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    「21世紀創作の現在」を中心にお送りするサイト。

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2008-12-16 第2部:各論2:第1章「創作に使えるカード」 2

[]1-3「時間」(i>o>I1-3「時間」(i>o>I)を含むブックマーク


 時間は、モチベーション1-4)と並んで、創作カードの最重要要素です。基本的に「21世紀創作」においては、時間の堆積が大きな問題を占めるでしょう。その為、時間の話は、本書のそこかしこの話題の中に混入されていきます。これは、時間が単線的で方向性があるという特殊な性質を持つ為、他の要素に全く代替できない要素だからです。


 時間は、その性質から、全ての行動のベースとなり、全て過ぎ去っていくものと捉えられます。創作には、この時間を固着し、過去未来に運搬する役目も存在します。そういう性質が創作の面白味でもあるでしょう。その意味で、創作の場において「時間」は常に意識されるべきです。その創作にどんな時間が流れ、どれだけの時間が堆積されているか?というのは、創作の場、つまり、創作物において、確実に現れる「結果」となります。例えば、今日は疲れたから絵を描かなかったという場合は、そういう時間の流れが後々の結果「創作物」に確実に堆積されていきますし、今日は疲れたけど、絵を描いたという場合は、そういう時間が「創作物」に確実に堆積されていきます。そして、こうした行為「コスト2-1)」を堆積する作業は、後戻りできない一回性の作業であり、二度は出来ません。それ故、時間は、創作において、最重要となる要素で、大切に扱わなければ、確実に減ってしまう重要リソースです。

[]1-4「動機(モチベーション)」(i>1-4「動機(モチベーション)」(i>)を含むブックマーク


 モチベーションは、「時間」と並んで、創作カードの最重要要素で、創作をする際の、そもそものきっかけとなるものです。どこかで何かのインスピレーションを貰えなければ、そもそものモチベーションは湧いて来ないはずです。例えば、日本人じゃなかったら、手塚治虫がいなかったら、周りにマンガ好きな人がいなかったら、自分マンガを描いてなかったかもしれません。そういう意味環境要因の強い要素です。


 モチベーションを維持するのは、一般的に困難です。生活に際しては、様々な問題が発生するので、モチベーションの位置が時に異なります。例えば、絵に対して、ものすごく燃えていて、絵を思いっきり描いても、翌日には、恋がしてえなーと思ってるかもしれません。そこでモチベーション多寡がどちらの方向に向くのかは重要な分岐経路になっていきます。これは、メンタルコントロールの問題もありますが、先読み/判断の問題でもありえます。どっちに行ったら、作品がよくなるかは分かりません。多分、恋をあんまりしてない人は、恋をした方が良いでしょう。絵をあんまり描いてない人は絵を描いた方が良いかもしれません。そもそも、作品がよくならなくても、恋をした方が良いという判断だって良いのです。どの経路も正解の中で、しかし、創作を上昇させるには、創作を上昇させる経路を辿る事が正解になりえます。


 その意味で、一般的に、努力は誰にでも出来ると思われがちなものですが、努力は誰にでも出来るわけでなく、それまでの蓄積と、モチベーション多寡に大きく起因します。そもそも道に対して方向性が最適化されていれば、努力の方向性が見えやすく、努力には才能や運や自覚的な判断といったものが後押しをしてくれます。そして、これには、環境要因も大きく影響し、自分ではコントロールできないリソース1-2)の問題も付随するでしょう。例えば、歌舞伎役者などは、そういう方法でレベルを維持してると言えるかもしれません。これは人生において創作からの逃げ道を失くす事によって、物事に折り合いをつけさせる。つまり、モチベーションをぶらさないようにして、創作を維持するような意味合いがあるはずです。これは、一般的に、多様な方法論によって創作を試みない伝統芸能のような方向性の方が、こうした事によりモチベーションを維持しやすいという事も意味するでしょう。


 「才能」が重要になるのは、この意味においてです。才能は、習得の時間ショートカットしてくれるので、物事をサクサクと進め、努力(物事の積み重ね)をしやすくします。子供の時から、道を最適化してしまうのも同様の意味があります。適応レベルの問題として「才能」は存在しています。但し、これは物事の端緒の部分の話で、長期にランディングさせることを考えた場合には、メンタルコントロールによって、この部分は大きく改善できるでしょう。基本的に、創作には、生活の全てが痕跡として残るので、ダレたらダレた部分が、頑張ったら頑張った部分が、恋をしたら恋をした部分が、いろいろな集積として創作に現れ、そうした事柄をあとでコントロールして再構成できれば、経験すべては、どのみち創作カードになります。これは、近年、作品に内在するライフスタイルの痕跡を、受容者が「読む」ようになった事で、より、その機能を大きく高めていると言えるでしょう。


 この事から自分技術レベルがあがってくるまでは、技術レベルをあげる事より、「その道」に対するメンタルモチベーションを維持する事を重視すべきだと考えています。重要なのは、ブレないこと、蓄積していく事です。このへんは、人によって意見が分かれる所でしょうが、メンタルが壊れれば、確実に遠回りになるので、個人的には、技術レベルの低い人の技術的な努力をそんなに奨励しません。モチベーションの無い中での技術的な努力はかなり惰性を創りだしてしまうので、危険だと思うからです。逆にいえば、モチベーションがあれば、勝手にやるので、努力とか、そういう問題はなくなります。


 創作なんて、生活に必須なものじゃないので、モチベーションに大きく事を委ねて問題はないでしょう。やれる時にやればいい、というのが自分の考えです。創作する際、表現する際、テクニックが伴わないと、あの時やってればよかったと後悔する事はあるでしょうが、その時やった事がもっと重要だったという事は色々ケースによって様々なように思いますので、後々までどうするか考えた上で、出来るだけ無理のない人生を送った方が有意義なように思います。

[]1-5「文脈」(i>1-5「文脈」(i>)を含むブックマーク


 文脈は、世界の中で人間意図的に創りだして固着し堆積させた創作において最もコントロールしやすいリソースです。文脈は、しばしば新規の創作によって書き換えられますが、基本的には多くの人に共有されている不変の要素です。不変だからこそ、その法則に乗っ取って安心して使用できるものとして共有され、この意味において、文脈の性質は言語そのものと一緒だと言って良いでしょう。その為、創作ベースとしては使えますが、創作そのものの重要な部分、イメージの生成には直接的に寄与しません。


 しかしながら、現代の細分化された創作状況下では、文脈は受容者へのリーチに際して、その重要性が増しています。創作が文脈につながれば、既存経路を創作につなげる事が出来、その経路自体を好む受容者に的確にリーチするからです。その為、文脈の使用というのは、ある意味で、ジャンルへの帰属を示しがちです。この経路を強化したものの例として、パンクカルチャーや、オタク文化などが挙げられますが、これは同時に創作の硬直化、文脈の中での創作の有効性を高め、創作伝統工芸化を促す事にもつながるでしょう。


 もちろん、それはそれで悪く無い選択肢なのですが、本来的には、文脈は、ジャンルへの帰属だけに使用できるわけではなく、その使用方法は多岐に渡ります。例えば、創作における意味性のズラし、常識破壊などといった事も「文脈」を用いて出来る事の一つでしょう。例えば、代表的なものに、村上隆作の(或いはボーメ作の)「Miss Ko2」などが挙げられますが、これはオタク文脈の象徴的なアイコン意図的にアートの文脈に乗せ、独自の位相を創り出す事に成功した作品になっています。もちろん、この作品自体は、アートの文脈にガチガチに縛られています(そもそもウォーホールリキテンシュタインの発想が元になっているのでしょう)が、ジャンルボーダーを越える事によって、オタク的な文脈の位相をズラす事に成功しており、それによって、文脈は、相互に交通する性質を持つ事を意味し、その組み合わせや使用方法で独自の感覚を創りだせる事も示していると言えるかもしれません。


 このように、文脈は世界の中に無数にあり、その組み合わせで意味の改変が起こることから、言語の性質に程近く、創作に敷かれた共有コードの一つである事が理解できます。つまり、文脈は共有コードなので、その改変は基本的には出来ませんが(つまり、万人で共有しなければならない不変のものなのですが)、文脈はコード内でゆるやかに意味性のズラしを行え、ゆるやかに堆積していくコストとして、創作の中では、それ自体、コントロールする事も考えられる一要素として存在しています。

[]1-6「偶然性」(i>1-6「偶然性」(i>)を含むブックマーク


 偶然性というのは、創作にとって、多くを占める要素で、基本的に創作というのは、最終的には「偶然」に頼るものだと思ってます。いや、そんな事は無い!と思う方もいるかもしれませんが、市場の文脈のようにガチガチに固められたルールの中で緻密な理論を持って創作をする場合や、よほどのコントロール好きの人じゃ無い限り、基本的には、創作は偶然性に頼った方が成功する確率が高いと考えています。と言っても、それでも、その確率は低いのですが、そもそも創作は、「やってみなければ分からない」事が多すぎるので、創作は第一にコントロールする事を考えるのではなく、第一は動くこと、描いてみたり演奏してみたり、世界に何かを投げてみて、トライエラーを繰り返す事が重要だという風に個人的には考えます。その中で、ほんのちょっと成功したり、成功した部分が出てきたりすれば、それをフィードバックして次からの創作に活かせる、つまり、創作コントロール幅を広げ、創作上方修正していく事が重要になり得るでしょう。しかし、それでも、やはり、最終的には創作は偶然性に頼らざるを得ない部分が出てくるはずです。


 もちろん、偶然性への信頼は創作の出来不出来をコントロール出来ずに駄作を誘発するタネですから、創作におけるコントロール幅を広げることは重要です。しかし、新しい発明が失敗から多く生まれるように創作にも多くの失敗が必要であり、頭で考えてる事は頭の中での整合性を保ってるのに過ぎないので、現実世界でのアウトプットでは別に解がある場合が多く起こります。でなければ、人間未来が分かりすぎて予言がぜんぶ当たってしまう事になるわけで、そんな事は、もちろん、ありえませんから、おそらくこうやれば、こうであろうという予測の下に、創作世界に投げかけ、その創作の投げかけた先、経路の連なりには偶然性、つまり、「運」といった要素が多くを占める事になるはずです。


 しかし、運に全てを委ねるのは、余りに無策すぎるので、もちろん、お勧め出来るものではありません。そこで「偶然性」をあらかじめ「不確定な幅」として折り込んで、創作レベルコントロールするといった考えを持てば、創作レベルはある程度は保てる事になるのではないか?と考えます。要は、はじめから、偶然性によってブレる幅を考え、不確定な幅の最低ラインを想定し、これぐらいの事をやれば、これぐらいの成果は回収できるといった先読みや、最低ラインが出た場合、破棄して対応できるスケジューリングや、上のラインを想定して、そこまで至れば、すごい作品になる!といった期待値創作を行い、回数を重ねて一度でもいいから成功させて、それをリリースする、といったようなコントロールが現代の創作においては重要ではないかという風に考えます。


 また「21世紀創作」の状況下では、偶然性をもネットワーク化する事によって、そのブレを減少させる事も考えつきます。これは、個々の創作には、どうしてもブレが出てしまいますが、あらかじめネットワーク化された創作リンクの中では、何処かで出た駄作には追加コストをかけずに、何処かで出たブレが上方に向いた創作には追加コストを大量に投下する、といった事をすれば、総体としてその分、創作が浮上し、場が保たれるといったような考え方です。これは主にポップカルチャーフィールドでは、レーベルのような単位で行われているような事ですが、このインターネット時代になって、レーベルを個人でも持てるようになった事により、そのネットワークの作成をかつてより容易に出来るようになったという事情がこの方法を強化していくのではないか?と個人的には考えています。この、代表的な例として、本書では、ハロー!プロジェクトをのちに取り上げますが、そこまで大きなシステムでなくとも、インターネットを使用できる(自分メディアを持てる)今日では、「偶然性」も個人があらかじめ使用を考えられるカードであり、適切に扱えば、有効に使える契機も出てくるのではないかと考えられます。

[]1-7「資本」(i>1-7「資本」(i>)を含むブックマーク


 創作の知識やスキルがある。という前提の下にですが、「資本」は創作に対して圧倒的な力があります。もしかしたら、創作いろは、前提条件をクリアした人には、最大の武器になるかもしれません。資本があれば、かなりのレベル創作物を思い通り適切に運用できるはずです。


 これは、資本が、他の創作カードに比べて、個人の手による創作外の領域におけるコントロール幅が最も大きいという性質によります。資本は、個人の内にある創作の方法論に関しては手が出せませんが、そこに至る経路に手を出せるので、創作にも結果的に重要な役割を担う事が出来ます。この時、個人において、創作の中で一番コントロールしやすい要素は「文脈」であり「言語」ですが、「お金」は他者との関係性においての力学言語よりハッキリしている、つまり、多く持っている方が力があるという明快さを伴うので、創作という現実においても、その力の大小が均等に発揮される場面が多く出てくるでしょう。


 例えば、絵の具1個を調達するにしても、おそらく、それはお金と交換する、つまり、自分で創らず、他人の手による創作物を買うわけですから、絵の具を使った段階で、創作は、厳密な意味での個人の創作から離れ、他者性が出てきます。そうした他者性を個人の何か(時間とか労力とか能力)と交換するには、現代において、お金が一番有効に機能してますから、お金を多く持っていれば、それだけ優良で多彩な他者性の中から自分の好きな他者性を選択できます。それは引いては、自分創作レベルを他者性によって引き上げられますし。同時に、多くの選択肢から選べるという事は、自分オリジナル創作が出来る契機を(若干でしょうが)増やす事にもなるでしょう。


 そして、もっとも端的な事に、お金創作における最重要リソース時間」と交換できる、という重要な性質を持っています。要は、食べる事に不自由で、食べる為に創作以外の仕事をし、創作時間が削られれば、資本を持っている人間に対して持ってない人間は不利になる、といった事柄が、お金によって回避できるわけです。この意味において、資本多寡は、外的に創作を大きく変化させて、創作の内部にもコストの堆積量として、徐々に差をつけていく事が分かります。しかも、この資本というカードは、「時間」を買えるだけであって、他の各種創作カードと違い、時間には縛られないという特性も存在します。これが「資本」の最大の強みです。


 この為、資本は、巧くいけば、短時間で手に入れられ、創作をめぐる状況を一変させられる力を持っています。しかも、資本主義社会では、資本は、未来への予測可能性と交換できる、つまり、売れそうな創作アイデアに対しては、融資を受けられる可能性がありますから、そうした原則が、現実として創作に取り入られる契機も今日では多く出てきています。


 もちろん、現実において、創作に対して融資をしてくれる先はなかなかありませんが、この現代においては、銀行資本家がYESといえば、お金を借りられますし。それで人を雇えます。つまり、他者の時間モチベーションまで、資本により直接的に作品に取り入れる事が出来るわけですから、こうした事が創作現実に大きな影響を及ぼすのは間違いないところでしょう。もちろん、もっとミニマム自己を考えても、一般的に創作をしてお金になる方がモチベーションは高く設定できるので、あらゆる意味お金があった方が創作に有益になる場合が多いはずです。


 但し、借金や、不必要に多くのお金モチベーションに悪影響を及ぼす可能性も高いので、個人が手を出すべきではないし。個人で求めても、大した融資は受けられないでしょうから、その意味で、創作のためのシステム会社的な形態レーベル)みたいな事が「21世紀創作」には必要になってくるだろうと考えています。


 こうした事は、「第3部:総論」において、詳細にまとめますが、そもそもアーカイヴスが爆発する現在創作を受容者にリーチさせるには宣伝が必要で、宣伝するためには、人が集まった方が有利なので、創作>Iまでキチンと到達させる為には、人を集める為のある種の機構は、どうあれ必要になっていくでしょう。そして、創作そのものも、創作の器、例えば、同人誌を創ったり、CDを創ったりする事をちゃんとやろうとすれば、どうしてもお金ノウハウがかかるので、創作レベルを少しでも上昇させようと思ったら、ちゃんと、そうしたノウハウや、それを買う為に投下させるべき資本なども、どうあれ必要になってくるでしょうから、その意味において、資本は、そうした状況に対して多角的に使用する事が出来、また、そうした経路の選択に有効に働く為、お金の適切な使用の仕方は、創作にとって、ますます重要になる面も出てくるでしょう。この為、資本の問題は、持ってるお金多寡だけでなく、それを何処に投下したか?という選択によっても、大きく「結果」を分ける事になるはずです。

[21世紀創作」1-8「地域性(コミュニティ)」(i>[21世紀創作」1-8「地域性(コミュニティ)」(i>)を含むブックマーク


 人は、時間にも縛られる存在ですが、土地にも縛られます。その為、創作において「地域性」といった事が重要な要素として浮上してきます。


 ここでいう「地域性」とは、生まれた場所や、住んでいる場所、周りの風景、家庭、職場学校など、人間認知出来る、感覚器の範囲が届く全てを指します。人は、時間に即し、その時々、移動した先、全ての地域性を下にした認知を身体に堆積する作業をしていく存在です。つまり、人は地域性の中で「潜在的なコスト」の堆積を生み、自分の使用できるリソースの量を決定付けていきます。


 これは、地域性が時間や行動と密接に関係している事を示します。例えば、香港の人がパリ舞台とした創作をしたいなら、その人はパリというモチーフを見に行かなければいけません。しかし、その方法には、文章で見る、写真映像で見る、直接行って見る、といった様々な方法が考えられます。ここでそれに即し、その方法を考えてみましょう。


 まず、文章で見に行く場合ですが、パリフランスにありますから、その文章の多くはフランス語で書かれているはずです。その為、より多くのパリを見る為には、よりレベルの高いフランス語を習得した方が有利になります。そのコストをかけない場合は、かけた人より見る事の出来る領域が大幅に狭まってしまうからです。


 しかし、そのコストは大量すぎるので、そのコストをかける余裕がない人は、文章で見るパリの範囲を翻訳程度で見られるパリ像まで狭め、パリ映像中心に見る事を考えるかもしれません。通常、こちらの方が一般的でしょう。この際、映像は、言語性に薄いデータですから、映像で見れば、大抵の人には多くの事が分かります。しかし、映像は、他人の視点や思念によって支配されている為、自分創作の為には不正確な情報しか得られないはずです。これは、現在映像が誌面やモニター限界に縛られてる事とも関連し、現在映像には、十分な情報を得るだけの視覚領域が確保されてない為、必然的に映像パリを知るには、モニターなどの限定的な視覚範囲の中で映像を見る。つまり、そのデータ量を増やすには、量に頼らざるを得ません。その為、自分の見たい風景を見るには、膨大なデータを撮るコストと、膨大なデータを得るコスト、膨大なデータ脳内処理するコストの3つのコストが必要になってくるでしょう。もちろん、パリメジャー観光地ですから、膨大なデータを撮ってくれてる人が無数にいますし。そのデータを得るにも、それほどコストはかからないかもしれません。しかし、それが逆に、自分の見たいパリを見る為に多くの選択肢の中からの選択をしなけれならないというコストも誘発し、脳内処理に時間がかかってしまうかもしれません。しかも、時間がかかるだけならまだしも、稀に映像を見る事に人は溺れてしまって、他人の思念、他人の視点に多く触れてしまった人は、自分の見たい風景を見失ってしまう、他人の視点に風景を変更してしまう(流されてしまう)可能性などが出てきてしまいます。このように、文章や映像地域性を限定的に時空から解き放つ事を可能にしましたが、それは限定的なので、結局「直接見られない」という意味で、時空に縛られてはいるのです。


 そうなると、やはり、情報を得るのに、一番良質な方法は、直接行って見る、聞く、感じる、に勝るものはありません。これは、五感がフル適応されるので当然です。しかし、現地に行くのには時間がかかりますから、時間や、その時間ショートカットする(より速い乗り物に乗る)為のお金といったもののように、持ってるカードリソースとその分を交換する必要が生じ、それ相応のコストがかかります。文章や映像は、季節や時代、そこまで行く移動の時間ショートカットしてくれましたが、現地に行くとなれば、時間お金というコストをより費やす必要性が生じるわけです。


 このように、人は、見て聞いて読んで移動して、行った先の地域性を情報として身体に堆積していきますが、それと交換に、それ相応のコストをかけなければいけません。そこで、結局、自分の見たいパリを見るには、こうした様々な方法で複合的にコスト投下をしていく必要が生じてきます。ここで一番外せないのは、直接行ってみる行為。つまり、地域性の問題を文章や映像などの二次的なもの(他人の視点が入ったもの)に頼らず、五感を稼動して、直接データを流入していく行為です。


 この意味において、パリに行った経験のない人間パリが描けるか?というと、本質的には、絶対に描けません。よく、これは「戦争」において命題になっていますが、実際、戦争を体験してない人間戦争を描くのは、本質的には不可能だと思っています。というのも、自分が実際見た事がないモチーフには、地域性が存在せず、リソースが全く無い状態が発生してしまいます。その為、他人の目を通したモチーフ、つまり、観念と、それに基づいた想像力でモチーフを補完するしかなく、結局、それは観念のみの創作になってしまう不具合が生じます。もちろん、戦争のような漠然としたモチーフは、原理的に言って、関わって無い人がいないので、その意味では現実のどこかに「戦争」の痕跡があって、キチンとモノを見れば、それを基に誰にでも描けるのでしょうが、(例えば、こうの史代夕凪の街 桜の国」などは、その例ですが、)しかし、パリのように地域に縛られているものは、現実パリの痕跡が全く見られないケースも想定でき(もちろん、日本のようなパリと頻繁に交易している場所には、パリに連なる地域性が多く存在していますが)、全く現実を加味できず、パリを描けないといった事は当然のように存在します。当たり前の話ですが、知らないものは、どうやっても描けないのです。もちろん、観念的に戦争を、パリを描くという行為は、それはそれで出来ますし。その方法にも問題はありません。しかし、現実には、観念には、現実ミスリード恣意的な風景)以外、存在しませんから、本質的には「それそのもの」を描いているとは言い難く、また「それ」を自分のものとして描けるはずもありません。その為、創作において、キチンとモチーフを反映したものを創りたい場合は、地域性に縛られた自らの行動限界を頭に置いて、出来るだけ情報を集める必要があるのではないか?と個人的には考えています。


 そして、「地域性」には、もう一つの意味重要な問題が存在しています。「21世紀創作」では、こちらの方が大きな問題となるでしょう。人間関係ネットワーク)に基づくコニュニティの問題です。


 人間は、つながりによって成り立ち、相互扶助により、多くの事を為す事ができます。創作においても、i>o>だけでなく、>Iが必ず必要なのも、その為です。そして、これが連鎖した状態、つまり、ネットワーク意識して生きる事は現代において重要ファクターになるでしょう。インターネットが我々にもたらした最大の恩恵は、人間関係リンク構造イメージしやすくした事ではないか?とさえ自分は考えています。


 しかし、人と人とが会うには、時間と場所が合わなければいけません。ですから、「出会い」は常に地域に規定されます。という事は、人間関係も自ずと土地に縛られていきます。現代では、ケータイインターネットブログSNSなどで、限定的に土地に縛られる問題を回避するツールや方法論が発達していますが、それもまたケータイインターネット、つまり、モニターのような物理的な地域時間と場所の共同性を発生させ、情報を交換しているに過ぎません。現実と比べて、文字や映像でやりとりをするインターネットには、時間においてこそ、若干のラグを許されますが、大きなラグネットワークに回収しづらい為、結局のところ、実際と原理はあまり変わりません。つまり、関係性は自らがコスト投下して繋ぐしかなく、つないだ関係性はコストをかけなければ維持できないのです。その為、トラフィックを創るには、そこにい続けなければなりませんし。別の場所に足を運ばなければなりません。この特性は、インターネット黎明期に、書く事もないのに文章を書くのは何故か?意味もないコメントをするな。慣れ合い。などといった議論を誘発してましたが、「出会い」はアクティヴな行為で為される事が理解されてきた現在においては、トラフィックアクティヴにする事で関係性を維持する方法論がかなり進化してきたと言えるでしょう。代表的なものとして、ここでは、SNSミニブログtwitter)を挙げておきます。


 この内、ミニブログは、よりインターネット的な人間関係の促進を志向してるように見えますが、SNSに関しては、どちらかというと、実際の土地に縛られた人間関係を反映してる場合が多いはずです。もちろん、SNSサービス内容において、その傾向は異なりますが、mixiのような招待制になっているものは、なかなかインターネットで出会った人との関係を強化しづらい部分があるかもしれません。その為、その関係性は実際の人間関係の中での関係構築が先に来がちです。また、インターネットで出会った人に関しても、ブログ掲示板などで密に、時間や回数をかけてやりとりした後に関係を持つ(リンクをつなげる)人とのやり取りの方が一般的かもしれません。


 こうした事は、やはり、インターネットPC)やケータイが、モニター限界、或いは、音声や動画絵文字や文字の限界に縛られるのに対して、現実に会える人間五感をフル適応させて相手の情報を知る事が出来るため、その好悪を瞬時に判別しやすく、関係性を持つかどうかの判断を選択しやすいという特性を生じている事によるでしょう。これは、逆にいえば、インターネットケータイには、好悪というファクターを和らげてつきあえる人間関係を発生させられる利があるとも言え、その意味において、より「ゆるい」関係性を志向し、つながる事にあまり重みを持たせない仕組みを持ったミニブログ存在などは、こうした特性をフルに活かして関係性を構築し、密にさせていっている例と言えるかもしれません。


 しかし、いずれの方法にせよ、人と人とのネットワークは常に現実のものなので、そこから多くが得られ、自分の周りのネットワークは、インターネット環境下では、自分を中心とした幾つかのフィールドコミュニティ存在の肯定として複合的に存在していく事になるはずです。これは、直接的には、創作適応させた話ではありませんが、本書の「第3部:総論」では、これを創作に適用させて、創作におけるネットワークの役割について、詳しく論じてみたいと思います。



次を読む(各論3)