天のさだめを誰が知る!? このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-01-01

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  • 年があけたので、だーすーの卓上カレンダーを去年のと交換する。
  • 夕方から柚子と出かけて、三宮土産などを買って実家に。うちのなかの猫は七匹になっていて、いつも足許を猫が歩いている。祖母はたいていずっと寝台の上だが、母に起してもらって食卓離乳食みたいな夕食を食べると、見事に顔に色艶がでたので驚く。やはり飯を食うというのはとても大きなことなんだなあと思う。
  • 父が『必殺!III 裏か表か』をTVでみている。工藤栄一はどうしてほんの断片をみるだけでも、ぐっとくるのだろう。俺は工藤栄一論を書くべきなのだろうか。
  • 真夜中にYouTubeが垂れ流すままにAKBとか坂道とかを聴いているが、やっぱりSKEが流れると、一気に盛り上がる。やっぱりSKEは最高だとつくづく思う。SKEはこんなにいいのに、その良さを知っているひとは少なすぎる。YouTubeに、PVや公演動画やらを、フルサイズでアップすればいいのに。もちろんタダでいいのである。それでハマったら私のように絶対カネを使うのだから。乃木坂も今は、PVショート版に差し替えてしまっている。驕りだと思う。SKEは、いちばんの干されなんだから、いのいちばんに変わることができるグループのはずだ。ぜひやってほしいと思う。
  • マイケル・フリードは「藝術と客体性」のなかで、「あるものが絵画として見られるための最低限の条件」というのは、あらゆる「時代を超え」て無時間的に変らない、絵画というものに共通する「諸条件」ということではなくて、あくまでも「いま現在」、或る絵画があったとして、これが過去絵画マスターピースたちとおなじ水準を保っていると、「確信強要できる」もののことであると書く。
  • この「確信強要するもの」を、フリードは「本質」であると云うのだが、これは「近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するものであ」り、「モダニストによる絵画仕事とは、いま現在その因習だけが、彼の作品アイデンティティ絵画として確立し得るような、そういった諸因習発見することなのである」と説く。
  • さらにフリードは、モダニズム絵画に関するこの「確信」、「つまり作品それ自体についてのその人の経験に始まり終わるような確信の正しさもしくは適切さは、常に疑いを免れないものだ」とも書いている。この「常に疑いを免れない」ことが、「確信」を得たと称する美術家批評家や観者を、彼らだけの経験に自閉させないのである。つまり、「確信」を得られたものは、同時に、「本当にその経験をしたことがあるか否かという問題」に直面させられるのである。それは本当に本物の「恩寵」なのか、狐や狸に化かされているだけなんじゃないかとチェックされるということだ。そしてこれが、批評ということなのである。
  • だから、「近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するもの」という文のキモは、もちろん「継続的」というところだ。先述のように「あるものが絵画として見られるための最低限の条件」は時代によって変化する。では何が「継続」されるのか? それはもちろん、「いま現在その因習だけが、彼の作品アイデンティティ絵画として確立し得るような、そういった諸因習発見すること」である。それぞれの時代画家たちが発見する「諸因習」は異なるはずである。しかし、「近い過去の強力な作品」と向き合うことで得られた「諸因習」や「確信」を、妄信するのではなく「常に疑い」つつ「応答」を繰り返してゆくことは、どの時代でも「継続」されなければならない。
  • これを「抽象表現主義以降」のグリーンバーグ言葉で云い換えるなら、もちろん「自己批判」であり、藝術における「価値もしくは質の究極の源泉」であるところの「構想(コンセプション)」ということになる。あるいは「「フォーマリズム」の必要性」では、「維持されたり回復されたりするのは、過去特定様式手法でなく、質の規範、水準なのである。これらの水準は、いちばん最初にそれに達したときと同じ方法で保持できる。つまり、不断更新刷新によって」と書かれていることである。
  • 西中君とか倉本君の書いている、決意にあふれた年末年始ブログを読んで、俺も頑張らなきゃ……と痛感する。

2016-12-30

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  • 「行動せずに口ばっかりの人たちは……」と話しはじめる人たちのことは、その主張の正しさとは別に、とてもアカっぽいので、なるべく遠ざけておきたいと思う。

2016-12-29

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  • たとえば、いつまで七〇年代アートとか云ってるんだよ(嘲笑)みたいな連中が、その賢しらぶりのわりに、ちっとも判っていないのは、ケージだのグリーンバーグだの、そういったモダニズムオールマスターたちの提起した問題は、たった半世紀ぐらいの短いあいだに、あらゆるもつれをすっかり解消してすっきりできるような、簡単なものではないということだ。問題が提起されたときにスタンプされた時刻の古さより、その問いの射程がどれだけ広く深いものだったのかが、重要なのである。
  • こんなことを思うのは、私がすっかり中年になってしまったからなのだろうけれど、一瞬であっという間に変ってしまうものもあれば、五〇年とか百年ぐらいの時間では、何も変えることができないこともあるのだということは、判るようになった。どうしようもないじぶんの癖のあれこれを考えれば、判りそうなものだが、冷笑家の彼らの鏡に映る自画像は、その実際の年齢とは違って、いつまで経っても若者のままなのだろう。

2016-12-21

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  • 珍しく柚子より早く帰宅すると、「しま」が退屈だったのだろう、ぴったりとくっついてきて、膝の上でぐるぐる云っている。柚子が帰ってくると、彼女にも云いたいことがあるのだろう、飛び出してゆく。
  • 夕食を食べると、やらないことはあるのに、今のテーブルの下の影のなかでうずくまっている「しま」に寄り添って、身体を低くしているうちに、いつの間にかやはり、そのまま朝まで眠ってしまう。

2016-12-20

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  • 河原町から阪急の始発で帰路。いちど帰宅してすぐ出社。仕事を終えて帰宅すると、柚子病院の帰りに(どこも検査の結果に悪いところはなかったらしい。よかった)「ラジャ」に寄って、晩御飯を買って帰ってきてくれている。インド料理屋はもうどこにでもあるけれど、やっぱり「ラジャ」はおいしい。おいしさの粒子がとても細かくて、そのそれぞれの密度が高く、みっちりとしているような感じがする。たらふく食って満足して、そのまま眠る

2016-12-19

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  • 昼から出かけて、シアトリカル應典院でMayの『モノクローム』をみる。フィルム上映原理主義みたいなものを私は嫌悪するが(それはたぶん私のもうひとつの嫌いなもの――映画祭りの素材にして、映画館祭りの会場と、参加者コミュニケーションの場として供することによる生き残り戦略と裏腹なものであるような気がするからだろう)そういう芝居だったらどうしようとか思っていたが、もちろん金さんがそんな単純なシネフィルであるわけはなくて、複数時代とか次元がひとつの舞台の上で絡み合いながら進行してゆく大変な意欲作だった。
  • 映画をみながら鳴っている音楽が、画面のなかのひとたちにも聴こえているBGMなのか、われわれ観客にしか聴こえないサウンドトラックなのかを聴き分けることはできない。さて、舞台上手の高所に設けられた映写室で爪弾かれるギターの音は、映写室のなかの役者たちにしか聴こえない音のはずだが、そこでの芝居が終わってもギターは弾かれ続け、そのあと下手で始まる別の役者たちの芝居の上に降り積もってゆく。もちろん下手の役者たちは、別の場所にいる人たちを演じているのだから、彼らのいる場所にはその音はほんとうはないはずなのである。それは観客だけが触知できる目に見えない繋がりである。上手の役者たちと下手の役者たちは分断されている。しかし、いまここで、現に鳴っているギターの音を介して、彼らは彼らも知らぬ間に、繋がれている。
  • 私は、率直に云えば演劇があまり好きではない。眼の前に人間がいて、わちゃわちゃやっているのが嫌いなのだ。だから映画のほうがいい。しかし、こういう演劇にしかできないことをやっている舞台をみると、思わずぐっと惹きつけられる。とてもよかった。
  • 畏友SH君、ST君、UYさん、そして遅れてKS氏と京都忘年会。けっきょく終電を逃すが、それでもまったく構わない。美術のことに就いて、とてもとても真剣に考えて、じぶんだけにできるやり方を磨いて磨いて、必死作品をつくっている篤実な人たちと膝づめで話ができる愉しさを、どうして「終電車があるから」なんていう理由で断ち切れるだろう。SH君は、深夜二時過ぎまで、河原町マクドナルドでつきあってくれて、さらに話し込む。けっきょく、なぜまだ美術はつくられているのか、そしてつくられているそれらのなかに、彼らがつくりだすような素晴らしいものがあるのはなぜなのか、それはいったい何なのか、何をしているのか、というようなこと(それから生活のことなど)を、ふたりでぽつぽつと話す。

2016-12-18

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