2011-10-05 [雑談]「差別」の定義を言えますか? -モスク建設反対は差別なのか-
震災からモスク建設まで、最近身近な「これは差別なのかな?」という事例が増えてまいりました。
差別は絶対に許されず、あってはならないものです。これに反対する人はほとんどいないでしょう。私たちは小学校の頃から「差別教育」を受けており、いかなる差別も行わない、許容することがないようしつけられております。
それなのになぜ差別は減らないのでしょうか。「差別は許されないがこれは差別ではない」「いいやそれはれっきとした差別だ!」「差別なんてされた方が差別だと思えば差別なんだよ」などという言説の混乱が起きるのでしょうか。
おそらく、それは「差別とはなんなのか、どうなっていれば差別なのか」の、差別の定義が曖昧な所為で混乱を招いていると思われます。
差別ってなに?
差別の定義は基本的に世界共通です。そもそも、差別の定義はグローバルでなくては意味がありません。差別とは往々にして違う国の人々との間に生じる出来事だからです。
という訳で我が国の「差別」の定義をまず引いてみます。
3.正当な理由によらず偏見や先入観に基づいて、あるいは無関係な理由によって特定の人物や集団に対して不利益・不平等な扱いをすることを指す。
これが皆さんが学校等で教わってきた「差別」だと思いますが、どうも曖昧ですね。「正当」とは何なのか、どうなれば「不平等」なのか、この曖昧さが「差別なんて差別された方がそう思えば差別なんだよ!!」などという暴論の温床にもなってきた訳です。
ただ「正当な理由によらず」という部分は重要です。つまり正当な理由、例えば目の前で犯罪を行っているとか、明らかな損害が出ているとか、そういう場合は「不利益な扱い」をしても構わない訳です。
では次に英語版Wikipediaを見てみましょう。
"Within sociology, 'discrimination' is the prejudicial treatment of an individual based on their membership in a certain group or category. Discrimination is the actual behavior towards members of another group. It involves excluding or restricting members of one group from opportunities that are available to other groups.
"社会学では、差別とはその人が属する特定のグループやカテゴリーに基づいた、個人に対する不利益な扱いのことである。差別は他のグループの人間に対する実際の行動である。差別はある特定のグループの人々に対して、他の人々なら受けられたはずの機会から阻害したり、また制限したりする行為も含む。"
日本語版よりもうちょっと詳しい感じですね。特に差別とは「実際の行動」である、という指摘は非常に重要です。行動に移さない限り差別は成立しないのですね。
しかしこれでもまだ分からない部分があります。特定のグループやカテゴリーとはどういうことでしょうか?例えば、好き好んで場所をわきまえずにおかしな風体をしていたり、自分と敵対する権利団体に入っていたりする人はどうなるのでしょう?そういう人たちとも親しく付き合わなければいけないのでしょうか?
作家の橘玲氏が「世界共通」だと述べる差別の定義は以下のようなものです。
「差別というのは、本人の努力ではどうしようもないこと(個人の属性)でひとを評価すること」
これは先程から定義文中に表れていた「特定」の意味を説明しています。ある個人に対し「本人の努力ではどうしようもないこと」に基づいて、不利益な扱いを実際に行った場合、それは差別と言えます。
段々差別の輪郭が分かってきました。しかしまだ曖昧な部分がありますので、次はいよいよ実際例にそくして差別かどうかを判断していきます。
追記・「努力」について
「努力」について「努力至上主義」「自己責任論に陥る」などのご指摘が多く驚いています。
ここで「努力」をもちだしたのは、既存の差別の定義によく引用される憲法第14条「法の下の平等」
すべて国民は、法の下(もと)に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
にあるような形式的な定義ではこぼれおちてしまう差別をすくい上げたかったからです。
最近は人種や性別などによらない新たな差別が多く発生しています。たとえば被災者であるか否か、無職か否かといったことです。旧来の定義ではこういう新しいカテゴリの差別に対応できませんでした。だから「被ばくした可能性のある人間への一律強制スクリーニングは差別ではない」といった意見が出てきてしまっていました。
本稿で「努力」と述べているのは、通常人が常識の範囲内でできる努力、たとえば身だしなみに気をつけるとか、余暇の一部を勉強にあてるとか、できる限り自炊して料理を練習するとか、そういう程度の努力であり、度を超えた努力は想定しておりません。
現代医学をもってすれば、性別や人相は「努力」によって変更できます。しかしそれらの努力は依然として負担があまりにも大きく「その努力をしないのは自己責任だ!」と言いきれる種類のものではありません。
改宗も非常なくるしみを伴うものであり、通常の努力の範疇をはるかに超えています。改宗や棄教の強要はむりやり整形手術を行うかそれ以上の「努力」を強制するのと同じです。
本稿は決して度を超えた努力をだれかに強要することを目的としていません。
この問題についてご興味のある方は、ぜひ先程引用した橘玲『残酷な世界で生き延びるたった一つの方法』をご参照ください。
私は本書の主張のすべてに賛同するものではありませんが、「自己責任論」や「努力至上主義」の誤謬を丁寧に整理し指摘した著作となっております。
- 作者: 橘玲
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モスク建設計画に見る差別要素
はてブでも大変に注目をあつめましたこの事例ですが、「明らかに差別」派と「イスラムを理解できないのは仕方ない、差別にはあたらない」派に分かれているようです。
では具体的に内容を精査していきましょう。
- 信仰は「本人の努力ではどうしようも」ありません。したがってイスラム教徒であることはムスリムの皆さんが努力で変えられることではないし、これを理由に不利益な扱いをしたら差別にあたります。
- 宗教施設(モスク)は、もしこれがお寺や神社だったら問題なく建設が可能だったでしょう。他のグループの人ならば得られたはずの機会から排除されています。
- 町会側は内心でムスリムに対する反感を持っていただけではなく、明確にモスクの建設に反対する宣言を行いました。実際の行動に移しています。
- 石川ムスリム協会は、モスクの外観に対して市の景観条例に従うと表明しています。建設許可の申請も法令に則ったものです。従って法令違反を理由にした「正当な」反対ではありません。
以上から、本件はムスリムに対する明確な差別事例として解釈できます。
追記
「家の隣にアーレフの施設が建設されるようなものだからモスク建設への反対は正当」というご意見がありますが、この事例ですとアーレフの施設が立つというよりは
「かつてオウム真理教団が反社会的事件を起こしたから自宅の隣に寺が建つのに反対するのは正当(オウム真理教は仏教を思想的母胎とした教団)」
という主張とおなじくらい乱暴です。ほとんどのイスラム教派はテロ行為を否定しており、アルカイダのようなものは仏教におけるオウムくらい特殊な存在です。
(アーレフを締め出すべきかどうか、という議論はまた別の話なのでいつかの機会に。)
「そんなこと言われてもムスリムへの理解なんて全然進んでないんだから仕方ないではないか」という主張もあるようですが、知らなかったら差別してよい訳ではありません。無知は差別の免罪符ではありません。
生活の中にある身近な差別
なおモスクの件以外にも、日本人は差別だという自覚がないまま差別行為をすることで知られており、たまに日本の外でも軋轢を起こしています。
例えば、日本では普通のこととして受け取られている従業員採用時の年齢確認ですが、これはグローバルな基準では差別です。年齢は「本人の努力ではどうしようもないこと」であり、それに基づいて「採用するか否か」の評価をするので差別に当たります。
ただもちろん、求人条件として「20年以上働ける人」を提示するのは、それが妥当であれば構いません。
一方日本では「差別」とみなされている「学歴差別」ですが、これは反対に海外では差別とみなされません。人間は努力しさえすれば東大でも京大でもハーバードでも希望の大学に行き希望の学問を学べるのだから、学歴は「本人の努力ではどうしようもないこと」ではありません。また受けてきた教育や学業成績で本人の資質を判断する行為は正当です。従って学歴での選別は差別ではありません。
日本国内でも、最近では被災者に対する差別をそこここで見ます。
「畸形児の孫が生まれると嫌だから、福島県出身の女の子とうちの息子を絶対に結婚させない!」と息巻いている人もいますが、それは明らかに差別です。2011年3月11日に福島県内に居住していた、という過去は、如何に努力しようとどうしようもできません。
また、たとえ畸形児のお孫さんが生まれる確率が100%だとしても、そのお孫さんの両親である息子さんとその妻がそのことに納得済みなのであれば、自分の息子とはいえ他人の婚姻や出産に反対する行為は不当です。
実際には明快に「差別」「差別じゃない」と線引きできない事例も多くあります。しかしそのような事例は「正当か不当か(法令に抵触しているか、現実に不利益が生じているか否か)」「実際の行動か否か」「本人の努力ではどうにもならないことか、どうにかなることか」といったいくつかの軸から検討することで、多少なりとも建設的な議論ができるはずです。
「差別なのは分かったけれど、でも差別感情を持ってしまうのは仕方がない」という意見もあります。そうですね、差別感情を持ってしまうのは仕方ありません。
人間には内心の自由があります。心の中ではムスリムなんて全員テロリストだよね、とか、福島県民全員去勢すればいいのに、と思っていたとしても自由です。まったく構いません。
しかしその気持を表に出すのはやめませんか?
嫌いな人、理解できない人、好きになれない人を無理に受け入れようとする必要はありません。しかし、それでも、差別は悪いことなのです。
いきなり信仰の自由否定ですかw
という気持ちは表に出して良いのでしょうか?茶々ではなく,真面目な質問です.
?どうしてそれが信仰の自由の否定とうけとれるのでしょうか?
「個人の努力で信仰はどうにでもなる」という考えの方が改宗や棄教の強要にもつながるため、信仰の自由の否定に近いのではないでしょうか?
我が国では言論の自由が保障されていますが、それは「公共の福祉に反しない限り」という限定つきです。
差別言説は「公共の福祉に反し」ているため、表現の自由の保護対象ではないと考えています。
「その気持を表に出すのはやめませんか?」という呼びかけは、この差別言説をやめよう、という意味の呼びかけであり、差別言説と対等なものではないと認識しています。
「努力可能か否か」を「差別であるか否か」の判定に適用するのは危険ではないかと思います。そう思うのは「自己責任論によるバッシング・差別」の事例が少なくないからです。そして、皮肉なことに「自己責任論によるバッシング・差別」に走り易いのは、保守的な人間よりむしろ近代的な人間に思われるのです。
はじめまして。
「努力可能か否か」を持ちだすのは確かに危険ではありますが、それでもこの軸をあてることで差別の適用範囲が適切に限定されるので、注意しながら用いる必要があると思います。
自己責任論によって生じるかずかずの問題は差別問題というより、社会に適切なセーフティーネットがないことから生じる問題であると考えています。
人間には当然「努力してもどうにもならない」ことはたくさんあります。才能ある人間が厚遇されるのは当然ですが、たとえ才能に乏しかったとしても、不当な不利益を受けるべきではなく、そういう人たちを無為にバッシングしてはならないのも当然のことです。
第一印象と差別の境界線ってどこにあると思いますか?
いつも思っている素朴な疑問ですので、お答えに関してどーのこーの言うつもりは一切ありませんです…。
セクシャルマイノリティへの差別も未だ解決のきざしが見えませんね……「気持悪いのは仕方ないのだから差別じゃない」とまで言い切る人もいます。
少しでも生きやすい世の中になればいいですね。
はじめまして。
第一印象で「何となくこの人好きになれないな」ということはあると思います。もしかしたらその理由が、その人はゲイだとか外国人であるという理由かもしれません。何にせよ、心の中でそう思っているだけでは差別にはあたりません。
しかし例えば職場で「彼は外国人だから昇進させないようにしよう」とするのは差別です。また、「あいつはゲイなんだって、キモイよな?」と言いふらすのも差別です。
「特に明確な理由はないけれど、何となく個人的に気に入らないから昇進させるのはやめよう」は、差別ではありませんが不当な扱いではあります。
不当な扱いはそれはそれで忌むべき悪だと思います。
回答になっているでしょうか?ご参考になりましたら幸いです。
体力のない人をレスキュー部隊には入れられない、工学を知らない奴に機械設計など任せられない。
明確に「能力」があり、それで区別できる分野において、「努力」を否定するのはナンセンスだ。
努力してる人に失礼だ。
努力してなお能力の足りない人は、向いていないのだよ。
それをフォローするのは「自己責任論になるから努力とかいっちゃだめ」なんて考えじゃない。
「生活保護」などの社会保障分野だ。
向いてないと思えばいつでもやめて良い、そういう世界を作るのは「努力の否定」じゃない。
ある分野で「無能」であることを受け入れる社会だ。
努力不足のバッシングが問題になるのは、社会保障がしっかりしていないからというだけ。
努力大いに結構。
批判する対象が違う。
レスキューや機械設計が云々はそのひとの能力が定められた基準を満たしているかどうかであって、努力とは何の関係もないじゃん。
そうだよ。
世の中には基準があって、そこを求める人は基準に達しなきゃいけないんだよ。
逆に「努力してない奴」の存在を定義しちゃうのが理解できない。
努力の質に違いがあるだけだろ。
何もせずに、何かを為せるわけがないんだから。
ここが一番本質に近いのに又の機会とは如何に?
まあ今回の件は差別だと思いますが。
結局、この事が反対してる人たちに「実感として」伝わってないのが原因なだけ。「ほとんどのテロリストはイスラムじゃねーか!」と言われて返す言葉は僕にはない。まぁビンラディンも退場したし、時間が解決するまで待つのが得策だよ。その点で「強引に進めたくない」と言ってる副会長さんには好感が持てます。
追記いたしましたが、「特定の(グループやカテゴリ)」の意味が曖昧に感じられたことと、旧来の限定的な定義ではすくいあげられなかたった新たな差別を拾いたかったことが理由です。
努力についてのお考えに完全に同意します。
人生で失敗した際に社会保障を受けるのは恥であり罪である、という考えは恐ろしいですね。
本稿の目的は分かりやすく実用性のある差別の定義をさぐることでしたので、アーレフという個別問題への深入りはまた他の機会にしたいと思いました。
記事内にも少し追記しましたが、ムスリムによるテロの実態を知らないからといってムスリムを迫害してもよい理由にはなりません。
知らないのも怖いのも仕方がありませんが、それに対する正しい対応は「知ろうとする」「怖いという感情をしずめる」であるはずです。
わが国には「感情」を過大に尊重する風潮があるというか、「怖いのだから差別しても仕方がない」「育児に疲れていたのだから子殺ししても仕方がない」のような意見が多数を占めることがあります。
差別もいじめもいかなる状況下でも許されない、という認識が広まればよいと思っています。
「常識的な努力」という点に若干の危惧を覚えます。老化による適応能力や寛容性の低下、地方在住による教育や学びの機会の少なさなどを考慮すると「常識的な努力」がどれほど自明と言えるでしょうか。
セーフティネットの必要性には同意します。差別その他の問題行動を起こさない(確率が高い)ような「知的レベル」や「精神的力の余裕」は「豊かさ」の一種であり、経済的な豊かさと相関性があるものと考えてます。従って経世済民の策が重要ですね。
地方在住者は経済的困窮、生活不安によって精神的余力を喪失しているのです。そこを考慮せず、古人の「恒産無くして恒心無し」という知恵を蔑ろにして愛国心という精神論に拘ったウヨは敗北しました。これと同じ過ちをリベラルの側が犯しつつあるように見えて私は危惧しています。「貧困とは単にお金がない状態なのではなく、社会的排除なのであって、社会的排除の状態が貧困なる者から働く意欲を奪っていくのだ。」という言葉がありますが、地方在住者の困窮に対する有効策も打ち出さないままに「差別はよくない」と唱えても精神論としか受け取られず、改善の意欲を喚起することは出来ないでしょう。
最後に、今回の件を報じたのが読売であった事はかなり注意が必要だと思われます。新自由主義推進、奴隷労働者の移入に熱心な読売にとっては「田舎者=無知・野蛮人・悪人・『国際化』への抵抗勢力」というレッテル貼りに好都合な出来事ですから。