2011-05-09
5月、郡山へ ― その2
ミナミボウルという名前のボーリング場、高校生の時、ここで好きだった人と遊んだ。
女の子2人、男の子2人のデート。
小さな川がトタンの錆で真っ赤に染まっていた。
この日郡山は風が強くて、トタンが風に煽られて紙みたいにひらめいていた。
ぱきっ、ばきり、音は全然紙のそれとは違ったけれど。
正面。3月11日14:46という時間。中には人がいたんだろうな。怖かっただろうな。
波打つアスファルト。
一見無傷のように見えても、傷跡を持つ建物も多い。
「ヤネキケン ヨルナ!! くずれます。」の文字。
こんな風にダンボールで危険を訴える貼り紙もあちらこちらに。
建物トリアージで「要注意」や「危険」になっていても、中では普通に人が働いているビルもあった。
父が震災後、建物倒壊危険度検査にも携わったのだけれど、「危険」の貼り紙を貼られて「俺の家に勝手にそんな事をするな」と怒り出す人も中には居たそう。
福島は花の季節。
さくら通りと内環状線の交差点。
郡山の高校生は殆どと言って良いほどマスクをしていなかった。
小学生は登下校時はマスクをしている子供が多かった。
マスクをしてずらっと並ぶ小学生を「こういうの写真に撮ったら絵になるんだろうな」と思って、思った自分が嫌でシャッターは切らなかった。
知らなかったけれど、福島では水素爆発直後から、長崎から来た放射線健康リスク管理アドバイザーという肩書きを持つ教授の講演が、
ラジオでもテレビでも洗脳のように繰り返し繰り返し流れたそう。
「年間100ミリシーベルトまで安全です。」
「マスクなんて、役に立ちません。みんなが不安になるだけだから、マスクは今すぐやめましょう」
その教授の方は、最近になって100ミリシーベルトまで安全発言を撤回して
「極めて低い放射線を長期間浴びる例はかつてなかったため、健康リスクがないと証明することが極めて難しいのが現状」と言っている。
福島県内の放射線量はここのところずっと横ばい。
原発からは常に放射性物質が漏れている状態で、これは少なくとも何ヶ月かは続くと発表されている。
その何ヶ月が、長くなる事もあるだろうし、余震でこれ以上の事故が起こる可能性もある。
郡山市や福島市では、放射線量が高くても、そこに生活がある以上避難は難しい。
今後の生活の見通しが全く立たないのに、避難命令も無いまま自主的に疎開を決める事ができる人間は決して多くはない。
子供だけでも集団疎開させてあげられたら、という声はたくさん聞いた。
地元密着型の仕事をしていたら、一度避難して戻ってきて仕事を続けられるかどうか。
余震に怯えながら過ごしている子供を、母親から引き離して疎開させるなら、単身じゃなくせめて同級生たちと、という気持ちは自然なことと思う。
況してや福島県から転校してきていじめられる子供なんてニュースが出ている今、避難を取るか、放射線と共存する生活を取るか。
友人が「今の郡山で子供育てようとしてる私って、鬼みたいに見えるんかな。母親失格なんかな。」と細い声で呟いた。
彼女は子供にマスク帽子長袖だけではなく、手袋もさせているという。
ここで精一杯自衛をしながら過ごすしかないという一つの決断。私はそれを決して違うとは言えない。
福島は私にとって「ふるさと」になる。「ふるさと」は土地もだけれど、人が居て「ふるさと」だ。
どうか福島の政治家や、学識ある発言者の皆さまには、諦めるのではなく、実験場にするのでもなく、真摯に福島の「土地」を「人」を守って欲しいと思う。
そしてその場に住む、自分には力が無いと思っている多数の人には、力はあるんだよ、って伝えたい。
声を上げるのは難しくても、どうか自衛を。
大きな流れは変えられなくても、両手におさまるくらいの大切な人は守れるはず。
それも力だ。
避難も、居続ける事も、どちらも間違いじゃない。
そう思うんだよ。










