塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

「クレオール事始」西成彦

ウェブログの心理学クレオール事始カリブ海クレオールの言葉による文学や音楽にふれつつ、間にフレンチクレオールの初級文法を解説。フランス語からクレオール語への音韻の変化の説明が興味深いし、声に出してみるとおもしろい。日本に来る前にマルチニーク諸島を歩いた、ラフカディオ・ハーンの仕事もわかる。いろいろおもしろかったり、知らないことばかりだったので抜き書きです。

p5 「おれはクレオールだ」と口にすることで、日本人だとか、在日だとか、アイヌだとか、ウチナンチュウだとか、想像上のエスニック共同体に媚びるような自己定義を回避することができるかもしれない。

北海道にいるからか、「日本人です」っていいづらい。とりあえず日本語使用者です、という感じ。かつて、岡山に行ったとき、「よく来んさったねぇ。疲れんさったじゃろが。北海道はええとこやねぇ、アメリカみたいや。」と言われた。あらーそうなのね、やっぱり。たまたまわたしは母語が一つで、ずっと同じ場所にいるけれど、そうじゃない状況に興味がある。

p8 言語と発話者の関係は相互的である。発話者は言語(ラング)を酷使しながら、発話(パロール)を実現するわけだが、同時に、歴史的な構築物である言語は、発話を介して、みずからを表現する。発話者が存在するということは、言語がそれ自体の使者=代弁者(ポルトトロール)を有するということだ。言語は発話者を「通訳=口寄せ」に用いることで、はじめてみずからの歴史を語りうるのだ。


p163 「いつ・どこで・だれが・なにを・どんなふうに」というふうに理路整然と語るのも語りには違いないが、これはなんだか国語の時間の作文めいている。その一方で、ふとしたきっかけから自由な文脈でわき出るように語られる語りは、想像以上に雄弁で、かつ証言としての豊かさを秘めている。


p93 とにかくおしゃべりが好きな女中は、ひとりで料理しながらでも、ぺちゃくちゃ囀っている。誰としゃべっているのかと尋ねると、自分の体に話しているんだという。

先日「ウェブログの心理学」を読んでブログのはたらきについて考えていたわけですが、「自分の体に話している」というのはおもしろいですね。ブログを書く行為とちょっと関係あるかな。ブログの場合は「体」というところが弱いかな。「ウェブログの心理学」の中に、

p161 ウェブログは個人にとっての記録であると同時に、時代の記録でもあるのである。日々の断片的な記録であっても、それがある程度蓄積されていくと、個人にとって懐かしい思い出となるように、多くの人がこつこつと書き連ねていくウェブログが、やがては時代の貴重な証言となる可能性は十分ある。またそうやって蓄積されたウェブログをデータベースとして活用することで歴史の流れが読みとれるようになる時代が必ずくるはずである。

というところがあった。ウェブログは「採話者」なき「聞き書き」とも言えるかしら。聖書の使徒行録(使徒行伝)の中の、「聖霊降臨」で、それぞれちがった言語を話す人びとの上に聖霊が降りてきて、ちがう言葉を使っているにもかかわらず、話が通じるようになるというのがある。とても好きなシーンだ。ざわめく言葉。異質な言葉の交換を可能にしてしまう「聖霊」。ネットのなかのウェブログのざわめき。ネットに降りた「聖霊」は何だろう…。
ふたたび、「クレオール事始」より。

p167私たちの世界は、事件の連鎖であり、事件をめぐる当事者および部外者、よってたかってのおしゃべりの束なのである。

ところで、アメリカ南部って、もとフランス語やクレオール語がベースにあるんですね。この本はそういうところにもふれてますよ、ヤミィ先生。「緋文字」もちょっとだけ出てきた。

みうらじゅんの選曲CD3枚

http://www.r-sliders.com/mj.html

京都の恋 京都フェロモン菩薩

京都の恋 京都フェロモン菩薩

タイトルがすごいですね。