「キリストを信じよ」。なぜ、ある無限定の人格を理由化するところに、「真理」の獲得、「神は真実である」の証明、人間が神に永遠に生かされる理由、悔い改めと救い、そして聖と愛あるのか。

人間の記号は、真実を語れない。真実は、人間の記号世界を全否定し、人間の記号世界に対して完全に自由だ。「信仰」が、「私が信じるからそこに信じるものあるのだ」ということを意味するのであれば、それは真実への、傲慢で惨めな冒涜である。「私はこれを、それが何であるか得体の知れない『真実』の前に信じたので、このために真実の前に死に定められても構わない」という態度は、わからないものはわからないとする態度に劣る、自暴自棄の敗北主義者の態度だ。「信仰とは、その本質が『理由化』であるから、真実のうちに何があっても構わない」というのは、「理由化」がそこに「ある」何かを認めることを前提とすることを無視した詭弁だ。「ある」ものしか、「ある」としてはならない。それが、「キリスト」なのだというのか。

「キリスト」が世界の全てを記号化した、人間自身では獲得不可能な、まさに「真実の記号による言語話者」であれば、神は確かにこの方を生かさざるを得ないということになるだろうか。ノン。シンボルは、シンボルだ。「キリスト」としての彼の一生は、弱い人々のためのパフォーマンスであったし、「キリスト」以前の時代のごく少数の人々は、十字架という「喩え」がなくとも、彼を、真実が何かを、何を信じるべきかを、何が人間存在にとっての徳であるかを悟っていた。何が、「真理」の目的であるかを。

「真理」とは、具体的な意味内容ではなくして、ことばの純正を云う。ならば、人間は何を目的・理由化することによって、これを得るのか。如何にして、ことばは真実となるのか。ことばの内容で無いとするならば、詩句は、自然に敗北する芸術である人間の記号は、ひいては聖書のそれ自体は、人間の「救い」ではない。また、キリストの「救い」とは、キリストの戒め自体にあるのでもない。例え人間が完全に忠実だったとしても、「信じよとあるから信じ、守れというから守る」というだけの奴隷であるなら、ただの可哀想な記号世界の住人に他ならない。目的の共有にこそ、「ことば」としての人間の関係性、「家族」は打ち立てられる。

では、人間が言語を捨て、それが何であれ「真実」と、「真実」からの全否定を受け入れることが、救いなのか。なるほど、記号の捨象は「真実」を認識する一つの手法であり、自己を完全に純化して「モノ」として自然に回帰する、一つの真実への聖化、愛だ。ならば、なぜキリストは人間のために死ぬのか。「君たちのくだらない記号世界は、『真実』をかくもみじめに扱うのだ」という寓意が全てだったと?また、「キリスト」の言葉が人間のための真実への感性による記号であるならば、その意義もまたなかったと?人間が無意義であれば、どうしてこれを生かす必要があるのだろうか。「キリスト」のうちに如何なる意義を人間が獲得すれば、神が人間を生かす理由になるのだろうか。

神と本質的に同じ何かであるということが、神が人間を生かす理由として、必然として、人間に求められている。ある人間の本質とは、「信仰」に関わる部分、自己の存在意義・理由、その人にとって最後に残る「ある」、美の基準にして自己純粋化、つまり聖化即愛の対象の部分にある。それが悔い改めの方向でもあるのだが、人間にとっての救いとは、人間への愛に他ならない。ならば、人間とは、何か。それが、「真実」の本質と一致しない限り、人間は「真実」という絶対的な美の捨象の対象でしかない。

"A person"。それが成立するためには、ことばは純正でなければならない。真実が真理である理由は、ここに存する。神と人間は、人格の聖を目的とすることをもって、はじめて「ことば」としての自己を愛し、真実を語ることを得る。全てのことばは、人格だけがなす意味と形の結びつきを前提とする。真実もまた例外ではなく、真実にのみ聖なる人格が成立している。「人格」こそが、真実の本質であり、目に見えぬが故に「キリスト」や「メシヤ」、「御子」などの目に見えぬ記号を形相として、動物にはない「人格」を有する人間が全ての記号を失っても「ある」と宣言できる、唯一許される「信仰」の対象だ。「信仰」とは、「ある」ものにしか許されてはいけない。(「神格」だって?それが存在を存在たらしめる能力とそこにおける感性以外の何かを指すのであれば、虚構だ。唯物だ。)

真実が真理であることによって、真実の人格は、聖であり愛だ。これを存在意義として、初めて人間は自己を有意義として認め得る。そして、同種同類の事態への一貫性、つまり権利と義務の関係によって、神に生かされ、人を愛する権利と義務を得る。人間に「聖」を求めるという愛の手法!「聖」であることを目的とする人格への愛以外の愛は、人間存在の全てを包括しないばかりか、人間を石ころや真実の価値なき記号への奴隷にし、得たいの知れない汚物にすら変える。

だが、果たしてキリストの言葉以外のうちに、私は聖なることの何たるかを知り得ただろうか。罪人である私は、「聖」に対して愛のみを捧げることはできても、その栄光の一端をも知り得てはいないのだ。私はここに、人間の知の限界を見出す。愛に対する無知とは!

οὐδὲν ἄλλο ἐπιτηδεύουσιν ἢ ἀποθνήσκειν. 彼らは死せることより以外何ものをも練習せず。


聖書という荊の冠。月日、出来事と人物、予言、諸言語の字句。それらは、たとえ話のための法則性しか持たない。それなのに、なんと多くの人々が、ありもしないことをそれらに求めてきたことだろう。なんと多くの迷信や憶測が、棘に刺さった人々のはらわたから飛び出してきたことだろう。

ギリシャ語やヘブライ語でさえ、人間のための形相に過ぎない。人間が認識できる限りの範囲内にある音波や、線・点に過ぎない。ラテン語だって?欽定訳聖書がさも権威あるように用いられていることと何の変りもあるまい。人間は聖書にない棘にも刺さる。

理性は、すべてを焼き尽くす火だ。それは血縁と肉体関係を燃やし、民族を燃やし、自然のあらゆる意義を灰にする。人間の国家はそこに打ち立てられ、互いに燃え移る。貨幣も金銀からの灰によって鋳造される。ならば、人間の理性は灰以外の何を所有しているというのか。人間の腕が動くのは、人間が「動け」と命じるからではない。人間に、そのような神性はない。人間の知者とは、灰の塊のことだ。

どうして、肉体が人間の目的になろうか。どうして、人間の理性に血縁の関係があろうか。物事の順序を以て物事を考察し分類することは、家畜のすることだ。帰納法とは奴隷の思考に過ぎぬ。目的因の共有・相続に家族は形成される。「理由」とは、定義ではなく、定義と体系の構築を為す一つの目的である。定義に服従するのは「女」と「奴隷」。定義を定めるものは「王」、相続者は「子」と呼ばれる。確かに自然にはそれ自体の内部に定まった順序・対比関係という秩序を有するが、それらの順序・対比の内に、自然が自然であることの理由はない。理性は、自然の意義に先立つ。何者かの理性が、自然を定義した。人間が点と線にあらゆる意味を吹き込むように。人格だけが、創造するからだ。人格の目的とは、聖である。故に、一つの真実の王は唯一である。

自然の「ある」を求めて食物のために争いが起こり、人間の記号によって灰となった領土や貨幣のためにも争いは起こる。記号と存在が同一視されて種種の体液の排出衝動が精神の所産とされたり、記号の取り扱いによる形而上の顛末が身体の働きによるものと説明される。自然の「ある」、記号認識の対象・形相の「ある」、意味の「ある」とも異なる人間の霊の「ある」は、かくして狂気に走る。そのありのままに愛されながら、死に走る。

ἐλεύθρον ἀδύνατον εἶναι τὸν πάθεσι δουλεύοντα, καὶ ὑπὸ παθῶν κρατούμενον. 激情に屈従し、激情によつて支配せらるる者は自由たる能わず。


「キリストを信じよ。」。キリストとは何か。信じる対象に関する知識の多少は、確かに信仰の有無に関係しない。ならば、「キリスト」とは何か。“Who I am.”しか残らないのではないか。

その人の真実に少しでも矛盾や虚偽が含まれるならば、その人にとっての神は、「ない」によって限定される。「ない」がその人にとっての「御子」であり、そこに聖=愛、すなわち御子=主題への純化が始まる。かくして、無限定の「神」と限定要素の「御子」と聖への霊感の内に、一つの真実・言語が創造されるのだ。「御子」が石ころであるならば、 石ころという主題のために世界は純化される。

人間のわずかな不完全はそれだけで、“Who I am.”という義を、美を、真実を殺す。“Who I am.”が正しさだけをその栄光とするなら、人間は滅ぶためだけに創造された。しかし「キリスト」という“Who I am.”は、人間を赦すための、人間に対して聖であるための“Who I am.”であり、そのために、人間の罪に裂かれたのだ。人間は、ここに実に全てをキリストに奪われた。

見たまえ。人間がその罪の表現を含め―実際には人間の記号は存在ではなく、人間が悪と呼ぶものは全て人間の記号の失敗であり、人間の死は人間の不完全への正当な報酬なのだが―、そのありのままのことごとくを如何に愛されているかを。ここに神の怒りは忍耐される。しかし、完全者の憎しみは、その完全が意識されるところに、消却される。その裁きは、全て徳―時宜に然るべき、程度に然るべき、作法に然るべき、表現と表現への意思即ち敬虔さに然るべき仕方―による。

人間の神への恐れは、何と価値あることだろう。どれだけ殺されれば、その敬虔さの限界が関西弁の聖書や卑屈さに帰着するようなことがなくなるのだろう。どれだけ間違えれば、人間の“I am.”が、「ある」よりもむしろ常に「ない」に終焉するところに、完全者への侮辱を悟るのだろう。少なくともここに一つの事実という言語を認めるのであれば、人格のみが言語を想像する以上、事実の「ある」によって限定される神の人格と、記号から存在への境界線の奥の神秘、神の神性を悟れるはずであるし、「御子」=事実という一義のために必然として唯一の主題のために、人間の人格がここに無限定の状態で生み出されている以上、「御子」が石ころや「ない」ではなく、少なくとも人間を滅ぼすためであれ憐れむためであれ、義としての、「ある」としての“Who I am.”であることは明らかであるのに、人間は真実に矛盾や虚構、多義的世界という存在不可能性を許容するのである。人間は少なくとも、たった今、赦されている。

「多く赦された者は多く愛する。」だから、人間は悔い改めて、その砕かれた心を神に捧げなければならない。赦しは、悔い改めを前提とし、悔い改めは、「ある」方とそれを裂いた人間たちの「ない」を前提とするからだ。かくして、御子は人の全てとなり、全ては一つになる。

なぜ、人間は愛されることを拒むのだろう。なぜ、人間は愛することを希望しないのだろう。なぜ、人間は、真実が「ある」ということを、神が真実であることを信じないのだろう。それこそが、正義を受け入れこれを傷つけることを恐れることであり、聖への讃美であり、人間の砕かれた心のための、いのちであるのに。太古の昔から、これらのことは全ての人の眼前に常に明らかなのに。

Βρεκεκεκὲξ κοὰξ κοάξ. ブレケケケックス,コアクス,コアクス(蛙の鳴き声)。


人間の世界の記号性を、その二次元の描写に見事に表現した浮世絵は、それまでの自然の学術的・古典的描写に対立し、人間の精神性の描写を目指したヨーロッパの芸術家たちに影響と共感をもたらした。

現代においても、日本で最も優れているとされる人物が、「誇るべき日本人の思想」を著した。ごく最近出版されたその本の内容を、やや脚色して、以下に紹介したい。

「矛盾[無宗教]こそが、世界を一つにする。なぜなら、矛盾こそが、別々の事柄を一つにするからだ。この矛盾の内にこそ、平和が訪れる。矛盾は、何も否定しないからだ。複数の形相で一つの身体を扱うことになるため、笑いがその快活な証拠である。成熟した含みのある会話はお手のもの。「美」という排他性もその中に一緒くたに分別してある。「妥協」の隣、つまり、ロックだ。一瞬だけ望まれる火花のような生だから、ありがたみが感じられる。矛盾という真実によって限定される神は、いい加減にふざけた奴だ。矛盾の内に何かが生まれるわけはないから、そんなものがいるわけもない。」

浮世絵の詩情は、「芸術品自身が自らを記号として表現する重複、かつ真実の告白」と言える。彼は実に見事な浮世絵師だ。哲学が「どうとでもなる正当化」になるのは、物事の定義を変えながら物事を論じるからだが、彼は矛盾(「無宗教」)を真実とすることで、世界を浮世絵にして見せた。人間の記号の実在化の表現という、―彼には表現の自覚はないだろうけど―歌舞伎でもある。それは常に、滑稽だ。

しかし、真実を求めた哲学者たちの弁護はしておこう。人間が好き勝手に色を塗りたくるキャンバスにしている真実は、それが如何なる意味をもっていようとも、その意味は全にして一の形に結び付けられている。その実在における結びつきは、記号までしか許されていない人間には神秘だ。その神秘の内に、アリストテレスデカルトたちは、唯一の神を無限定として見出したのだ。彼らは、意味と形を結びつけること自体が、「人格」の本質であることを知っていた。(宗教学者たちなら、真実における整合の完全性から、その完全な精神を「神格」とも称して区別するだろうけど。)

面白いことだ。神が定義した真実は少なくとも、人間の精神をたんぱく質の塊に結び付け、人間の精神に肉の塊の定義を変えることを許し、そうして造らせた言語で神を否定することだったのだから。芸術における主題の美は、その純粋による捨象性の対象を常に求められる。

「この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」

τὰ πεπραγμέν’ αὐτὰ βοᾷ. 為されたる事(事実)自らが叫ぶ。


彼女は「女の方」と呼ばれ、母親扱いされなかった。
訪ねて行っても、キリストに家族ではないと言われた。
ついには、十字架上のキリストに、母子の関係の終焉を宣言された。

キリストの遺骸を抱く彼女が、美術における表現において「美」として、他を捨象する純粋としての「ある」として表現されるのは、全く正しい。

「女の内で最も祝福された者」は、「悲しみなさい。『産んだことのない胎は幸せだ』という
日が来るから。」という者の母だった。女を情欲の目で見ただけで姦淫だという者の母だった。すべてを新しくして、律法の完成を成す者の母だった。自然における血縁関係という暴力、自然における意味と形の結びつきをかつて定め、また更新しようとする者の母だった。

だから、キリストが死ななければ、彼女は女性でも母でもあれなかった。
十字架上に残された「ことば」の家族ではなかったからだ。

記号の領域を出ない人間の法が、存在意義を失った罪人が、塵に意味づけられた国家が、人に動物を要求する自然が、キリストを殺さなければならなかったように、マリアが母であるためには、キリストの死が必要だった。

芸術において人間の記号の形相を表現するにあたって、真っ先に数が、捨象される。数の量や順序における競争こそが俗の本質であるから、芸術は常に、定義の一貫性と、作品内の他のすべての要素を捨象する一つの主題を求める高貴さを帯びる。

キリストの言葉には、永遠の愛のみがある。すべては、その表現に過ぎない。

彼は永遠を過ごすために、海の砂のように多い家族がほしいのだ。

しかし、英知が最後に敗北するのは、人間の主題の選択における不可侵の自由だ。だから、ひとりの愚かな人間の愛は、全世界よりも価値がある。英知も富も、すべてを捨てても信じるに値するのは、キリストの愛である。

キリストは、あなたのために、十字架にかかったのだ。

πῖνε, παῖζε θνηπὸ ὁ βίος, ὀλίγος οὑπὶ γῇ χρόνος ἀθάνατος ἐστιν, ἂν ἅπαξ τις ἀποθάνῃ. 飲め,戯れよ.生命は死すべきもの,地上の時は少し.もし一度人が死すれば、死は不死なり.


この思想を徹底させている人はそういないから、憚りながらも言語化してあげよう。その人が自分のことを塵ではなく人と言っている限り、その俗人にとっては有益だろう。目的の純粋から来る一貫性を与えてあげよう。それを本当に望むことが信仰の動機を得るということだろうから。

「58億年もすれば自然とても崩壊するだろう。そうすればあらゆるものが空(っぽ)の心を獲得する。無自我こそが、精神の究極であり、人は自然の意義すら捨象することで、仏(物)の心を獲得し、物を自我とし、諸行無常の万象と調和して安寧を得る。あらゆる「ことば」が否定されれば、全てが一つになる。それが唯一の救いである。」

「我々にとっては如何なる人間の言葉も価値がないのだから、どんな人間に対しても怒りも罪悪感も一切湧かないし、互いに息を吐くだけのことであるから、完全に調和がとれ、相手を否定することは決してない。殺されることにだって耐えて見せる。我々の本質は物でしかないのだから。だから、我々の慈悲は超越的で、何であれ何でもいいのだから何でも包み込むことができる。我々こそが、最も平和的だ。」

「単純作業をするときの状態が最も素晴らしい。身体の動作だけを意識していられる至福の時だ。まるで移ろいゆく万象に調和したかのようだから。」

言論の自由と平和の両立は、複数の言論が、複数であることそれ自体で互いに完全に否定し合っていることが認められながらも、その状態が法によって表現されないように法が限定されている状態の成立に他ならない。これに対し、この思想は断固として完全を指向する意志を拒絶するはずだ。そのはずなのに、「布教の大波を起こしてみせる」なんていう暑苦しい文面を見かけると、間抜け過ぎてげんなりする。

「さあ、この思想に永遠を求めて人類すべてを救おう。頭がからっぽの状態こそが我々の理想だから、意味がわからなくてもつぶやいていることを信じたまえ。そのうち、言葉を求めること自体が無意義だと知って、安心することだろう。」

「どんな不条理にあい、どんなに辛いことがあっても、どんな虚構や矛盾に遭っても、塵に過ぎない人間であるということを楽しみ、これに感動したまえ。どうでもいいことに執着して自殺したりするのは何とも情けない。生きていればいいことだってあるのだから、人生というのは永遠や死を求めるようなものではない。」

「そう、我々は理解することを求めない。理解できるものは存在の条件を満たしてしまう。愛情だけが残るために笑いを求めるように、ナンセンスだけが残るために我々は微笑を求める。」

「石像や木像を理想の無自我の姿として崇めながら、愛や徳を語るナンセンスに、我々の栄光がある。無私にして相手の主題に合わせることで、仮象的・霊的な自己をないがしろにできる。こうして人間が意味を定置する対象である物を、物事の本質とすることで、目に見えない意味の世界から解脱する。」

「形・用語こそが物事の本質とする点で、我々は俗に近い。定義された意味とその一貫・整合の高貴よりも、数量とその順位の先後を求める俗が、我々にとっては「ことば」としての人間の本質に見える。過ぎ去る万象こそが、人間の心とすべきもの、形をとったものに初めて数が生まれるのだから。そして目に見えぬ意味を無くせば、「形」という意味なくして在れぬ形は、一切存在できぬ。58億年もすればやってくるはずの自然の崩壊こそが、未来における完全な救い、仏(物)心の権限である。」

「我々はとても苦しい。愛とは我々の本質から出るものではなく、万象過ぎさって愛だけが残ることを求めるのではなくして、すべてのことばが無くなって、もはや意味を失ったために「在る」ことができなくなった「物」を求めているのだから。愛も何も、すべてが重荷である。「死ねばいいのだ。」とも我々は言わぬ。男らしく泣き叫んで悔い改めることは我々の流儀に反するから、痛いのは嫌だと言って、女子供のようにきょとんとしていたい。だから、我々は何ものをも否定することなく、何ものをも愛することができる。必然、苦痛であるから、もし死ぬことができたら、塵に還れたらありがたい。そこには塵しかないのだから、生も死も一つ(のカテゴリー)である。それらは仮象的で、存在ではない。だから、我々にとっては生も死もないも同然である。」

結局のところ。これは真理を求めない人々の救いだった。「ことば」としての自らの主題の決定である信仰こそが、記号を存在とする神に相対するか、あるいは一致する人間の価値と認識しながらも、彼らは、その信仰を以てその価値を捨て去ることを決意したのだ。

彼らがここに書かれていることを否定する時は、彼らが一貫性を失っている時か、上記の括弧内の思考を完全に捨てる時だろう。「私も塵に還る身だからことばを扱うなんてことは憚るけれども、君も塵に還るのだよ。」というせっかちがある場合は、目に見えぬ私のことを彼らが塵と考えているなら、彼らにしてみても余計な御世話のはずだ。そんなものをヤかないでも、記号のために使っているこの塵はいずれどこかに行く。

永遠の愛を求めるなんてことは、彼らにしてみれば悪意に他ならないだろうから、彼らにとっても善であるとするのはやめておこう。

ὗς ἐκώμασε. 豚が騒ぐ;傲慢に振舞ふ。


君たちは結局、「物」になりたいのだ。だから、結婚が、仮象的もとい霊的な人間の、肉体の自然における意義を排他する、言語という身体の共有であることを、ひいては王権という存在への所有権の共有であることに気づかない。

そんな君たちから、どうやったら永遠の愛なんてものが手に入るのだろう。いや、愛に、存在意義の共有に、その場限りでも喜びを感じているなら、その感情が善悪の知識つまるところの―一般という意味ではなく、完全という意味での―普遍性、永遠性への感性と要求から生じているものである限り、それは確かに永遠の愛なのだ。だが、いいか、よく聞けよ。その愛は、裏切りを前提としているじゃないか。

殺してくれ。それが君たちの正しさだ。私は、人権家たちの言う価値観の多様性が、目的の相違による無関係という互いに死の関係であること、それを実現するための民主主義的怜悧さは、法における範囲を共通項まで限定するだけのものでしかないことを述べた。そこに法の思想性は、飲み食いぐらいしか残らない。君たちがその肉体以外の言語を有していない「ことば」である動物と同等であるというなら、私はそんな風に永遠の愛を捧げる君たちが虫けらに見える。

人間の記号が存在にはなり得ないことを、人間には「あれ」という神性は備わってはおらず、人間の法の執行が不可能であることをもって、どこにも聖なる土地も遺物も血筋もないことを、ひいてはあらゆる国家の普遍性を否定した。キリストの身体的苦痛というただの用語がそれ自体では何の意味も成さないことに気づけない人間、十字架上で廃棄されたマリア女史とイエスの血縁や、象徴に過ぎないものに存在を求めて「聖変化」なんてものを求めたり、キリスト自身が廃棄した世界の塵を「聖地」と呼んで愛すべき敵を殺しに出かける律法学者たちは、こぞって私を殺しに来てくれなければならない。

ただ残念ながら、身体の言語化によって作成される自我を、自己の言語を移り行く「物」とすることですっからかんにして平安を得ようとする、その死の礼賛故に虚構を作成し放題の日本の宗教は、人間のあらゆる美徳を称賛しながらも結局は全てを記号化されないままのまっさらの「物」として扱うわけだから、私を殺しに来る資格すら失っている。偶像崇拝すらきちんとできないわけだ。塵に還るのだろう。

我々は憎み合うのが正しい。自己の存在意義を不自由や恣意によってでも、真実にすら先立たせて―とはいってもその人間に真実が先立っているのだから、人間が真実に不一致であるのは全く不当なのだが―選択する「ことば」である人間は、ひとたびそれを定めたら全世界と全歴史と全人類に相対せねばならぬ。記号に存在を求めて旧約時代のように法に敗北するもよし、自己の肉体のみを言語とするもよし、虚構を作成して存在の意義を形而上ですでに失うもよし、塵に還るもよし、好きにしたまえ。しかし、そうしたことを語り合えないような、我々が互いに相反していることすら認めることができないような社会の言論の状況とは、狭量以外の何ものでもあるまい。「ここは宗教を語る場ではない」「何らかの思想や信条の批判は禁止」と君たちはよく言う。では、君たちは生涯「人間」を語ってはならぬ。

人間の知性は、人間の言語が、誰かが一生をかけてやっと知り得たことを数時間かそこらで知性に認識させることを、目の当たりにする。それなのに、君たちは何も見ようとはしないし、何も聞きもしない。時々、憎悪に駆られて「彼らが八つ裂きになるのを見るのが楽しみだ」と思うことがあると、正直に言っておこう。