言葉という指先

 以前、言葉の無力さを嘆き、こう書いた。

 人間が無意識で処理できる情報量は膨大(一秒当たり数兆ビット)であるのに対して、意識で処理できる情報量は極めて少なく(一秒あたり十数ビット)、人間の「心」はまず何よりも無意識的・自動的なプロセスに支えられて認知・行動しているといえる。だから、意識レベルでの「言葉しか使えない」コミュニケーションは、基本的には失敗を運命づけられている。
http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080307/1204868889

 しかし、増田を読んでいたら、このような文章に出会った。

「声が出ないと悲惨だよ。」
http://anond.hatelabo.jp/20080304101136

ご存じのように、人間はコミュニケーションのほとんどをボディランゲージで行っている。
したがって、声がでなくてもある程度は伝えることができる。
だが問題は、正確に伝わらないことなのだ。
不正確なくせにいろいろ大量に伝わってしまうのだ。これは困る。
身振りって便利なコミュニケーション手段ではあるが、身振りによる誤解を補うための
言葉があって初めてその便利さが十全に機能するのだ。
そのことをここで強調したい。

 「ほとんど」伝わることと、「正確に」伝わることのちがい。非言語的なコミュニケーションはおおまかな方向性を指し示す。彼は快を感じているの、それとも不快に疼いているの?彼女は怒っているの?泣いてるの?笑ってるの?喜んでるの?…これらは言葉がなくてもわかる。言葉なしに、ある程度のベクトルは伝わってくる。言葉抜きでも、ベクトルの方向性を真逆に読み違えてしまうことはない。でも、言葉が存在してはじめて、わたしたちは伝えたい相手に投げかけるベクトルの振幅を狭めることができる。

 よくサッカーの試合を想起する。言葉がなくても、ゴールポストの方向に向かって球を蹴ることはできる。誰でも蹴れる。自分だって蹴れる。しかし、白いゴールポストの枠内に蹴り込むためには、そして何よりもゴールキーパーが突き出した右手の30cm上を精確な弾道で射貫くためには、言葉がなんとしても必要だ。蹴り出した球が最終的に着地するとき、わずか30cmの違いが、コミュニケーションの成否を決したりもするのだ。

 だから、想う。フリーキックの名手が足の指先に全神経を集中するように、言葉という指先を全力で研ぎ澄ましていきたいな、と。

(追記)この増田さん、手話を勉強しなよ!「世界的な研究者になるつもりだった」と、過去に未練を持っているならば。部外者の傲慢な意見かもしれないけれど、”not A”(言葉がない)ではなく”B”(手話がある)という認識を持てるようになれば、そして両方の立場を知っている強みを持つ人間になれるのであれば、世界に対してただ単にネガティブではない自分なりの接し方を発見できるんじゃないかな、と思う。