「21世紀創作の現在」を中心にお送りするサイト。
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2008-12-20
■[21世紀創作]付録「ナガモト/くりっぷ」

閑話休題。一通り、話も出揃ったので、このへんで、実際の作品に照らし合わせて、創作の仕組みを説明してみたいと思います。ここでは、一番、自分で把握出来ててる自分の作品について説明してみたいと思います。写真の作品なので、先ずは写真を見て下さい。
これは、見て分かる通り、クリップを撮ったものです。題がついてないと、一目では分からないかもしれませんが、もちろん、それが意図です。
今までの説明に習って、この作品を創作の動機「欲望」の話からはじめてみます。基本的に、自分は、この写真の内に欲望を大きく3つ込めています。一つ目は、単純に「写真が撮りたい」という欲望です。これはデジタルがくれた欲望だとも言えるでしょう。自分は、普段、絵のような時間のかかる創作ばかりしてるので、デジタルになってから安価で簡便になった写真表現が魅力的に映りました。シャッターを押すだけで事物が切り取れるという性質を使えば、簡単に創作が出来るのではないか?と欲望したわけです。もちろん、これは、実際、やってみると誤解です。写真というメカニカルな表現は、カメラに対する細かな知識が必要であり、それを知らなければ、とても表現なんて出来ません。歴史において、その方法論の堆積に絵と写真では大きな差がありますから、絵の方が圧倒的にやれる事が多いように感じていましたが、筆以上に複雑な構造を持つカメラの性質から、本質的には写真の方がやるべき事の多い難しい表現だと言えるでしょう。しかしながら、絵と違って、「手の動き」のようなある種の身体性を切り離せる写真においては、やはり、訓練なしに傑作が撮れるのではないか?という幻想を掻き立てるのも事実です。実際、身体性の問題から、訓練なしに傑作が生まれる場合も散見されます。
2つ目の欲望に話を移します。これは友人の写真展に出品するものなので、そこで出来るだけ恥をかきたくないという欲望です。そもそも、自分は人生において、写真表現にあまりコストをかけてきてないので、コストをかけてきた人ばかりが参加する写真展においては、どうあれ浮いてしまい、惨めなものを飾るしかなく、恥をかいてしまいます。その為、写真技術で勝負をしても無残な結果が待っているだけであり、自分の中で写真に使えるリソースと、外にあるリソースを点検して、コストを各所から引っ張ってくる必要があり、そこで、アート的なアプローチとモチーフで勝負するより無いと考えました。友人もそれを望んで、自分を誘ったのでしょう。
友人の写真展に出品するのは2回目で、これは毎年やってる写真展なのですが、前年、出品したものは、そのアプロ−チの下に撮って、余りにお粗末でいたたまれない感じになってしまったと自分で思っていました。なので、そのリベンジとして、一年、キチンと写真をやろうと思ってきましたが、結局、カメラすら買わず、ほとんどやれなかったので、一年後の今回も同じアプローチで勝負するよりありません。しかし、モチーフに関いては、何が良いか?と一年ずっと考えていましたから、前回よりそれなりにコストはかけて制作に望めるとは言えるでしょう。とはいえ、写真展直前まで、ほとんど撮ってきてないので、ほとんどのコストは流れていますが、かけたコストは回収される可能性があるので、そこで継続して、コストをかけて世の中を見て得たのが上のモチーフです。これは、ずっとモチーフを意識してこなければ、これを写真で撮る事をイメージ出来なかったであろう事から、かけたコストはそれなりに回収されたのだと言えるでしょう。
つまり、3つ目の欲望は、「これが見せたい!」です。これが一番強い欲望(直接的動機)となります。ある事物を見た時に、おもしろいフォルムを発見したので、それを端的に見せるというのは、事物の持つ潜在的コスト(クリップというフォルムが創られるまでにかけられてきたコスト)のストレートな発露であり、写真という媒体の性質とも合っているのではないか?と考えました。考えましたと言っても、これは言語で考えてるわけではなく、数秒の内に体感で処理します。なぜなら、こういった事をいちいち考えていたら、最初のイメージが流れてしまい、どんどん、コストをかけるべきポイントを見失い、かけられるコストは、流れた分だけ可能性が減っていくからです。この場合、イメージの維持を重視しています。
イメージは、そのまま創作的達成の根拠になるので、このイメージを逃さない内に、バシバシ撮りはじめます。構図に対する知識は絵と共通なので、主にそのあたりの知識=身の内に堆積されたコストを回収して写真撮影に投下していきます。しかし、手元にあったのがコンパクトデジカメで、しかも、機能を全部使えるように試してきたわけでもなく、ライティング機材も持って無いので、手持ちのライトスタンド1個でやってる上に、レフ板も無いので、無地のイラストボードをバックに使って、ようやく出来たのが上の写真です。イメージ的には、ファッションフォトみたいなイメージでやりたかったのですが、もちろん、そんな技術は全く無く、しかも、ライトを買ってくるとか、もっとコストをかけられる要素を下方に使ってるので、強度の足りない、相当、甘い作品にしかなりませんでした。これは、当然、「甘くていいや!間に合わないし!!」という意識がキチンと作品に反映され表面化しています。なので、そういう部分を気にする人には、全く評価を受けないでしょうが、しかし、一般のお客さんはモチーフをたのしむ人が多いであろう事から、それなりに受けるだろうと読んで、このまま出しました。元よりイメージに対して、下手にコストを追加しても、最初のイメージの持つ潜在的コストの最大値を発露させる事が出来なくなり、余計なコストをかけた分、コストが下方になってしまう事もあるので、写真への未熟な経験から、その「どっちがいいか」の読みをキチンと出来ない自分は、このままでいいと判断した部分もあります。結果、それなりに受けてたんじゃないかと思うので、それなりには成功したようにも思います。
しかし、こういった技術軽視の作品は、「読み」の問題から、受容者の意識とぶつかり、受容者の中でコストが大幅に減らされてしまう(かけたコストが伝達されない)場合があるので、出すのに勇気が必要です。この勇気を補完するのは、もちろん、メンタルでもありえますが、経験や知識でもありえます。この場合、あとづけで、裏側にデュシャンのレディメイドなどの概念による脳内補完を行いました。と言っても、デュシャンについてもキッチリ調べたわけでないので、いい加減ですが、それなりに、アート的な文脈には日頃コストをかけており、(写真展なので多分そこは読まれないでしょうが、というか、読まれない事を前提に)、自分に「自分はホントは写真をやってないんだい」という精神的逃げ場を用意して、これは正しい方法だと言い聞かせる事で、ようやく出品に踏み切れています。これは、個人的には、絵の場合だと、絶対やらない、ナメた態度だと思いますが、この場合は、そういう逃げ場が無いと勝負できるようなメンタルもスキルも無かったので、とりあえず、やってしまいました。もちろん、その補完をキャプションに添付したりはしてないので(1回目は、アート的な注釈をいれて失敗がより大きくなってしまったと感じたので)、完全に自分のメンタルの補完にしか過ぎませんが、そういう態度もまた作品には現れてしまうもので、それが作品に見えている部分もここにはあるでしょう。
というように、この作品(と言うのも憚られる部分はあるのですが)に関しては、世界(クリップ)をリソースとし、それを出来るだけ活かす方向でコストを堆積しています。もちろん、それを成立させているのはアイデアで、クリップをこう見せる、クリップ、意外に良いフォルムじゃん!というモノの見方が、そのままアイデアとして機能して、世界と作品とのコストの伝導率を高めていきますが、これが機能するかどうかは、受容者が見てすぐに分かるかどうかと関連しているでしょう。つまり、すぐ分かるという事は、送り手と受容者の意識がバッティングしてるという事なので、伝わるべきコスト量の流入が起きない、あまり面白味がないという事になるはずです。また、全く分からないというものも、共有できるものが少なく、コストを伝導する経路自体がつながらない、その為、受容者には面白味が無いでしょう。なので、この作品の場合は、その面白味を受容者が感じられるとするならば、クリップという誰もが見た事があるものだけど、でも、あんまり見た事が無いような視点を提示している事がポイントになります。最初に「意図」と書いたのは、その意味です。
しかし、もちろん、こうした視点=アイデアは、受容者とかぶってしまうと、結局、分かりやす過ぎて、あまり面白味がないので、その意味でアイデアに頼った作品は、創作的達成が不明瞭でこわいようにも思えます。この作品も、個人的に、おそらく、ポンキッキーズとか、そっち系の表現とかぶってるんじゃないかという恐れがあって、それをどうやって逸らすかを意識して、ファッションフォトみたいにしたいという方向性を考えたのですが、それも達成されなかったので、その意味でも、大変、強度の弱い作品だという事が言えるでしょう。というより、そう考えた事により、むしろ、色調などで、ポンキッキーズの影響を受けてしまったような気もしますが、このへんは、思いついたら、本来、調べるべきところを調べてない時点でナメてます(コストをかけてないです)し。そもそも写真という表現にかけたコストが膨大なら、そのアイデアが先人にやられていたかどうか、方向性が正しいかどうかという事は、メジャーフィールド(つまり、受容者が認知してる確率が高いもの)ぐらいにおいては勉強して分かってるはずですから、そこの根拠が無い作品においては、どうしても可能性を減じて、おっかなびっくり創作していくより無いのだろうなどという事を個人的には思いました。という、こういうものに対し、こうやって文章を書くと、そういう意識に気づいてしまうのでイヤなものですが、そういった意味では、この文章も含めて、これを創った事は良い経験であり、たまには、別の表現を試みるのも創作的に有意義な行為だとも言えるかもしれません。

