「韓流、テレビ、ステマした-韓流ゴリ押しの真犯人はコイツだ!」を読む

韓流、テレビ、ステマした-韓流ゴリ押しの真犯人はコイツだ! (SEIRINDO BOOKS)

韓流、テレビ、ステマした-韓流ゴリ押しの真犯人はコイツだ! (SEIRINDO BOOKS)

フジテレビデモに行ってみた! -大手マスコミが一切報道できなかったネトデモの全記録

フジテレビデモに行ってみた! -大手マスコミが一切報道できなかったネトデモの全記録

「フジテレビデモに行ってみた!」の著者、古谷ツネヒラ氏の2作目の著書となる「韓流、テレビ、ステマした-韓流ゴリ押しの真犯人はコイツだ!」を読みました。



「フジテレビデモに行ってみた!」は、一見するとコミックかライトノベルかと見紛う表紙が印象的でしたが、「ステマした」の表紙は著者である古谷氏を前面に押し出した作りとなっています。古谷氏のルックスを一つの売りにしようという目論みなのか、「フジテレビデモに行ってみた!」が「デモに参加していた連中にこんな美男美女なんかいねーよw表紙詐欺ww」という一部の批判を受けてのものなのかは分かりません。

極めてどうでも良い話ですが、知人に購入したばかりの本書を見せたら「売れない韓流アイドルみたいだな」と言われました。



本書前書き「〜テレビとリアルのリアルな温度差〜」では、のっけから韓流への嫌悪感をあらわにしています。




我々若い戦後世代は、映画やドラマや音楽や出版物といった「大衆文化」の洪水の中で育った。それには二種類あり、一つは舶来もの。つまり欧米の洗練された輸入の文化品であった。もう一つは戦後、我が国が育み涵養してきた国産の大衆文化であり、映画や音楽もさることながらアニメや漫画といった、我が国が世界に誇るべき先進性を示す高品質の文化品である。



こういった、先進国の文化コンテンツに常日ごろから晒されてきた我々にとって、「韓流」でくくられるコンテンツとは、一部の映画作品を除き、正視に耐えうるクオリティを全く有していない。そこにあるのは陳腐な脚本と稚拙な映像技術、そして聞き飽きたリズムとへたくそな日本語の歌詞、そして同性が同情的に判定したとしても不細工としか言いようのない下ぶくれの自称「イケメン」であり、我々先進国型の「目の肥えた」ユーザーからは本来見向きもされない粗悪な輸入品としか思えないのである


P5



上記の主張に対して私の主観をぶつけても仕方がないので、最低限の一般論だけを述べます。映画にしても音楽にしても、個別に評価するのではなく(申し訳程度に「一部の映画作品を除き」と言ってはいるものの)「韓流」というジャンルで一括りにしている時点で、御自身では気がついていないかもしれませんが、その主張には間違いなく偏見や先入観が紛れていますよ、と。

K−POPのCDアルバム売上がオリコンの上位に食い込んだり、レンタルDVD店では韓流ドラマや映画のDVDが店舗の一角を占めるほどにずらりと陳列されていたり、或いは書店に行けば韓流ドラマや時代劇や映画、音楽にグルメ情報、旅行案内の類まで含めれば相当数の雑誌や特集号が発刊されていたりとしているわけなのですが、古谷氏の言うとおり「韓流」が「見向きもされない粗悪な輸入品」なら、氏の主張と現実は随分と乖離しているなと思わずにいられません。

一部マスコミが煽るように「熱狂的な韓流ブーム」だの、「未だ熱気は衰えず」だの「益々盛り上がりを見せる韓流」だのといった過剰な持ち上げ方には私も抵抗感はあります。そりゃ言いすぎだろと。古谷氏の過激な韓流アンチテーゼの背景には、間違いなくマスコミへの不信感が介在しています。マスコミへの不信感が人々の共感を得、ネット上で一つの潮流となり、フジテレビデモを起こすほどの力にまで成長したのですから、反韓流デモの妥当性や客観性は、その後のゴタゴタや醜聞は置くとしても大したもんだと思います。




そういえば「フジテレビデモに行ってみた!」では、李信恵氏と古谷氏の短い対談が紹介されていましたが、李氏が「米国のコンテンツは何十年も前から大量に流入して日本社会に根付いているのに誰も批判しない。ゴリ押しだとも言わない。」という主旨の発言をしていました。前述の「洗練された舶来品」と「粗悪な輸入品」は、ひょっとしたら本を跨いだ李信恵氏への反論なのかもしれません。尤も、洗練、粗悪という評価は100%古谷氏の主観でしかない上に、ゴリ押しを「コンテンツの優劣」に摩り替えている時点で反論にも何もなってはいないのですが。




山野車輪著「マンガ嫌韓流」では、山野氏が「冬のソナタ」を観た上で時に突っ込んだり、時に「エンタメ作品としてよくできていて結構面白かった」と評価したりといった様が特別編「冬のソナタと韓流ブーム」で描かれていました。まだ「嫌韓」や「反韓」がネットと違って出版の世界では珍しい代物であった時代では、ある程度韓流に融和的な姿勢を示せていた「嫌韓」があちこちに散見されたものですが、時代が下り、使い古された「韓流」批判は磨耗し、より過激で先鋭的な批判を発するほうも受け取るほうも求めるようになってきたのかなあ。そんな印象を受けました。