2011-10-07
■[日常] 
朝5時半。起きてすぐ深いため息をつく。すごく寒い。
いまから今日しなきゃいけない残った仕事をしてから会社に行く。こういうこともあたりまえにできるようになって、できなかったことができるようになって、そういう瞬間が結構好きなんだ俺は。俺はあんまり仕事とかしたくないと思ってるけど、でも俺はいつも『お前らができることなんかなんだって俺はやってやるぜ』と思って生きてきたのでこれをやらないわけにはいかないんだ。一人前になりたくて生きてるんだ。
という書きかけの日記があった。半年以上前の日記だ。
インターネットを始めてからずっと俺はこういう事ばかり言っていて、そして実際に少しずつ、選び取ったとおりに自分が行動できるっていう自信や感覚をなんとなくからだの内側に持てるようになってきた。いつかの俺には、言葉でしか持ち得なかったものだった。
もちろん、それといっしょにいろんなものが少しずつ無くなっていった。嫌いな部分だけえぐりとる、そうしたらよりよい、その時その時の最良解に俺を持っていけるはずだ、なんて考えは単純すぎる。不可能性の欲求だし、いつでもたゆまず自分をよりよくするためにだけ生きていけるわけでもないってことも分かってる。
俺はこの何年かで驚くほど下品でランボーになった。それはきっとその部分が、俺が社会で生きていくために必要なチューンナップだったんだろう、と思う。それを悲しいことだと思うか、と聞かれたら、俺はそれを悲しいことだと思う。でもそれは、ずっと選び取らないことによって選択を済ませてきた俺が、これからは自分で、意思を持って選び取って生きていくんだと思って確定させたことだった。俺がつまらなくなっていくんだったら、それは俺がそれを選んだだけのことだ。それだけのことなんだろう。と最近は思っている。「つまらないやつは結婚して子供でも作ってろよ」ってこういうことなのかもしれないね。
まあ同じくらいそうなってたまるか、とも思っている。要は、生活に押し流されてたまるかよっていう気分と、それも仕方ねえなって気分の間をずっと行き来しているというだけなんだけど。
ももいろクローバーのライブDVDがとてもよかった。あいまあいまに入るプロレス的演出やかけあい、そういうあまり俺が好きではないものがすこし気になるのだけど、「なんでもできるようになりたい!」とまっすぐに言っていたももいろクローバーがそれを全力で演じる瞬間、なにか意図のようなものを軽く飛び越えて純粋にももいろクローバーの美しさが、玉井詩織の美しさが見えるような気がして、俺はすっかり見惚れてしまった。すべてがこちらを向いていて、全力だった。そして俺はそれが好きだった。それだけで素晴らしかった。
2010-11-24
■[世界] 
日記だった。日記だった。何も書けないんだ!なんていう季節は過ぎた。俺はただ日記を書いた。俺はいつでも俺の書けるようにしか文章を書けなかった。俺は俺でしかないし俺が好きだった。俺はいつだって俺の嫌いな俺はいなくなってしまって俺の好きな俺だけが残ることばかり望んでいた。そんなことは最初からあるはずもないことだった。俺はいつだって俺だった。俺は社会生活をしている。俺は勉強をしている。俺はゲームをしている。俺は音楽を聴いている。俺は本を読んでいる。俺は好きな人たちと話をしている。俺は何もしたくない。俺は泥のように眠りたい。それはすべて俺だった。俺の文章はめちゃくちゃだ。俺の日記はめちゃくちゃだ。俺の理想はめちゃくちゃだ。ただ、日々だけが残っていた。日々は俺を磨耗させて、そしてたまの慰めで薄笑いを浮かべるだけの単なるモブになってしまいそうだった。『あれから何年経つ?』俺は、俺は、俺は、なんて言っていても俺はいつか俺の事だって忘れてしまう。俺にはそんなことは十年前には分かっていたことだった。俺は、俺の好きなものの話や、俺の感情を不安定にさせるものの話をして、そして俺がより善く生きるための日記を書こうとしていた俺だった。俺は俺の好きな日記がすべてそうであるように、自身のことを書き続けることしかできない。俺の言葉で語る俺の日記だ。よくできたエンターテイメントでもない、気持ちよく理路整然としたものでもない、悲しくて気持ちの悪い、エモーショナルで頭の悪い俺の日記だ。自虐でもなんでもなく俺はそう思ってる。それでも、俺は俺の話を俺の語り口で喋ることしかできない。
そして俺は、気付いたらももいろクローバーの玉井詩織が好きになっていた。
2010-09-01
■[日常] 
今日は村上隆の話をしていた。村上隆は現代美術という完全に言語化されてしまった場所でまだ種明かしがされていない場所を示し続けるために作品を作り続けている人間で、それはアートの文脈において本当にすごいことだ。俺はあまり村上隆の作品自体には(この表現は無意味かもしれない。なぜなら村上隆が現代美術だからだ)興味がないのだけど、でも本当にすごいと思う。現代美術というのは言語のフィールドだ、ということくらいしか知らない俺にすら彼のやっている表現が正当でアカデミックなラインに則ったものだってことはわかる。現代美術的に正当だってことは人を食った一種の手妻のような側面があるから、正当だって言う表現だとなんだかおかしくなってしまうのだけど。そして俺の『作品自体には興味ない』って態度だって実際に圧倒的なテクニックで作られた作品が眼前に提示されたらそんなの吹っ飛んでしまうかもしれないな、と思う。
話題になったのは村上隆のベルサイユ宮殿での展示に対するインターネットの発言のほとんどがあまりにも低レベルな、他のものがそうであるように『美術』というものにも特有のルールがあって、そこにはそこの言語野が存在するという考えをまったく持たない、『なんかフランスで日本の文化とか言って恥ずかしいフィギュアを押し出してるみたいだからやめろよ』といったレベルの意見がボロボロ出ていることだった。それを見て、俺の友人は『改めて絶望した』と言っていた。そこで少しはっとなった。
俺が感じたのは彼ら(そこには村上隆も含まれる)が決して大多数の人間に絶望していない、すごく期待しているという事実だった。俺はもうそういうものを見るのをやめよう、俺と他人は関係ない、圧倒的に個人的なよりよい状態だけを推し進めよう、そして静かに死のうと思うようになっていた。「馬鹿に期待するのなんかやめようぜ」っていうすごく閉じた感覚だった。そんな考えは俺の好きな俺じゃなかった。殺すべきものはいつだって殺すべきだった。なぜ好きだとか嫌いだとか、そんなことばかり言ってやろう。指を突きつけて言ってやろうなんて言ってた、俺が昔好きだったブッキラボーな文章書きの事や、黙ってたって時代は変わるから 参加しないことは別に罪じゃないって言ってたギラギラした目をしたラッパーの曲を思い出した。俺はいつだってあいつらのことをすげーと思ってた。でもただ見てるだけじゃないぜって思ってた。そういういつのまにか忘れてしまいそうな気持ちをたくさん思い出した。
2009-11-09
■[日常] 
今日は久しぶりに父親と話をした。すっかりやせてしまっていたが、どうやら大丈夫なようで、ほっとする。やせてしまった父親といろいろな話をしていると、南Q太『トラや』の中にあった、自由業の息子が入院している父親に会いに行くシーンをすこし思い出した。『トラや』は1巻しか読んでいないのだけど、甘やかだけどゆるやかな関係性の心地よさと時におこるささくれのような気分の両方を上手に書いているマンガで、南Q太のマンガのなかでは一番好きだ。まあとにかくそのなかの父親に会いに行くワンシーンを俺は思い出した。俺は今までの人生で中学生くらいから以降は、たいてい父親には怒られ続けて過ごしてきたのだが、『どうにか大学も卒業できて、春から社会人です』といったような報告じみた事を話していると、いつごろから見ていない表情か、とても顔が優しくなっていて、いろいろとこれから気をつけるべきことを静かにしゃべってくれたり、『まあ、しっかりやれよ』といったような感じの事を言われて、俺はとても嬉しいような、寂しいような、泣きそうな気分になった。そのいたわりがとても、弱ってしまった事を表しているようで、いやそうじゃない、そんな絵に描いたようなこと、と思うとそれはそれで長い間ずっと心配をかけ続けたことを思い起こさせて、俺が子供だということをとても強く自覚させた。家族というある種暴力的な関係性の中で、俺は様々な齟齬に反抗してきたんだけど、でも無償の愛というものを与えられているという事もどっかしら分かっていて、それを改めて見せられた感じがした。俺はとても恵まれているなあ、と思った。
(追記)家族のことについて書くということは俺にとってある種勇気のいることなので、アップする気になれずに書いたまま放っておいた。だけど、なんとなく今の俺ならこういうことを書いて、見せてもいいような気がしたのでいまさら。元の日付(2月)に公開したつもりだったのだけどなんか一番上に表示されてた。まあいいや。
2009-07-24
■[日常] 
いらだちがドアを叩くような年齢でこそないが昨日から続く雨は淡々と窓を叩き続けていて俺はそれに少しいらだっている。週末もずっと雨らしいので、家で本を読んで音楽を聴いてゲームをする。しかしちょうど俺はそういうルーティンにすこしの退屈と閉塞感を覚えて、今週はすこし遠くに行くか、などと考えていたのでつくづく嫌なタイミングだ。
昔好きだったウェブサイトのログを読んでいた。理由は『当時のエヴァなんてのはみんな深読みしてそれがカッコイイとか勘違いしてたから』というなんとなくイラッとする発言を現在の文章として読んで、(俺は当時それに触れることはほとんどなかったけれど)きちんとした感触で『当時のエヴァ』について触れたものがあったのを思い出して、しかしどんな内容だったかを断片的にしか思い出ないので読みたかったからである。そしてその文章は、それについて個人的な、だがしかし心理がどうだとか深読みがどうだとか言わず、そして(もちろん)あれによってすべての何か(全体、とでも表現すればいいのだろう)を語れるという考えなど持たず、あの瞬間に物語があったということについてだけ意味を(もちろん類推という形のものもあるが)読み取り、それについて書いてくれていた。そして俺は多少の『当時のエヴァ』の瞬間の意味を感じ取り、たくさんある『得ていないもの』に対して少し複雑な感情を抱きつつ、またがんばれるのだった。がんばれる、という表現ではなんだかけっきょくバカのように思われるかもしれないが、実際俺はバカなので、「がんばれる」という表現をすることしかできなかった。具体的に書けばとても陳腐な言葉がたくさん出てくるし、『そのひとつひとつが目的なのですか』と言われるとなんだかそれも違うので、俺がここに日記として書ける言葉は、俺はがんばれる、というそのものだけだ。
物語にもならないし啓蒙にもならないし何にもならないことを書いている。はたしてこういうことが書きたかったのだろうか。しかし文章の内容に触れることは(現在の俺には)意味のないことだ。いつものようにこれはただの日記のままだった。
2009-06-22
■[日常] 
朝早くに目が覚めたので日記を書こう。
昨日は昼ごろに起き出して、少し遠くまで買い物に出かけた。僕はとくに欲しいものはなかったのだが。同行者はいろいろと欲しいものがあったようで、一日その買い物に付き合った。ほんとうは『レスラー』を見に行きたかったのだけど、セレクトとしてまったく適当ではなかったので諦めた。まあでも楽しかったということにしておこう。そうしてふたりで食事をして、駅まで送り届けて家に帰ってきた。
そんな感じだった日曜の夜になんとなくいろいろと眺めていたら、ウェブ上にあった(まあmixiだよ)、昔の知人の日記を読んだ。どうやら彼の昔の話(高校生の自分の話だった)らしい、その日記には僕であろう人にいろいろと嫌な思いをさせられたのであろう記述が出てきていて、その僕は非常にラディカルで独善的な人だった。僕はそれを読んで、『これは違うよ、事実と異なる』と感じた部分も多々あったのだけど、そんなことはどうでもよくて、彼の中でそれが消えることのない嫌な思い出としてだけずっと残っているんだな、ということに、僕が連続性や一貫性をそんなに重要視していなくても、かつての僕はずっと残り続けているというそのあたりまえのことに少しぼんやりとして、哀しくなった。だいたい一対一の関係性の中の単なる事実なんてものは重要じゃなくて、時が経ってしまえば相互の認識だけが事実になる。僕は昔の話だから自分がいやなやつだったってことなんか覚えていてもなんの実感もないけど、きっと彼にとってはずっと実感を伴って覚えているのだろう、そうだとしたら僕は彼にずっと嫌な記憶を引きずらせてしまうのだろうな、とか考えた。とはいえ後悔するかどうかというと、もうそれが事実かどうかは別の問題として、嫌な思い出をつけてしまったということ自体に『それは悪かった。』とは思うけどまあどうしようもないのでそれしか思えない。その克服にきっと僕は付き合えない、という、なんの思いやりもない意見しか出てこない。そうして今現在その僕に関する文章が書かれたこと自体によって僕が誤解(という表現は適当じゃないな。文章そのままの意味で認識、とでもいおうか)されることすら僕は割とどうでもいいんだけど、そこで露悪的に振舞ったり過剰な贖罪の態度を取ることもきっとなんだか違うんだけど、そのきっともう交わらない線に対して、『悪いなあ』という気分だけがずっとつきまとった。
よくわからない話だ。でも具体的に書いてもしょうがないし、共有や理解を求める話ではないし、『些細で致命的な出来事』が他者にとっては続いている、という話だった。


普段は暖色系のイラストを描くことが多いのですが、今回はブルーを使ってみました。
幽霊みたいで私も気にいってます^^
飽きたらまた仰って下さいね笑