本気で議論したい場合ってそれほど多くない

 ブログ論とか大嫌いなんですが*1、もう少しだけ。たとえば、この前書いた【ネット上で誰かと「理解しあおう」としても無駄な理由】という記事*2は、ブクマを集めたけれど、前回の記事で言う【1.学問のルール】に厳密に則ってはいないし、そもそも「論」とすら呼べない。

 本気で議論をする(論を立てる)つもりならば、人格批判を止め論理とデータに基づくだけではダメで、少なくとも次の二つの作業が書き手に要求される。

1.先行議論の調査(これまであるトピックに対してネット上でどのような議論が行われてきたのかを調べて、自分の主張が過去の誰かが議論したことと重複していないかチェックしてみて、過去の議論の流れのどこに自分の主張が位置づけられるのかを明記する作業)
2.語の厳密な定義(日常的な用語を自分がどのような意味において用いているのかを明記する作業。)*3

 前回の記事は、1も2も満たしていない。だから、飲み屋で友人に「こういう話ってあるよねぇ?」と与太話をこぼしているレベルの文章だといえる(心情的共感を訴えかけた文章)。1と2をともに満たそうとすると、莫大な時間がかかる*4。これをきちっとやっている人は、本当に尊敬する。自分にとってブログ(ネット)はあくまで趣味の一つであり、多くても1日1時間以上かけたくはない。だから、心底切実な問題について書く時をのぞけば、そもそも自分は「論じよう」とはしていないのだと思う*5。で、そういう人は、きっと多いんだろうなぁって感じる。根拠はないけれど。

 では、【きちんと論じようとしないこと】(先行議論の調査&語の厳密な定義を行わずに記事を書こうとすること)は悪いことなんだろうか?別の言い方をすれば、「きちんと論じようとしないならばチラシの裏(プライベートモード)にでも書いとけやボケ」ということになるのだろうか?んなこたーない。ネットはリアル社会の縮図なのだから、誰が何をどのように書いたっていい。飲み屋で愚痴をこぼすことを咎められるイワレはない。もちろん、きちっと「論じる」人は尊敬されてしかるべきだし、繊細なトピックを軽々しく扱えば批判が飛んでくるのは当然だ(たとえば中国人に対する差別的な発言を飲み屋で行っているとき、隣に中国人が座っていれば、喧嘩になって当然だろう)。しかし、ある人間が自分のブログをどのように用いようとも、それは基本的に自由だといえる。

 あるトピックに対して日夜情熱を燃やしている人もいれば、緩い関心を持っている程度の人もいる。さまざまな人がいる。でも、ネットでは、「ここは飲み屋ですよ」「ここはシンポジウム会場ですよ」といった具合に、環境に傾斜がかかっていない。ブログはフラットな世界に点在している。だから、時に、熱意の非対称性が軋轢を生む。さらに、はてブは、しばしば【飲み屋での会話に聞き耳をそば立てていてそれを公衆の面前に晒す覆面警察官】みたいな役割を果たす。これがはてブの鬱陶しさ。

 でもまぁ、ぶっちゃけて言えば、最終的にはマーケットの原理が働いて、しかるべきブログにはしかるべき読者がつくようになるんですよ。ブログに真剣な「議論」や「役立ち」を求めている人はそれなりのブログを読むようになるし、ブログに軽いエッセイ(人生のちょっとしたヒント)や感情的共感を求めている人はそのようなレベルで文章を書くブログを読むようになるし、ブログに興奮を求めている人は煽り系のブログを読むようになる。だから、ブログ論を真剣に語ってもそれほど意味があるとは思えない、という結論にふたたび落ち着くのでした。

*1:誰もが好き勝手に、自由に使えば良いのだから

*2:http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080307/1204868889

*3:前回の記事では、「理解」「コミュニケーション」「共感」といった語がきちっと定義されていない。たとえばジジェクを読んでいる人ならば「コミュニケーションに失敗はそもそもありえない」と言うだろうし、『他者といる技法』を読んでいる人ならば「原理的な水準で<他者を理解すること>などありえないけれども、実践的な水準ではあり得る」というだろう。どのような意味において「理解」という言葉を用いているのかを明示しなければ、生産的な議論は誘発されない)

*4:ある学問分野内での「論文」とは異なり、ブログでは、読者があらかじめどのような背景知識を持っているか謎なので、丁寧に長々と説明しなければならないから

*5:悪い言い方をすれば「言葉遊び」、良い言い方をすれば「言語的毛繕い(verbal grooming)」。もちろん記事によって「本気度」は違ったりする。そもそも、文章を書くという行為は、それだけで自己解放的なカタルシスを持つし、誰かのコメントによって視野が広がればさらに嬉しい。