• 昼から出かけて、シアトリカル應典院でMayの『モノクローム』をみる。フィルム上映原理主義みたいなものを私は嫌悪するが(それはたぶん私のもうひとつの嫌いなもの――映画を祭りの素材にして、映画館を祭りの会場と、参加者のコミュニケーションの場として供することによる生き残り戦略と裏腹なものであるような気がするからだろう)そういう芝居だったらどうしようとか思っていたが、もちろん金さんがそんな単純なシネフィルであるわけはなくて、複数の時代とか次元がひとつの舞台の上で絡み合いながら進行してゆく大変な意欲作だった。
  • 映画をみながら鳴っている音楽が、画面のなかのひとたちにも聴こえているBGMなのか、われわれ観客にしか聴こえないサウンドトラックなのかを聴き分けることはできない。さて、舞台上手の高所に設けられた映写室で爪弾かれるギターの音は、映写室のなかの役者たちにしか聴こえない音のはずだが、そこでの芝居が終わってもギターは弾かれ続け、そのあと下手で始まる別の役者たちの芝居の上に降り積もってゆく。もちろん下手の役者たちは、別の場所にいる人たちを演じているのだから、彼らのいる場所にはその音はほんとうはないはずなのである。それは観客だけが触知できる目に見えない繋がりである。上手の役者たちと下手の役者たちは分断されている。しかし、いまここで、現に鳴っているギターの音を介して、彼らは彼らも知らぬ間に、繋がれている。
  • 私は、率直に云えば演劇があまり好きではない。眼の前に人間がいて、わちゃわちゃやっているのが嫌いなのだ。だから映画のほうがいい。しかし、こういう演劇にしかできないことをやっている舞台をみると、思わずぐっと惹きつけられる。とてもよかった。
  • 畏友SH君、ST君、UYさん、そして遅れてKS氏と京都で忘年会。けっきょく終電を逃すが、それでもまったく構わない。美術のことに就いて、とてもとても真剣に考えて、じぶんだけにできるやり方を磨いて磨いて、必死に作品をつくっている篤実な人たちと膝づめで話ができる愉しさを、どうして「終電車があるから」なんていう理由で断ち切れるだろう。SH君は、深夜二時過ぎまで、河原町マクドナルドでつきあってくれて、さらに話し込む。けっきょく、なぜまだ美術はつくられているのか、そしてつくられているそれらのなかに、彼らがつくりだすような素晴らしいものがあるのはなぜなのか、それはいったい何なのか、何をしているのか、というようなこと(それから生活のことなど)を、ふたりでぽつぽつと話す。