天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

山河生動 (4/13)

飯田邸

客観写生への反措定の二番目は、喩法である。特に直喩の多用が目立つ。直喩(明喩)は、比喩の中では最も簡単な形式だが、通俗の陳腐さ平凡さが現れる危険があり、よほど注意しなければならない、と初心者は教えられる。龍太はこの危険な方法に果敢に挑戦して、極意を示したといえる。
  勤めては三月夢のきゆるごとし    『百戸の谿』
三月は、「みつき」ではなく、「さんがつ」である。三月に勤めては夢が消えるのと同じだ、といっている。春三月は、まさに動植物の生命が躍動し始める夢に溢れた季節。この時期に事務室に閉じこもって仕事をするような勤めは、まったく夢が無くなる気持である。自然の中で思いのままに生活したい作者ならではの表現である。通常、若者は、就職先が決まり勤めに出ることで夢が広がる、と感じるのだが、作者の場合は逆である。
  雪山に春の夕焼瀧をなす       『百戸の谿』
「・・をなす」という表現も直喩である。春の雪山に映る夕焼の状態があたかも瀧がかかっているように見える、という。
  露の村墓域とおもふばかりなり     『百戸の谿』
「・・・するばかり」も直喩表現。露の降りた作者の住む村を墓域と感じるとは、都会に出る夢を断たれた心情であろう。
  月の道子の言葉掌に置くごとし      『童眸』
月夜の道を親子で歩いている。子供がなにやら親に話しかけている。その子供の言葉が掌に置くようだという。言葉の判りやすさ・親しさ・仲むつまじさ といった感覚を類推表現している。初五で切れる五五七の句構成。
  露の土踏んで脚透くおもひあり      『童眸』
「・・・するおもひ」も直喩である。露のびっしり敷いた土を踏むと脚が透明になってしまうような気がする。「九月十日急性小児麻痺のため次女を失ふ」との前書がある。
  秋の旅住む地を求めゆくごとく      『童眸』
秋の旅に出かけると、まるで故郷を捨てて別に住む土地を求めてゆくような気分になる、という。秋なればの思い。