天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

古典短歌の前衛―酒井佑子論(5/11)

五味保義全歌集(短歌新聞社刊)

□古典的語法
 酒井佑子の短歌の一大特徴として歌語や古典的語法をあげる
ことができる。統計的な調査は、あまりに煩雑になるので実施
しなかったが、読者には目立つはずである。依ってきたる
ところは、短歌初心のころや大学在学中から五味保義に師事し
アララギ派に属したことにあるはずだが、なによりも岡野弘彦
師事したことの影響は大きいと思われる。
岡野の歌風は、短歌の正調にのっとり朗誦性に優れ、読んでいて
心癒やされる。それは、古き懐かしき言葉、奥床しい言葉や歌語
の使い方、柔らかな言葉使い にも依っている。
 試みに酒井佑子の歌と岡野弘彦『海のまほろば』の作品とを比較
してみよう。

  わたなかに奔る波見ゆよつおもて四国の島は天霧らひつつ
                         『地上』
  洋(わた)なかに見はるかすものみな蒼くはろばろとして空につらなる
                          岡野
  ほとほとに心死にきと透きとほる秋のもなかに立ちて嘆きぬ
                         『地上』
  戦ひのもなか遂げざりし恋ゆゑに四十ぢの末の心くるしむ
                          岡野
  ゐさらひの肉豊かにて相擁すかかれこそ額の上の白百合
                         『流連』
  れんげ田にゐさらひ白くかがまりし少女と遊ぶ夢のごとくに
                          岡野
  逆しまに限りなく堕ちてゆく夢の快楽(けらく) 遠からず吾を死なしめ
                         『流連』
  憎みつつ若き快楽(けらく)をわかちたる女をおもふしみじみとして
                          岡野
  今生のはたての角を一つ曲りかの野かの道かの駅を見む
                       『矩形の空』
  煌々と夜の白雲のわきのぼる海の涯(はたて)にわがこころ凝る
                           岡野

酒井が用いたすべての古典的品詞について、岡野の作品と比較する余裕はないが、これらの例を見てもよく吸収していることが分る。もちろんすべてを岡野から学んだというわけではないが、岡野に師事したことが古典的語法に習熟するきっかけになったことは確かであろう。

□ひらがな・漢字の工夫
 短歌が読者に与える視覚的効果においてひらがな表記は重要である。また漢
字は聴覚的効果の面からも吟味される。漢字は音韻の上で和語(歌語)と対立
するはずのものだが、その調和を見るべき。硬音軟音の妙。こうした留意点は
短歌鑑賞においてもよく取り上げられる。ひらがなや漢字の用法について、酒
井佑子が特定の歌人から学んだというつもりはないが、よく考えられている。
ひらがな使用の例
  にちえうの夕暮にして出でて来れば砂に風紋の立つ交差点
                        『地上』
  帰らずともよしと言ひ人を発たせたりはるしをん長けてうち靡く日々
  薯の葉のあらき茂りにふくふくと雨降りかやつりぐさの金の穂
                        『流連』
  山羊よそのちちふさをもて地を養へ次の世に神在らば嘉せむ
  12・1・2と数ふるこゑは柔らかく匂ふてのひらとなりわれを撫づ
                      『矩形の空』
  ペリカンのももいろののどすらすらと目の前に来てお話がと言ふ

次に漢字使用の例
  痴愚(おろか)にてあはれなりけり涙垂り洟垂りてむくろ抱き歩める
                        『地上』
  短切に鳴きて離るる夜の蝉樟の木膚の仄明る見ゆ
  不穏不軌不吉などいふ語はありて朝(あした)より吾は生き生きとせり
                        『流連』
  西へなだるる雲のささなみ水の上に赤い布団と流連の吾
  不決断と纏綿をこそわが愛し膠着語あはれ何辺(いづへ)へ運ぶ
                      『矩形の空』
  たちまちに醜形容語十あまり思ひつき昼の鏡中にをり


なお、後で解説するが、漢字の使い方によっては、小池 光が得意とするのユーモア表現に通じるところがある。