天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

わが歌枕―武蔵野(2/3)

奥多摩にて

 11世紀に書かれた『更級日記』(菅原孝標女)や14世紀初めの『とはずがたり』(後深草院二条)には、武蔵野が「馬上の人物が見えないほど」に草の生い茂った土地として描かれており、当時の武蔵野の実態を想像することができる。


  ながむべし霜に枯れゆく武蔵野の露のなごりに宿る月影
                     慈円『拾玉集』
  宿りこし露のゆくへをとひかねて霜になれぬる武蔵野の月
                     『後鳥羽院集』
  武蔵野や草の原こす秋風の雲に露散る行末の空
                 藤原俊成女『俊成女集』
  忘れじの心の色や秋風の吹きと吹きぬる武蔵野の原
                   藤原家隆『壬二集』
  めぐりあはむ空ゆく月の行末もまだはるかなる武蔵野の原
                  藤原定家『拾遺愚草』
  をみなへし匂へる秋の武蔵野は常よりもなほむつましきかな
                    紀貫之後撰集
  知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ
               読人しらず『古今和歌六帖』
  武蔵野のほりかねの井もあるものを嬉しくも水の近づきにけり
                   藤原俊成『千載集』
  武蔵野やゆけども秋のはてぞなきいかなる風の末に吹くらむ
                   源通光『新古今集
  玉にぬく露はこぼれてむさし野の草の葉むすぶ秋の初風
                     西行山家集


  松陰が処刑ののちに葬られし墓地は武蔵野小塚原に
  武蔵野の露と消えにし松陰の辞世つぶやき墓に手合はす


[注]吉田松陰は処刑後、小塚原に埋められたが、後に高杉晋作らの手
  により毛利家の別邸があった太夫山(現在の東京世田谷・松蔭神社)
  に移された。山口県萩市の松陰の墓には、遺髪のみが入っているという。
  処刑前に残した次の辞世は有名。
   「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂