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2008-12-17 第2部:各論3:第2章「創作の構成要素」

 第2章からは、創作の内部、或いは、創作をする主体の内部に構成されている要素を考えてみたいと思います。

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 コストは、良質なインプットデータを得る為に足を使ったり、絵を描くという具体的な行動を行ったり、良い筆を使う為にお金を使ったりと、時間や労力や資本のような具体的に自分の手の内で扱えるリソースを使用していく事を示します。と同時に、世界に偏在するリソースに元々「かけられてきた」コスト(例えば、樹齢300年の木のフォルムを創作に使用するとしたら、その木のフォルムを創りあげてきた300年分のコスト)も本書では「コスト」として一律に扱い、作品に影響を与える単位として使用していきます。


 例えば、時間や労力というリソースを使って、絵を描く行為をした場合、その時間や身の内にあるエネルギーといった手持ちのリソースは、使った分、目減りしていきますが、そのコストへの対価として、わずかに絵が巧くなる、手がちょっと正確に動くようになる、モノの見方が深くなる、などの能力向上を伴う為、その向上した能力は次から新たに使えるカードとして、身体にストックされ、手持ちのカードを増やしていきます。そうして、増やされた手持ちのカードは、次からの創作にも使えるので、本書では、その手持ちカードを「潜在的コスト」として処理し、意図的に使える「コスト」として、その存在を扱います。これは、そのように堆積された潜在的なコスト量が、その道に対するカードとして適切に使われれば、その時にコストが回収される、つまり、「かかったコスト」として新たに作品上で機能するからです。


 そうした意味で、このコストは、基本的に「道(欲望による方向性)」に対して最適に投下される状態が最大値になります。なぜなら、道に適応していないコストは、その道において全くカードを増やしておらず、かけたコストは流れてしまっているからです。例えば、絵をずっと描いてきた人が、小説を書いても、絵を描いたコストは、その作品、小説に対して、ほとんど流れてしまってる結果となるはずです。逆に言えば、創作をする場合、その創作物に適した道に沿ってコストが投下できれば、作品を創る際、かけたコストが流れず、時間軸すべてにおいて、コストが堆積する状態を起こせます。これは、もちろん、序論で書いたようにコスト霧散していくものなので、古いものは自動的に流れていきますが、しかし、コストはある程度は潜在するものなので、生まれついてからの全てのコスト時間軸に沿って、償却されながらも、ある程度、堆積されているものです。これは、幼い頃の記憶(かつてした行動)が、現在創作に影響を及ぼしていたりするのも、その為と言えるでしょう。そもそも、「創作」というものは、意図すれば、あらゆるリソースを使用できるものである事から、かけたコストが完全に流れない性質を持っています。例えば、10年引きこもってて、何もやってないと自分は思っていても、それは他者がなかなか持ちえないその人固有の経験リソース)を得る為のコストとして換算され、創作の何処かの局面で(おそらく主にモチーフメンタルの反映として)有効性を得るかもしれません。つまり、人生すべてにおいて、すべてやってきた事は、良かれ悪しかれ、堆積してしまう潜在的コストになるので、かけたコストの質が頭では悪いと思ってても、現実には、何処かで回収できる可能性が生じます。その為、かけたコストは、行った場所や、やった事、関わった人や、聞いた話、すべてを「経験」という形でリソース化して、その道、方法論への適応度によって、使用できるように潜在化していると考えられます。


 但し、これは広く創作を見た場合においての話であり、「創作」ではなく、最終的にジャンルのような方法論を反映する「作品」レベルコストを考えると、その、ほとんどのコストは流れてしまう事になるでしょう。その為、それを流さないように常日頃から意識する事が創作におけるコスト霧散を防ぐ手立てでありえますが、これは、いざ作品を創る際にも、限定的に手持ちのリソース人生の痕跡を「作品」の織り成す道に対して適応度が高いものから使っていく事をイメージできれば、その適応度においてもコスト霧散を防げる事も意味します。そこで、コストに対する考えは、主に、より適応度を把握しやすい「作品」のレベルで考えられるべきだと言えるでしょう。


 しかし、もちろん、この場合、自分経験にだけ特化したコストの堆積量を考えても、作品は過少にしかならないはずです。つまり、外的なリソース(input)を考慮しない創作は、「世界」という最大にコストがかけられて創りあげられたリソースから遠ざかり、作品が矮小化してしまう可能性が高まります。その為、身の内に堆積されたコストだけでなく、世界の中で、広く取り入れられるコストに目を向け、身体の内外にあるリソースを適切に扱う事が作品へのコスト堆積には重要になるでしょう。端的に、取材をするという新たなコスト投下により、身の内にコストを堆積させ、創作を補強する作業などは、それに当たるものです。世界(=自分の外)にアクセスすれば、作品に適応したコストを一気に増やせる契機を生みだせる確率が高まるはずです。


 この事から、コストは「身の内」と「作品」の両方に対して、堆積させるべきものだと考えられます。かけたコストは、身の内に方向性を持ったものとして蓄積されていき、その方向性に適化した作品には、合った方向性分のコストが、いつでも使用できる事から「身の内」の使えるリソース、潜在的コストの堆積は強力な創作カードになるからです。例えば、絵を描くという行為に対して、トータル1000時間分のコストをかけた人間と、10000時間分のコストをかけた人間の絵を比べた場合、その絵は10倍のコスト量の差となって「結果」に現れるでしょう。これは、もちろん、与えられたリソースや密度を無視したミスリードでありえますが、単純に言えば、コストの堆積量はそうした時間軸によって主に測られる事になり、厳密にいえば、その差は、描いた時の姿勢や集中力、描いた方向性、描いてる時に見ている視線、視点、描くと同時に使われる脳みその使用量、そこまでに累積された知識や元々ある体力やそれに伴う身体性から起こる身の内の改変スピードの累積、現在アクティヴで減産の少ない適応レベルの高い新しいコスト存在などによる無数の要素の中での堆積が加味されて、作品におけるコスト量は決まります。


 このように、堆積させられるコストには様々な側面があり、厳密に作品におけるコストの堆積量を測れるか?というと、それは到底ムリです。しかし、創作カードには重要性において序列があり、作品とそれを向上させる為の方法論には歴史的な蓄積がありますから、それを加味して、ある程度、ベクトルをつけられる事は出来ます。例えば、創作において最重要カードの一つ「時間」を基礎軸に、「モチベーション」や、自分の望む「欲望」に対するその方法論の適応性や、この練習からその作品へと至るまでにかけられるべきコストの堆積量を、歴史的なノウハウに沿って予め考えて、その作品におけるコストの投下量を増やすような感じで、コスト投下の方法論としてイメージすれば、予め、新たなコスト投下によって、その創作物(作品)を、より大きくする契機を創れるのではないか?と考えられるでしょう。


 この為、この「コスト」は身の内(作家)というよりは、受容者の益、つまり、受容されるべき「作品」において最大値を出すよう考えられるべきです。そして、それをする為には、リンク構造による作品への複線的な経路からのコスト流入が重要であり、作品をネットワーク化してイメージに対するコスト堆積の最大値を考える事が重要だと本書では考えています。これは、本書を通じた基本の考え方となっており、その意味で「コスト」は本書において重要な要素として扱っていきます。


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