天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

吾輩には戒名も無い(6/8)

猫と犬

 他の歌人の作品についても見ておこう。
  枯れ葉の中へ さすらいの境涯を埋め 寒々と死んでいった猫
                  井伊文子『鷺ゆく空』
上句はかっこいいようだが、下句は野良猫としてのみじめな死に様。
  たれも知らぬ小函のなかの猫の骨テーブルの隅はサンクチュアリ
                  北沢郁子『想ひの月』
テーブルの隅においてある小函の中に、まさか猫の骨があるとは誰も思わない。それ故そこは作者にとって聖域に感じられる。
  化けるまで生きよと言ひきかせ言ひきかせゐしがどの子も猫のまま
死す                藤井常世『夜半楽』
猫は古代エジプト以来、霊獣視され、日本の俗信でも魔性のものと見られた。この歌では、猫以外のものに化ける時間がないほど早く子猫のままで死んだ、という。「言ひきかせ」のリフレインに愛情が出る。
犬との別れでは、先の島木赤彦の他に以下の例をあげよう。
  犬はここに今死にゆかん遠き坂の傾斜がふしぎに美しくして
                   真鍋美恵子『彩秋』
犬の絶命を見ることが人に与える影響。死が美を呼ぶこともある。
  わがつけし次郎といふ名のよく似合ふ犬の次郎が何せむに死ぬ
                     河野裕子『家』
次郎という名がよく似合う犬の性格を読者は考えてしまう。
  残り香も絶えて虚しき犬小屋のかたへの土にすみれ萌えをり
                   桐初音『駒草の露』
犬も成仏すると思いたい。すみれに生まれ変わったのだと。
  犬居らずなりし犬小屋とほるたび犬のかたちの闇がみじろぐ
                    丹波真人『花顔』
下句は、犬を身近に暮した人なら誰しもが経験した感覚であろう。
  室内に水ありしところ亡き犬はまたあらわれて水を飲みおり
                  高島静子『憂愁音楽』
生前に犬が水を飲んでいた室内の場所を見て、亡き犬を幻想する。
  粥に口つけなくなりて七日目の朝の地面に犬は死にたり
                   紺野裕子「短歌人
非情のようだが、獣医には見せず寿命にまかせた。下句の客観描写が身につまされて哀しい。感情表現を使わなくとも心に響く。
  骨壷に真白き犬の頭骸ありわがいくそたび撫でたる頭(かうべ)
                  小柳素子『獅子の眼(まなこ)』     
火葬にふされ骨壷に入って返って来た犬の頭蓋骨を見て、生前を思っている。上句と下句の対比による死と生の生々しい情景。