天のさだめを誰が知る!? このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-07-16

[][]ゲルハルト・リヒター《14 Panes of Glass for Toyoshima, dedicated to futility》をみる

  • はっと眼が醒める。まだ朝六時。慌てて風呂に入り、食堂で朝食を摂ってからチェックアウトして、八時発の船に乗って豊島。船で島に渡ることじだい初めてだったのではないか。三〇分ほどで着く。白い犬が桟橋に二頭、迎えに出ている。
  • 花が咲いている小さな菜園の間を蛇行しながら、おとついは雨だったのか地面は少しぬかるんでいるが靴がめり込むほどではなく、表面だけがぬらりと光っている道を昇ってゆく。しばらく歩くと、もう竹林なかに入っている。鋼柱で斜面に支えられた、大きなカメラ・オブスキュラのような箱が桟橋のほうに突き出しているのが、いきなり左手に見える。どうやらそちらに行くこともできそう。しかし道の先に、土を削ってしつらえられた石の段もみえるので、そちらを選んで進んでゆく。階段を昇ってゆくと左手に、水平に組み合わされた木のパネルで覆われた靴箱のような建物が、朝陽に溶け込むことを望んでいるようすで、竹林カーテンの向こうに建っている。石段を昇りきると、建物のほうに折れる短い道。その左側だけに、蝋石のような、白っぽい石で組まれたベンチが、ふたつくっつけて据えられている。道の先は再び階段だが、こんどは少し下る。建物の正面に来る。木の段がついていて、それを昇って、板張りのデッキが床。建物の入口の壁面は、ガラス貼りである。真ん中が銀色金属枠で縁取られたドアになっていて、枠の右向こうのガラス板の下のほうに、「Gerhard Richter 14 Panes of Glass for Toyoshima, dedicated to futility」とある。中には入ると、床はつるりとした、ところどころ刷毛目の残る、グレイのコンクリート
  • 一〇時前の土生に帰る船は見送って、けっきょく次の(そして最終便)一八時前の便まで、ずっと島のなかにいる。宿泊所のひとたちにとても親切にしてもらう。島をぶらぶら散歩したり、蝋石のベンチで昼寝したり本を読んだりしたが、ほとんどの時間を、ぼーっとリヒターのガラス作品の前で、メモを取ったり写真を撮ったり、それ以上に光とイメージがちらちらするのを、ひたすら眺めていた。7時間ほどの映画をみることは可能だ。その同じ時間を、並べられたガラスをみているというのは、どういうことなのか、何をしているのか。
  • 桟橋に誰もいなかったらそのまま行っちゃうときもあるよと宿泊所のひとたちから教わっていたので、時刻表時間より十分ほど早くリヒターの建物を出て、彼らに挨拶をして、坂道を下りる。あれだけだらだらみていたのに、まだみていたい、名残惜しいと思いながら、船に乗る。
  • 船の中では宿泊所で働いているおばさんと駄弁る。船と橋と就職の決まった息子さんの話。おばさんは次の港で降りる。
  • 土生の船着場に着くとすぐ走り出して、一八時半発の福山行のバスにぎりぎり飛び乗る。再び鈍行で帰路。

2016-07-15

[][]

2016-07-11

[][]

2016-07-09

[]

2016-07-04

[][]

  • とても暑い。十分ずつとか、細切れにみてきた『シテール島への船出』を見終える。アンゲロプロス自画像でもあるのだろう映画作家アレクサンドロス(彼の事務所には『旅芸人の記録』のポスターが貼ってある)は父と母の間で右往左往するだけで、彼らのことを理解できない。ついに彼は暗闇に沈んで、映画から消えてしまう。遺作に到るまで、アンゲロプロス映画を貫くひとつの道は、わけのわからない父母たちの行動を何とかして理解しようとする試みだった。クストリッツァの『アンダーグラウンド』は、陸から離れて海へと漂いだすことによって、辛うじて陸の暴力から避難させようとする、守らねばならないことがあることをあまりに悲痛な笑みにくるんで示していたが、アンゲロプロスの父母たちが離岸するのは、父がきっぱりと、舫い綱を解いてしまうことによってである。ほとんど《トリスタンとイゾルデ》の終幕のように、映画は終わる。
  • 友人たちと会食するため叡電の十乗寺まで出るが、待ち合わせの時間に遅れ、しかも携帯を忘れてきていて、店の名前も思い出せないまま街中をうろうろとするが雨まで降ってきて、こうなったら、とにかくここまできたことを何か意味づけしようと茶山古本屋に行くがもう店じまいしていて、憮然としながら帰路。おいしいフランス料理を食べるはすだったのだがと思いながら出町柳ロッテリア。食べることに対して私は胡乱である。
  • 二冊の本を並行して読んでいるが、これのよいことは、ただ飽きたり、論旨を追うのが面倒になったりしてきたら、もう一冊のほうを読んで気晴らしができることである。両方ともつまらない本だとつらいが、片方はゴンブリッチなのでとても愉しい。
  • 映画リハビリをしようと思ってツタヤに寄って、会員券が切れていたので324円支払いして、映画館で見逃した最近のものを四枚ほど借りてくる。

2016-06-17

[][]

  • 朝ぼーっとした頭のまま、昨夜けっきょくあまりに眠くて投票できなかった分の投票券を打ち込み終えてから仕事に行く。
  • 愚行権の祭、悪評高いAKB総選挙というものに、須田亜香里神推しなので、今回はどっぷり付き合ってみた。他にも好きなSKEメンはいるけれど、今回は残らず須田に投じた。とは云え、家や車を売るひともいるこの祭、私の投じた票数など大したものではない。ヲタじゃないひとには充分呆れられるが、ヲタにはぜんぜん少ないと云われるぐらいのものだろう。
  • じぶんなりにやりきってみて、得心したのは、推しを推したいという気持ちには本当に際限がないこと、しかし私の財布の中身や、モバイル会員になって投票してやってくれなんてばかばかしいことを頼める家族や友人は限られているということと、しかし、それでいいんだ、ということである。
  • 腐るほどカネを持っていても、推しを推したいというこの気持ちの全部を、カネで還元し尽くすことはできないだろう。そういう限界のない気持ちが、じぶんのなかにはやっぱりあるのだということを、苦笑しつつ発見した。同時に、しかし注ぎ込めるカネには、気持ちとは違ってどうしたって限界があるのであり、そのことは、気持ちの際限のなさとは無関係で、だからそのことが、推しを推す気持ちを目減りさせるものではないということを、ようやくじぶんで認められるようになった。そういう気持ちになったのも、きっと、午後三時を疾うに過ぎたからなのだけれど。

2016-05-29

[]

  • 「しま」をみていると、ときどきどうして彼女が私たちと同じ言葉ではなく「ニャア」とかしか云わないのか、それがとても不思議になることがある。これは猫である「しま」と私たちとの間に、しばしば会話が成り立っているゆえである。
  • 柚子が買ってきてくれたインド料理を食べる。とてもおいしい。柚子と、本当に旨いものを食っているときは、とても愉しい。
  • 新潮六月号に載っている福田和也の「食うことと書くこと」を読む。ずば抜けて頭が切れて口が達者だった親父のリハビリをみつめているような気分になりながら、しかし、こういう、とてもとてもとても繊細で、それを守って包み込むかのようにみっちりと身の詰まっている福田和也批評文を読んだのはずいぶん久しぶりで(石原慎太郎のことさえ口述で済ませてしまったのに先日驚いたばかりだったから)、率直に云えば嬉しかったし、福田和也にしか綴ることのできない言葉が、がっちりと掴み取られて、ここには並んでいると思った。