
竹原市長が当選したことでもって、田中氏が言ったように「市民の良識が失墜した」訳では断じてない。
選挙に限らず、選択というのはいつも限定されている。
良識ある市民は「竹原候補者」と「田中候補者」を比較した結果、「竹原候補者」が当選したほうが「マシ」
と考えた、それだけのことである。
厳しい言い方だが、そんなことも分からないから落選したのだ、と私は考える。
このブログは阿久根市内に住まない方も多いと思うので、阿久根市民から見た選挙戦の実態。
報道されなかったことをいくつか、報告したい。
1.阿久根市民の内訳ー主観に依る
竹原氏 一人くらい
田中氏 一人くらい
竹原派 竹原氏に馬鹿んなっている人たち 200〜500人くらい
反竹原派 反竹原で馬鹿んなっている人たち 200〜500人くらい
竹原支持者 竹原のがマシと考える人たち 7000人弱
田中支持者 田中のがマシと考える人たち 7000人弱
というのが私の考える阿久根市民の内訳
この定義に従えば、「豚頭事件」は竹原派か反竹原派によるものになるのだ。