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2008-12-15 第2部:各論1:第1章「創作に使えるカード」

 それでは、ここから「創作に使えるカード」、創作に取り入れられる外部要素について、考えていきたいと思います。基本的には、この章では、>i(input/インプット)の問題を扱います。


 先ずは、創作における端緒。「モチーフ」から考えてみます。

[]1-1「モチーフ」(>i1-1「モチーフ」(>i)を含むブックマーク


 モチーフは、創作の直接的な達成目標の目安であり、その創作に内実を創るための重要なものです。モチーフは、具象の場合もあれば、抽象の場合もあり、富士山初音ミクのような目の前の風景から、しあわせさや気持ち悪さのような何だかわからない感情まで幅広く存在します。すなわち、世界全てがモチーフになりえます。いずれにせよ、モチーフを選択したら、それを自分意図通り、正確に創作物に反映させる必要が生じます。写実ならそっくりに、抽象ならイメージ通りに、といった具合です。いずれにせよ、脳内では、モチーフ抽象存在に変換し、脳内の様々な要素と結合される事から、これは創作的達成の為の「イメージ2-3)」そのものとも言えます。


 一般的に、モチーフは、自分共鳴するものを選ぶ場合が多く、また、それを通じて何かを伝える。といったような、多重性を持つ場合が多くなります。それ故、ある感情を伝達したい場合に選ぶモチーフなどは、選定に困難が伴う事になります。例えば、押井守の「虚構と現実」のように一貫して繰り返される抽象的なモチーフが一先ず選択されたとして、それを表現するためには「東京」という具象のモチーフを選定したりしていかなければならず、更には、その東京を適切に切り取れるような細かいモチーフを無数に選定していくというような重層性を作品において敷いていく必要があるでしょう。その為、モチーフの選定は、それを選定した事により、創作をかなり決めてしまう部分があり、その選定には、かなりデリケートな作業を伴うものとなります。


 この為、商業要請も含めて、創作には、もともと動機、欲望が尽きまとって決められた方向性があるとしても、それを表現する為のモチーフ安直に選ぶと、創作の最大値が低くなり、創作を困難にして、モチベーションを低下させ、作品を過少にしてしまう場合が多々あります。例えば、ある主体に「ガンダムキャラクターを使ってマンガを描きたいという欲望」が第一に起きたとします。ここでは「ガンダムキャラクター」をモチーフにする事が決まっていますが、それを使って何を描くかという段階で、またモチーフの問題は出てきてしまいます。しかし、それが見つからない事でモチベーションを低下させてしまう作家は、単にイラストを描く事になるかもしれません。この時、おそらく、その主体はマンガで描きたかった何か(イメージ)を捨てているはずであり、作品を過少にしてしまう確率を高めています。その為、それを防ぐには、マンガで描ける新たなモチーフ、或いは、イラスト転向した事で得られる新たなモチーフを追加しなければなりません。そこでまた、この主体が、マンガを描く事を選択したとしたら、次の段階のモチーフ選定に移らなければいけないでしょう。例えば、ガンダムというモチーフに対して、例えば、同性愛というモチーフを同時に扱う事にするとしたら、それに対して、その同性愛はキチンと調べた上で描くものなのかどうなのか、上辺だけの何らかの表象のようなものなのか、という所で、モチーフに対する意識、見方、ひいては、作品自体の方向性が大きく変わってくるはずです。


 これは、イラストでも同様の事が言えます。ある主体が、ある人を描いても、その人がどういう人か、どういう服を好んで、何を考えているか、といったような事は、モチーフに対する観察からしか生じえません。この意味において、他者の創作の模倣はモチーフ安直な選定であり創作に流入させられるコストを過少にします。


 この事から、概ねにおいて、モチーフは、自分の表現したいイメージリンクする方向に向かう事を良しとするはずです。もちろん、それが本当にリンクしてるかどうかは描いてみないと分かりませんが、ある方向性は、あるイメージへの自分適応性、個人の趣味趣向によっても大きく左右されますから、ここを個人の趣味趣向通りに創作するかどうかは重要な分岐問題となるでしょう。


 以上のような事は技術的な問題は省いて書いています。技術的な事柄とモチーフには相関関係があり、創作が失敗している場合、それは技術的な問題によるのか、モチーフの問題によるのか、という想定は、創作において大きな意味合いを持ってきます。この意味において、モチーフの選定には、TPO最適化問題が絡んでくるでしょう。


 創作を受容者までリーチしようと思ったら、その前段階で練習が必要であり、それを身体に蓄積していく必要性が生じます。但し、練習も漠然とやったら巧くなるものでもなく、どうあれモチーフを使ってやるものですから、練習用のモチーフと本番用のモチーフでは有効性の高いものが明確に異なるはずです。そこで、モチーフTPO目的)に合わせて適切に処理される必要があります。


 にも関わらず、創作は練習の延長上に存在し、本番こそ最良の練習であるため、しばしば、そこが混同され、モチーフ重要性を把握してない創作が溢れてしまう事になります。事に、創作お金になる状況では、欲望が巧くモチーフと結びつかず、欲望の方向性(創作の動機)とモチーフを分離させてしまう事が多くなりがちです。しかし、そういった創作も、インターネットのような場においては、広く流布する機会を得られ、受容者にリーチする可能性を持ち得ます。その為、創作のための創作が、創作と混同され、モチーフ重要性に対する認識が薄れ、ただ漠然創作をしてしまうといった状況がインターネット環境下では多く見られるようになってきたと言えます。


 これはこれで、新たな傾向を生みだす面白いムーヴメントなのだと捉えられますが、個人的には、こうした環境下では、逆説的に、モチーフに対する強い意識が必要だと考えています。モチーフに対してはアバウトに考えてしまうと、アバウトな創作が出来てしまうので、作品が力を持たないといった事態が出てきがちだからです。コスト的に言っても、外界のデータを出来るだけ入れた方が創作物がデカくなりますから、モチーフを詳細に把握して、それを創作に適用するといった事は重要だと考えます。

[]1-2「資源リソース)」(>i1-2「資源(リソース)」(>i)を含むブックマーク



 モチーフは、資源リソース)に元を辿ります。


 自分創作の上で一番重要だと思ってるのは、「時間1-3)」、もしくは、「動機(モチベーション)(1-4)」です。そのどちらが最重要かは分かりませんが、その二つがあれば、その創作は間違いなく成功すると思います。そして、その二つをも包括する要素が「資源リソース)」です。そういう意味では、創作においてリソースが最重要なのだとも言えます。ここでは「資源リソース)」について書いてみます。


 まず前提として、リソースというものは、不変です。人知でどうにもならないレベルの出来事をリソースと呼びます。それ故、リソース世界の中で固定化されており、世界そのものを指すと言っても良いでしょう。最初に「資源リソース)」と表記したのもその為です。ここでは、人知で介在できない流動的要素を掘削し使用するイメージリソースを考えます。 

 

 そもそも、基本的にリソースといった事を持ち出したのは、21世紀に入って、作品における「主体」みたいな事が無駄になってきた、コストが流れがちになってきたと考えているからです。もちろん、これは、単に感覚的に自分フィットしなくなってきたというだけの話ですが、しかし、それが何で起こるのか?というと環境の変化だろうという風に個人的には考えてみました。環境は、もちろん、行動を規定する不変の要素=リソースと捉えられますから、いずれにせよ、主体みたいなものは、概ね、環境スポイルされる。人間は、自然によって揺り動かされる存在だと考えられるようになってきたという事です。今、この文章を打ってるのも、打ってる先のPCが出来たのも、概ね、自然の流れでしか無いと言う捉え方です。


 これは、ある意味で、人知で世界を改変する=創作真逆の考え方ですが、創作は、そうした前提があってこそ、むしろ、主体的に分岐経路を選択できて世界に根を伸ばせるのではないかと考えます。つまり、リソースというものを考えて、それをどうしたいのか?というと、個人的には、リソースというものがコントロールできないものだとして、しかし、自分の持ってるリソースを点検して、優先順位をつけて、数量的に組み合わせれば、自分コントロールの出来る範囲を増やせる、最終的な創作の幅が広がり、レベルも上がるのではないかと考えています。自分世界を形成する一部と捉えることで、はじめて内部の問題として人為的に世界形成をイメージ出来るのではないか?という想定です。


 例えば、あるレベルイメージに基づく創作を目指すとして、それは現存するリソースから考えて、一人でやったら千年分のコスト投下をしないと到達できないようなレベル創作だったらどうするか?とか、そういう事を考えてみます。極論すぎますが、「ヒカルの碁」とかを読むと、そういう事をイメージしたり出来ます。あのマンガは複雑な人間関係を時空を超えて分かりやすく描いた事により、創作の上昇に対して、どういう経路が必要か?という事を分かりやすく考えられる素材になっています。この場合は、囲碁という共有物における「神の一手」に至るにはどうするか?という話ですが、これは、自分のやってる絵の世界でも、数百年単位過去の絵を山のように見れるので、そこから自分の絵にどう至っているかという想定などを日頃よくします。つまり、創作(の方法論)を介した、人と人との技術の受け渡しです。


 そうした場合に重要になるのは「時間1-3)」というリソースです。但し、時間というリソースは有限なので、個人では、当然、千年というスパンにはとても耐え切れません。そこで千年の時を超える為に、自分創作ノウハウ伝承させる事を作品単位による創作的達成と同時に考える必要性が生じます。そうすれば、創作の内にある要素が、一部は伝承され、やがて、自分イメージ創作的達成を得る契機を得るでしょう。そうやって、自分創作の一部分が文化として世界に固着する。その固着した部分こそ、つまり、リソース化した自分観念です。そうしたリソース(文化的資源)は、万人に幅広く使用できる状態となっていますから、そうやって自分の方法論がリソースと化せば、「文脈(1-5)」として自らの創作の経路の継続を他者に委ねられます。


 こうして21世紀下では、他者性が作品において重要性を帯びて来るのではないか?と考えるわけですが、但し、基本的には、人の一生、人の意識はもっと短いので、創作はもっと短く、一時間とか、一日とか、1ヶ月とか3ヶ月とか、一年とかいうスパンで考えて行われるのが一般的でしょう。その場合は、現状、得られるリソースにまるっきり頼る事を考えて、コスト最適化し、創作において、あらゆるリソース、つまり、リソースを引き出す為のモチーフを点検する事に、その有効性を見出せるはずです。これにより、練習量が足りなくても、モチーフの適切な選定(または運によって適切にされてしまった選定)と、その理解(または運によって適切にされてしまった誤解)によって創作的達成が得られる場合が稀にあります。例えば、中学生などが中学生活を描いて、周りの人をたのしませられるのは、概ねの場合、創作レベルによるものではなく、この意味による場合が多いでしょう。これは、時間という重要リソースの流入が少なくても、外界のリソースモチーフを通じて流入され、その外界のリソースの持つコストの堆積量を創作に転換した例だと言えます。


 このようにリソースというものは、もともと存在するものであり、それを創作に混入させる術があり、そうした行為で、リソースという自然に元々蓄積されたあるコストの集積は、自分創作に堆積させられるものとして、経路を生じていける事になるはずです。そして、こうした経路、リンクの連なりは連綿と続けられるので、リソースを巧く使用できれば、創作に内包されるコストは上昇し、新しい創作が古い創作に対して優位性を持てる契機が出てきます。

 

 但し、リソースの使用という観点に立つ場合、その総量は単純に万人に開かれているわけではなく、元々使えるリソース多寡、つまり、環境要因が大いに力を発揮する事実存在しています。この事は、リソース多寡生得的な環境に基づく事を意味しますが、それを把握する為に、例えば、音楽をやっていた人が絵を描く事に転進するような事例、つまり、「道を変える」と言った事例を考えれば、リソース多寡環境の結びつきが、ある程度、分かるでしょう。つまり、道を変えた場合、モチーフを含めて今まで使用してきたリソースが使用できなくなる確率が高い(かけたコストが流れる)上に、時間という最重要リソースが明確に減ってしまった状態から、新たなコスト堆積をスタートしなきゃいけないという問題がありますから、こうして経路の切れたコストノウハウ無駄に流れると、意図した創作は途切れる事が起こり、創作におけるコスト堆積が、継続して「それ」をやっている人間に劣ってしまうという場合がほとんどになるはずです。この時間の断絶の繰り返しは、大半の人にとって通常、起こして当たり前の状態なので、普段、とりわけ、若い内は気にはなりませんが、創作継続したのち、仮に創作トップレベルの段階にまで登っていくと、稀にいる「幼い頃からやり続けてきた人」の存在が多数見えて、そのリソース最適化の有用性が気になってくるはずです。これは、その人達が主体的にやってきた為の差というよりは、幼少の主体性の低い頃から、環境要因によって、道に最適化されてきた人物の存在を示し、哀しいかな、天才と言われる人は、大体、幼少の頃から「それ」に特化させられてきている場合が多いという事実を裏付ける事にもなるでしょう。つまり、そもそも、人の行動は環境と言うリソースに大きく影響されてしまうものであり、それは、生まれてくる先、場所や、地形、親兄弟や周りの人間は選べない、当人にとって固定化されたリソースが生まれた段階である程度、ある方向性に対して、決められている量に差がある事を意味します。


 但し、インターネット環境下において、ノウハウは共有化しやすくなってるので、ノウハウの断絶(コストの完全な霧散)自体は昔より少なく、自分からは浮遊したと思われるノウハウコスト)が、どこかで誰かに伝達されている可能性が高くなっているのも今日の状況です。そもそも、創作は全ての行動が創作につながっていくので、創作的達成は、道の最適化への意図のみによって為されない事も多々あり、コストの連鎖は創作においては途切れにくくなっていて、現代においては、やった事に対しての無駄がかつてより減ってきた感があるという事は言えるでしょう。それは、社会が多面化し、色々な場面で色々な事が役に立つ契機が増えてきたという事でもありえますが、元より、色々やっていると適応力において、あとで価値が出るという面も存在しているので、リソースの不足は、大規模なネットワーク化によって、また違う面を発揮するのではないかとも個人的には考えています。これは、創作において、「自分」でなく「作品」を主役にする事が、生得的な要素を跳ね返す為の重要な部分になるのではないかと考えていますが、その事については「第3部:総論」で、より詳しく記述してみたいと思います。


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