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2/1から約半年ぶりにエジプトに来ましたが、来た当日にポートサイードのサッカースタジアムで多数の死亡者が出る衝突事件が起こるという疫病神ぶりを発揮しております。もう自分はエジプト来ない方がいいんじゃないかと思うほど。
まあそれはともかくいろいろ現在の状況に思うところはあるものの、一番感じるのはテレビや新聞、ネットで流されているエジプトの状況と、自分が今実際にいる感覚との乖離でしょうか。メディアで伝えられるエジプトは確かにそこにあって、今日も何人かの死者が出ています。しかしその一方で僕は朝にブックフェアに行き、昼には後輩とお茶を飲み、夜には久しぶりに再会した人とご飯を食べて、12時を回ってから帰ってきました。これもまた確かに今のエジプトに起こったことです。
去年の革命の時には次々と予期しない方向に事態が発展してゆくことについていけず、パニック的な状態に陥った感がありますが、現在の状況は「今のところ」ある限定された範囲を逸脱するものではなく、自分の生命に危険が及ぶような事態に至るような感覚はありません。その一方でエジプトの治安自体はここ最近でぐぐっと悪い方向に向かっているらしく、その点については予断を許さないわけですけれども。
2009年のイランでの騒動の時には僕もネットの情報とともに狂ったように踊ったわけですが、Twitterやyoutubeで送られてくる情報を一体どう咀嚼してゆけばいいのかという点については、まだまだいろいろ考えなければならないことが多いと感じています。
私たちの頭脳は、連続性を扱うことが不得手なのだ。異なる次元でいくつもの変数が相互に作用するときはなおさら苦手になる。単純な二分方に走りたがるのも、そうすれば難しいことを考えなくてすむからだ。日常生活をうまく乗りきる経験則がたくさん身についたのは、ひとえに進化のおかげだろう。けれどもそれはうわっつらだけの話。科学のほんとうの中身はきわめて複雑で、二分法的な思考では歯が立たない。知識の広がりを脅かすのは、ほかならぬ私たちに内在する限界なのだ。
左と右、反原発と原発推進、粒子と波などなど、我々の認識する世界にはいたるところに二分法が組み込まれているので、この呪縛を逃れるのは非常に難しいなと思う今日この頃。
二分法でおもしろいのは、あれだけ白熱した議論が、どちらの説も正しいと指摘されるときれいに収束することだ。
(同書、p.183)
上から目線最強説と言えるかもしれない。
超新星
「……特定のイシューの登場、展開、決着を、政策要求をめぐる対立と妥協の過程という観点から整理し、こうしたケース・スタディをもとに政策決定過程が示す何らかの構造を発見しようとする試みをイシュー・アプローチと呼ぶ」(大嶽秀夫『政策過程』東大出版会、1990年、p.10)
「二項対立的構図からはなれた政治過程分析をつうじて、云々」という私の立場は、じつはそれじたい矛盾した前提なのかも…と博論執筆時にこれを読んで思ったことを思い出しました。
almadaini
返事が遅れてすいません。ようやくいろいろな締め切りに一区切りつきました。
矛盾かどうかは難しいところですねえ。まあしかしイシューそのものの当否とは別の次元で分析してると思うので、二項対立的構図からは離れていると思いますが。
ただ、ややこしいのは当事者たちが自分たちの置かれている立場を二項対立的に捉えていたか、捉えていたならそのことが実際のイシューにどの程度影響したか、という点までを考慮にいれなければならないとする場合でしょうか。んー。
超新星
どうなんでしょうねぇ…。当時の連中は「二項対立」といえばいえなくはないんでしょうけれども、「正しい自分vs間違っているその他」みたいな議論のようにもみえますし。そこから議論のための議論になってしまってるような感じもしますかね。
親分が上洛され、ついさきほどまでご相伴しておりました。
その話の内容が正しいか、あるいは妥当かどうかを判断するための基準を人に置くかテクストに置くかは悩ましい問題だ。
初期イスラーム時代のハディース伝承者は、原則として「誰がその伝承を伝えてきたか」ということを基準にしてその伝承が真正であるかを判断しているように思われる。これをもって僕は彼らの伝えた伝承がどの程度信頼が置けるかということに疑問を持つ。
翻って僕はTwitterで流れてきた話に対して、やはり誰がそれを言ったか、誰がそれをRTしたか、によって判断が相当に左右されているように思う。自分の中で情報としてひっかかったRTの場合は、必ずそれを発言した人のプロフィールを見てしまう。
テクストのみで判断する方がより厳密な判断が可能だと思う。ただそれには相応のコストが必要となる。自分の知っている/信じている情報が、どの程度の割合で事実でないかを知ることは、今も昔も実際上困難だろう。
ここで、こうした新しいヨーロッパというものが、多くの誤謬から形成されたことを注意しておこう。十九世紀以降の専門体制下の科学者は、「真実」を語ることを強制されている。十七世紀の数学者たちは、むしろ多くの誤りを述べていた。
おそらく創造のためには、「真実」を語ることが、それほど有効ではないだろう。まだ「真実」が保証されないような、あやふやなことを論じあう中で、たとえその九割が虚偽だとして投げ捨てられようとも、残りの一割の中から<真理>が姿を現してきたものである。少なくとも十七世紀はそういう時代であった。
(中略)
じつはぼくは、現代でももう少し科学者たちに誤謬が解放されているほうが、創造のためにはよいと考えている。十割の真実ばかりが語られるよりは、九割とまではいわなくとも、五割程度の虚偽を伴った言論のほうが、創造を刺激するのではないか、と考えている。
最近自分の中で「適当なことを書くモード」が高まってきたところに、タイムリーな言葉。
ぐっと矮小な例で言うと、京都大学には人文研究所というホラフキ文化人のたまりがあって、戦後文化に刺激を与えてきた。人文研の現在の人の説によると、その昔の制度のととのわないころは、大部屋に寄り集まって、年じゅうなにやらわからん議論をしておったのが、活気のもとだったそうだ。それが当今では、研究室が整備して、みんなが研究に専念しはじめて、かつてのホラフキの栄光はないのだそうな。
(同書、p. 214)
のだそうです。
昨日結構遅くまで起きていて、タハリールのデモがどうなっているのか、ある程度情報を得てから寝たので、かなり寝不足。でも七時半には起きて、九時に文書館へ。昼にいったん帰って、午後から場所の移った国立図書館の写本室に行き、それなりに日々をこなす。
(ちなみに二日目はアレクサンドリア図書館に日帰りでマイクロを見て、三日目はポリスデーで休日だったので仕事は特にしませんでした。)
今日もデモは予定されているようで、多分一番大きいのはナスルシティのではないかと思うのですが、もちろん正確な情報はありません。図書館からの帰りには弁護士(ジャーナリスト?)協会みたいな建物に、人がたくさん集まって声を上げているのを見ました。デモの一つでしょう。
ただ、町はきわめて平常運転でありまして、普通の暮らしが営まれており、騒然とした雰囲気というのはほとんど見られませんでした。タハリール広場も通りましたが、警察が多いくらいで、なにごともなかったようないつものタハリールでした。
明日はまたアレキサンドリアにまた予定なのですが、情勢がどうなるかわからないところがあるので、ちょっと迷っています。
あと関係ないですけどさっそく腹を壊しました。昨日食べた汚い中華の麺だろうかと思いますが、カイロでも中国人がどんどん増えてきているようです。
<追記1>
今もTwitterにつながりません。やっぱりブログと比べてTwitterの拡散力というのは凄いなというのが使えないときによくわかります。独裁国家がTwitterを禁止する理由がよくわかります。
まあ僕の認識が甘くはずしているだけという可能性も十分あるわけですが。