『ひぐらしのなく頃に』

制作:07th Expansion

ひぐらし」はゲームである。既存のコンピュータゲーム分類に当てはめるなら「アドベンチャーゲーム」である。
さらに「ネットワークゲーム」である。とすることに異論は少ないはずだ。「ひぐらし」の「ゲーム」性は多くを、単にコンピュータネットワークというだけでなくより広義の、ネットワークの存在に依存している。
簡単な解説を。「ひぐらし」ではまずプレイヤーは横溝正史作品の様な、日本の奥地に残る、都市から孤立した山村で起こる不可解な殺人事件をサウンドノベルという形で提示される。それには二つのレベルの視点が使用される。一つは語り手の圭一であり、もう一つはTIPSを見ている「誰か=プレイヤー」である。TIPSとはこのゲーム独特のシステムで、圭一の視点を超え、警察書類や、報道記事、圭一のいないところでのキャラクター同士の会話を手がかりという形で閲覧できるものである。
語り手の圭一の物語は悲劇的、サウンドノベル用語でいうならバッドエンディングな形で幕を閉じ、事件の犯人も、手口も何ら明らかにされず、手がかりらしきもの多くを放置したまま、謎は宙づりにされる。
圭一の物語を読む際、プレイヤーの意志をゲームに介入させるための「選択肢」は存在しない。プレイヤーの意志を介入できないサウンドノベルは文字通り、単なる音と絵のついた小説であり、従来のゲーム概念からするとゲームとは呼べるものではない。
しかし、これはゲームである。
先述したように、「ひぐらし」にはTIPSという視点キャラクター(主人公、ではない)の圭一が見聞きしたものを離れた手がかりが断片的に与えられる。それを元にプレイヤーは惨劇の真相を推理する。
ここで「ひぐらし」のゲーム性は発揮される。
それらはすべて、各プレイヤーの想像であり、「正解」は未だ作り手側から提示されていない。よってプレイヤー間に勝ち負けは存在しない。「ひぐらし」のゲーム性とは、勝ち負けでなく、プレイヤーが探偵になりきるというRPGやアドベンチャーにみられる「ごっこ遊び」にあり、「勝負」より「遊び, 戯れ」という英語gameの原義に最も忠実なものである。
さらに、自らの推理をコンピュータネットワークや飲み屋や、喫茶店で他のプレイヤーと披露しあうことで時間や考えを共有して楽しむことができる。「ひぐらし」が同人ゲーム、更に、ギャルゲーという「特殊」な形態をとっている以上、多くのプレイヤーは飲み屋や、喫茶店での話し仲間に恵まれず、その多くはコンピュータネットワークを介して行われる。
現在の「ひぐらし」ブームはネット上に存在する多くのプチ金田一耕助によって支えられているものである。
そしてこれはファンが勝手に盛り上がった性質のものではなく、作り手が意図し、提示した、正統な遊び方だということが*1、「ひぐらし」が紛れもなく、ネットゲームとして創られたものであることを示している。

さて、このブームを見た大手出版社が、横溝正史調で「萌え」の入ったミステリライトノベルを「問題編」、数年後に「解答編」という形で出版し、コンシューマゲームメーカーが同様の展開で「ひぐらし」を発売し、更に発売元がファン交流のサイトを用意したとして今の様なブームになるだろうか?
答えはもちろんNOである。
ひぐらし」のヒットはそれを支える、コンピュータネットとは別の、実質的なネットワークであり、一種の共同体でもある「萌え同人市場」の存在と、その「雛見沢村」のごとき連帯感との間でがっちりと結ばれた竜騎士07氏のテキストとの契りによるものだからだ。
さらに「ひぐらし」のネットゲーム性とはコンピュータネットに多くを負いながらMM(O)RPGのそれとは根本的に異なるものだ。それは
1、「中央」であるサーバーを必要とせず、あちこちに存在する、オンライン、オフラインが混在したネットワーク間の緩くも堅い繋がりによって保持されていること。仮に07thExpansionのサーバーがダウンしてもプレイヤーは「ゲーム」を続けられる。
2、プレイヤーはゲームに向かっていないときもプレイ時間として活用せざるを得ないこと。プレイヤーはパソコンに向かって無いときも、推理を展開する。これはトレーディングカードゲーマーがその時間の多くを実際のゲームプレイングではなく、「カード集め」「デッキ構築」に裂かねばならないことに近い。プレイヤーはゲームに向かってない時も、「魔術師」や「ポケモントレーナー」や「MS隊指揮官」の役割に束縛されている。「現実浸食力」はMM(O)RPGよりも大きい。
3、コミュ二ケーションの核となっているのは「物語」であること。『物語消費論』ISBN:4044191107大塚英志が提示した「物語消費」がなされていること。ここでいう物語とは普通に日本語で用いられる「ストーリー、筋書き」の意味の方に近い。MM(O)RPGには基本的に筋書きは存在せず、その世界で生活すること、それ自体が目的となっている。

の3つだ。ここからトレーディングカードゲームとTRPGというかつてブームになった二種類の「電源無しゲーム」におけるプレイヤー同士のコミュニケーションスタイルが、ネット空間に拡張したものが「ひぐらし」である。と言うこともできる。「ひぐらし」空間とは、コンピュータネットに依存するものではなく、あくまでプレイヤー同士のオフラインコミュニティ形態の拡張なのだ。
それは前述したようにテキストがもたらす強烈なモチベーションに支えられたものである。
(以下「鬼隠し編」のネタバレあり)
ひぐらし」の物語に特徴的なのはノベルゲームの内、ギャルゲーに多く見られる視点キャラクターとヒロインとのお祭り的日常における交流部分と殺人事件後のホラー的展開との体感テキスト量がほぼ等しいことだ。つまり、人が死ぬまでが長すぎる。
これが通常のドラマからすればいかにおかしいことなのかは2時間もののサスペンスと比べるとわかる。前半1時間、平和で、楽しく温泉入ってうまい料理を食い、誰も死なないなんてことはほぼ、あり得ない。
通常の作劇から考えると、お祭り的=平和な日常は、あくまで、その後の悲劇、恐怖を際だたせるための演出でしかない。そこに事件解決の手がかりが伏線として提示されることはあるにしても、物語は事件発生後の探偵の調査に多く時間の多くを裂く。通常のサスペンスでは物語中で事件が探偵によって解決される。探偵と事件が主役であり、それ以外の要素はあくまでそれの引き立て役なのだ。

そして、「ひぐらし」で提示される昭和58年を舞台にした物語それ自体のどこにもプレイヤーの代理としての探偵役キャラクターは存在しない。探偵はあくまでプレイヤー自身であり、「ひぐらし」物語は平成17年に暮らす探偵であるプレイヤーの推理のためにのみ存在する。そして都合よく操作される探偵キャラではなく、生身の存在であるプレイヤーに強い推理=事件解決へのモチベーションを与えるために必要不可欠なのが、前半の、昭和58年の山村という舞台設定をぶちこわすほどに詰め込まれたアニメ、ゲームなどの「オタク」ネタ、ネコミミ、メイドなどの「萌え」要素、部活などヒロインとのお祭り的日常からなる楽園の提示である。これにコミットできなかった人間は「ひぐらし」空間でプレイヤーとして振る舞うことはできない。プレイヤーは探偵となる以前からマニアックなネタやキャラ萌えを、作者、及び他プレイヤーと共有する楽園の住人である。楽園の住人となるためには、キャラクターと多くの時間を共に過ごす必要があるのだ。
だからこそ、殺人事件以降の展開はショッキングで、「嘘だぁっ!」の一言は楽園に住んでいたプレイヤーは一挙に奈落につきおとす。彼女の輝いた瞳にはどこまでも深い闇。裏切らないはずの楽園はプレイヤーに牙を剥く。

閉鎖的故に居心地がよかった楽園は、その閉鎖性故に、絶望を生む。
そして、絶望から楽園であった「ひぐらし」世界を救う方法として、視点キャラの圭一からプレイヤーに託されるのが「事件の解決」である。「この手紙をみた誰か」、同時に楽園を共有した同士に向けて。無念を晴らしてくれと。
だから、「ひぐらし」という手紙は同人ゲームである必要があった。
同人ゲームという流通が限られたメディアが生み出す同族意識は、一般層をターゲットとしたテレビや、たとえマニアックな内容でも一般的な流通を経由するコンシューマゲームや書籍からでは生まれない。巨費を投じた広告に踊らされたわけではなく誰もがある主体性をもって「祭り」(2ch用語のそれ)に参加する。という幻想がそこにはある。
その幻想をルールに織り込んだのが「ひぐらし」というゲームだ。
プレイヤーは「物語=推理=妄想」を紡いで「ゲーム」に参加する。それがルールなのだ。
それができるのは「オタク」ネタを理解して、レナや魅/詩音や沙都子や梨花に萌えた、雛見沢を愛する「あなた」だけなのだ。

ネット中の「ひぐらし」考
「ヲタク的日常」様
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kela/0501.html
私が「gameの原語」ですっとばしてしまった「ゲームとは?」の問いをRカイヨワ、Jホイジンガの遊戯論を引きつつ、丁寧に考えてらっしゃいます。
「A.B」様
http://ab.txt-nifty.com/ab/2005/01/post_1.html
こちらはゲームデザイナーのクロフォードとコスティキャンの説をひきながら「かけひき」とノベルゲームの「選択肢」の問題を。
「ハー○イ○ニー観察日記」様
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050119
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050127
こちらは特徴的なノベルゲームとの比較考察をされてます。「花咲くオトメのための喜遊曲」という同人作品と「ひぐらし」との「ゲーム内ゲーム」の比較が興味深いです。

自分のは大分荒いな。やはり「ゲーム」の定義的なところをきちんと考えないと。あと、ゲーマーコミュニティの問題。